15
翌日は土曜日だったが、毎日が休みのような俺にとってはまったくといっていいほど関係が無く、とりあえず目が覚めたので猛が起きるのと一緒に俺もベッドから起き上がった。
そして昨夜は夢も見ないほど深い眠りに落ちたのか、目覚めた時やけに意識はすっきりとしていた。そのせいか俺は朝から気分が良かった。
猛が身支度するのを横目に俺もベッドから下り、顔を洗いに洗面所へ向かう。
全ての支度を終えてからリビングに顔を出せば猛はリビングには居らず、玄関先で誰かと話しているようだった。
微かに聞こえてくる声を気にすることもなくソファに腰を下ろした俺は何となく違和感を覚えてぐるりとリビング内を見回す。
「…いない?」
そこで感じていた違和感の正体に気付いた。普段だったら猛が出掛けるまで上総あたりがキッチンに立ち、朝食の支度をしている。もしくは俺の分だけラップがかけられテーブルの上に置かれている…のだが、今日に限って何故かどちらもその姿は無かった。
「まだ寝惚けてるのか」
キッチンの方を見たままぼぅっと考え事をしていれば玄関から戻ってきた猛が声を掛けてくる。惚けてないと言いながら振り向いた俺は猛の手にあったトレイにあ…、と一言声を漏らした。
「朝食だ」
猛の手に握られていたトレイには焼きたてとみられるパン、目玉焼きにかりかりに焼いたベーコン。サラダにスープと二人分の朝食が乗せられていた。
テーブルの上にトレイが下ろされると二人分の朝食が食卓に並べられる。
「これって…」
「冷めない内に食え」
戸惑う俺を他所に朝食を並べ終えると猛は俺の隣に腰を下ろし、いただきますの挨拶もなくさっさと食べ始める。それに倣うように俺もパンに手を伸ばして、疑問を口に出した。
「今日、上総は?」
「アイツもあれで忙しい」
「じゃぁさっき玄関で話してたのは…」
「うちで厨房を任せてる人間だ。朝食を作らせて持ってこさせた」
「ふぅん…」
うち、という表現がいまいち分からなかったが、聞き返すほどのことでもないだろうと俺はスルーしてフォークを手に取る。それ以上無駄な事を訊かない俺に猛はちらりと目を向けたが結局何も言わず静かに朝食の時は過ぎて行った。
「昼には日向を寄越す。食べたいものがあったら日向に言え」
「猛は…」
「残念ながら仕事だ。今夜も遅くなるとは思うがお前は出来るだけ起きていろ」
出掛ける猛を自然と玄関で見送る形になった俺はあれこれ命令してくる猛に眉を寄せる。
「それは俺にアンタの帰りを起きて待ってろってことか?」
「そうだ。どうせ寝れやしねぇんだ。無駄に寝て魘されるより大人しく俺の帰りを待ってろ」
いいな、と否やを言わせぬ口調で上から言葉を落とされ微かな反発心が頭をもたげる。
「守れるかどうか俺は知らないぜ」
眠くなったら寝ると言外に含みを持たせて返せば猛は口端に笑みを乗せた。
「いいや、お前は起きてる」
「どう…」
玄関先で何をやっているのか、持ち上げられた猛の右手が俺の頬に触れて親指の腹がそっと優しく目元をなぞる。
「お前自身よりお前のことは把握してるつもりだ」
「な…っんだよそれ」
ざわざわと奇妙に騒ぎだした胸元に俺は落ち着きをなくして、目元をなぞった指先をぱしりと手の甲で払う。
「勝手に知った風な口を聞くな」
猛は払われた手を下ろし、睨み付けた俺に対して怒りもせず凪いだ眼差しを向けてきた。
「……何だよ?」
ふっと息を漏らして猛は振り払った腕につけていた時計で時間を確認すると俺には答えず背を向ける。
「時間切れだ。行ってくる」
「ぁ…あぁ。いってらっしゃ…」
い、と続けようとして俺はハッと我に返って慌てて口をつぐんだ。
俺は別に猛を見送る為に玄関まで出てきたわけではない。ただ話をしていた流れで。
途中で途切れた言葉に猛は肩越しにちらと目を向け、その胸の内の葛藤を見透かしてか、それ以上は何も言わずに玄関から出て行く。
目の前で閉まった玄関扉に、やがて玄関の内側に静寂が訪れる。
「………」
俺はポツリと玄関に一人取り残され、閉まった玄関の扉から足元に視線を落とした。
「…知った風な口聞くな、か。それは俺も一緒の癖に」
結局俺はまだ猛について何も知らないままだ。
小さな呟きを落として、胸の中に残った奇妙なざわつきを振り払うように踵を返した。
戻ってきたリビングの中には先程まで側にいた猛の気配が仄かに感じられ、俺は自室には戻らずリビングのソファに腰を下ろす。
テーブルの端に重ねて置いたトレイと皿に目を止め、やることもないしと片手で持てる分だけ持って流し台へと運ぶ。
「ざっと水に通しとけばいいか」
片手ではやはり限度があるので皿を落とさぬよう軽く水通しをするだけにして後はそのままにして置こうと簡単な片付けに取り掛かった。
それでも時間は有り余ってしまい、俺は暇を持て余す。
ソファに座り一人、ぼんやりと考えるのはやはりこれからのことと猛のことだった。
「………」
ぐるぐると出口の見えない迷路に嵌まってしまったようで幾ら考えても答えは出ない。
特に猛のことに関しては、猛に関わると自分自身のことも曖昧になってしまい、何も信じられない。
それでも猛は、俺自身が信じられなくなった俺ごと愛すると―…。
みっともなく泣いて縋った自分の滑稽な姿と同時に言葉通り全てを包み込むように抱き締めてきた猛の温もりを思い起こして身体がふるりと震える。
今度は気のせいでもなく小さく疼いた胸の異変に、震えた身体を片手できゅっと抱き締めた。
「――っ」
これ以上思い返してはいけないと頭の中で冷静な俺が囁き、思い返した映像を振り払うように頭を左右に振る。
「…絶対なんてことは何処にもない」
《信じると決めたなら疑うな。俺はお前に嘘は吐かねぇ》
しかし、呟いた言葉は直ぐさま脳内で囁かれた声に掻き消されてしまう。
《それとも…愛されてる実感が欲しいか?》
優しいとは言い難い強引さで触れてくる猛の熱まで思い起こしてしまい、きゅぅと胸が締め付けられるように苦しくなる。
「っ、…ダメ…だ。駄目…」
駄目なんだ、と込み上げる感情を押さえ付けるように己の身体を抱き締める腕に力をいれ、視界を閉ざすようにキツく瞼を閉じる。
愛されたいと望んだ心は与えられたぬくもりに喜び震え、寂しいという感情を揺り起こした。
そしてその寂しいと訴える心の中にひっそりと紛れ込むように生まれた感情がまた一つ俺の心を不安定に掻き乱す。
「…愛されるだけで十分だ。…それ以上は何も望まない」
引き摺られるように眠りから覚めたこの感情はきっと俺を狂わせる。
一度殺意に変わった愛情より深く激しいこの感情を何て呼べばいいのか分からないが、決して認めてはならないと酷く冷めた目をした俺が言う。
アイツにとって俺は大勢の中の一人に過ぎない。
努々それを忘れるな。
「っ、そうだ。きっとそのうち、猛が飽きれば俺は…」
不要な感情は邪魔になるだけで、得にもならずに自分の首を絞める。
「勘違いするな。猛は別に俺の家族でも何でもないんだから…」
気付かなかった振りで、知らない振りで名前の無いその感情を深く暗い胸の奥に二度と浮かんでこないようとぷりと…密やかに沈め直した。
十一時を過ぎた頃、珍しくインターホンが鳴る。リビングに取り付けられているモニターで確認すれば来訪者は日向だった。
「自分で鍵の解除出来るんだろ?昨日は無断で上がり込んでた癖に」
今日はそこらにいる一般人と変わらずノータイのシャツに品の良さそうな紺のスラックス。上着は羽織って織らず、大学生か休暇を楽しむ社会人といった風な無難な出で立ちで日向は玄関先に立っていた。そして、これは余談になるが口を開かなければ十分爽やかな美男子にも見えなくもなかった。
「顔を合わせてそうそう手厳しいな拓磨くんは。もしかして俺のこと嫌い?」
玄関に出迎えに行ってそうそう掛けられたテンション高めの声の奴を、嫌いかと聞かれて好きだと答える奴が何処にいるというのか。
「嫌い以前にアンタとは関わりたくない」
「それはまた酷いな。…まぁ俺だからいいけど」
「…?いいなら聞くな」
「で、支度は出来てる?あと何か食べたいって希望があれば連れて行くけど」
ふざけた態度をころりと変えて日向は真面目な表情を浮かべる。なければ適当にするけどと話を続けた日向にペースを乱されてくのを感じて俺は口を挟んだ。
「いつでも出掛けられる。昼は…特に食べたいものはないからアンタに任せる」
「分かった。じゃ、地下に降りようか。俺今日は自分で運転して来たからさ」
促されて俺は部屋の戸締まりを確認して、エアコンも消し、玄関先で待つ日向と共にエレベータに乗り込みマンションの地下駐車場へと降りる。
マンションの地下出入り口から程近い場所に駐車してあったシルバーの四人乗り普通自動車が日向の私用の車だそうで、後部の窓は全てスモーク仕様になっていた。車体前部からみた印象はシャープな感じで、ヘッドライトはフロントグリルより上に位置している。車自体はシルバーの滑らかなフォルムで覆われていて、どことなく凛としていて美しい車だった。
「さ、乗って」
後部のドアを開けて手招きする日向に俺は躊躇いを感じながらも足を踏み入れる。乗り込んだ車内も外見にみあった座席の手触りと座り心地。
日向が運転席に乗り込み、ドアをロックしてシートベルトを締めている姿を後部座席から眺めて俺は淡々と言葉を掛けた。
「これ、アンタの私用車だって言ったけどどう見ても高級車の部類だよな」
「ん?拓磨くん、車に興味ある?」
エンジンを掛け、冷房を入れた日向がバックミラー越しに目線を投げてくる。
「無い。そういう奴は知ってるけど」
「ふぅん。じゃぁバイクは?拓磨くんの乗ってたあれも結構有名なメーカーのものだったろ?」
ゆっくりと車が動き出し、地上に向かって走り出す。俺は問い掛けられた言葉にスモークで薄暗くなった窓の外を眺めてポツリと言い返した。
「あれはそういう単純なもんじゃない。何処の何だって構わない、俺にとってはただ一つのものだったんだ」
明るい地上へ出て、ウィンカーを出しながら過去形で口にされた内容に日向は瞳を細める。
「………悪かったな」
そして日向らしくない静かな声が、自分で口にした台詞に気付かなかった俺の耳へと届いて、俺はバックミラーへと視線を戻して訝し気に日向を見返した。
「なんだよいきなり」
「何でもないよ。それより本当に行き先は俺が決めていいんだな?」
「…あぁ。変な店じゃなきゃ」
飄々とした態度に戻った日向に疑念を抱きながらも、現実的な会話を続ける。
「変な店って…前からちょっと聞こうと思ってたんだけどさ。拓磨くん、俺のことどんな奴だと思ってるわけ?」
「胡散臭くて煩い、今は暇人」
「ちょっ、どれも褒め言葉じゃないし。暇人てどこから出てきたんだ」
「今こうして無駄話してるとこがだ。上総の方は忙しいんだろ?」
「あー、アイツはアイツ。俺は俺だから」
誤魔化すように言って日向は話を別の方向へと転がした。
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