14
一人リビングに残された日向はぐしゃりと右手で髪を掻きまぜると重い溜め息を一つ吐き出す。
「あー…クソッ、失敗した。せっかく会長を呼んでたのに何でここに居るのが俺なんだ」
タイミングの悪さについ舌打ちが漏れる。
その時、尻ポケットに入れていた携帯電話が振動し始め、日向は拓磨の出て行った方を気にしながら携帯を手にとった。
ディスプレイに表示された見慣れた名前にサッと通話ボタンを押す。
「はい、日向」
『今駐車場に入ったので引き上げてもらって結構です』
端的に用件だけを述べる相手に日向はいつものことと流し、電話を代わってくれるよう頼んだ。
「悪いが唐澤、会長に代わってもらえるか?」
『えぇ、構いませんが』
電話口の向こう側で何事か会話がなされた後、深みのある声が日向の耳に届いた。
『何があった?』
車を降りたのだろうドアの開閉音に、歩き出して若干揺れた声。日向はふざけた空気を消し去り、鋭い光を宿した双眸でリビングのドアからソファに目を移す。
「拓磨くん、ソファでうたた寝してたみたいなんですが、俺が来た時酷く魘されてて会長を呼んでましたよ」
『あぁ…』
「それから部屋には会長以外の人間が入らない方がいいかもしれません。思いきり警戒されました」
それも二度目です、と真剣な声で告げられ猛は淡々と聞き返す。
『二度ってのは何時の事だ』
「つい昨日です。拓磨くんを迎えに来た時にも似たような反応をされました」
『…そうか。もう着く。お前は俺と入れ替わりで出ろ』
「分かりました」
プツリと通話の切れた携帯電話を尻ポケットにしまい、日向は中々戻ってこない拓磨にリビングのドアへと目を戻す。
見に行くべきかと歩き出して、リビングを出た所で玄関の方から物音が聞こえた。
鍵の外される音に人の声。
廊下へ出た日向はバスルームの辺りから聞こえてくる水音に気付きながら、後は任せるべきかと玄関の方へ足を向けた。
「お疲れ様です会長」
玄関先で唐澤と短い会話を交わし、靴を脱いで上がってきた猛に日向は軽く頭を下げる。
「拓磨は?」
「水音がするんでたぶんバスルームの方に」
顎を引き、頷き返した猛と擦れ違い日向はそのまま玄関を下りる。靴を履き、玄関先で留まっていた唐澤と共に日向は部屋を出た。
下りのエレベータに乗り込み、下降し始めたエレベータの中で日向は呟くように溢す。
「まだ少し早かったか」
「何がです?」
唐突に溢された言葉に唐澤は意味を図りかねて日向へ聞き返す。
冷静なその眼差しに日向はお前に言っても分かるかなぁと前置きをして返した。
「会長の仕事を元の量に戻すの」
「何事かと思えば何を言っているんですか。遅かれ早かれ会長にしか出来ない仕事もありますし、いつまでも私達が肩代わり出来ることじゃありません」
「そりゃそうだけどさ」
「分かっているなら言わないで下さい」
唐澤の冷たい切り返しに日向は眉を寄せ、一人ごちる。
「まだ何処と無く不安定な気がするんだよな」
「………それは拓磨さんが?」
ぴくりと冷たい反応から一転した唐澤に、地下駐車場へと到着したエレベータから降りながら日向は目を向ける。
「それ以外に誰がいる?」
「いえ…昨日の夜、会長も同じような事を仰っていたので」
「へぇ、なら安心だな」
「安心?」
日向は自分で運転して来た車に歩み寄りリモコンで鍵を外して運転席側に回った。
「会長に任せておけば問題ないってことだ」
洗面台に取り付けられた蛇口を捻り、片手でばしゃばしゃと頭を冷やす意味も込めて顔を洗う。
ざぁーと捻った蛇口をそのままに顔を上げ、正面の鏡に写った自分の顔を睨むように見つめる。
ぽたぽたと濡れた前髪から滴が滑り落ち、蛇口に伸ばした左手で水の流れを止めた。
「………」
右手側の棚に置かれていたタオルを手に取り、顔を雑に拭く。
ひんやりと冷たくなった頬に平静さを取り戻し小さく息を吐くとタオルを元の位置に戻した。
「なにやってんだか、…たかが夢だろ」
そう口に出して胸の中に生じた不安感を振り払い、そろそろ日向がいるリビングに戻るかと鏡から視線を外した。
バスルームのドアに体を向け、足を踏み出そうとした所でドアが外側から開けられる。
予告もなく目に飛び込んで来たその姿に俺は軽く目を見張った。
「た…ける。いつ帰って…」
「今だ」
即座に返された言葉に、ジッと向けられた強い眼差し。思わずたじろぎそうになって俺は虚勢を張った。
「そう。俺もう寝るか…」
「拓磨」
注がれる目を躱そうとして視線を反らせば、それを許さぬ低い声が言葉を遮る。
その声にぴくりと小さく肩を跳ねさせ、応えずに猛の側をすり抜けようとすれば突然伸びてきた手に腰を浚われた。
強引に距離を埋められ、猛の胸元に額がぶつかる。
「――っ」
猛の纏っていた鋭い気配が緩み、包み込むように抱き締められて振り払ったはずの不安が顔を出そうとする。
息を詰めた俺の耳元に猛の唇が寄せられ吐息が耳朶を擽った。
「昨夜のことをもう忘れたか?俺相手に偽るな」
囁かれた台詞に、猛は俺の虚勢に気付いている。
むしろこの心の内すら読めているんじゃないかと、逃れられない腕に身を捩った。
「はな…っ」
離せと口にした言葉尻は息を詰めたことで掻き消える。耳元に寄せられていた唇が首筋に触れ、温かな熱が肌の上を滑る。
「拓磨。この先もお前が偽り続けるつもりなら俺は暴くぞ」
「…いっ…っ」
首筋を伝って下りてきた唇は一層強く肌を吸い上げると赤い痕を残していく。
「それでもいいのか」
じわじわと込み上げる焦燥と羞恥心に混じって不安に揺れた瞳を猛が覗き込んだ。
「……いいわけ…ねぇだろ」
ゆらりと揺れた瞳を隠すように少し瞼を伏せ、力の入っていない腕を持ち上げる。
そして、指先で摘まむようにして猛のスーツを掴んだ。
「ただ…また、夢を見ただけだ。それだけ…だ」
言いながら俯き、結局口に出してしまった不安に腰に回されていた腕に力が隠る。引き寄せられた腕とは逆の手が頭に乗せられ、その手がくしゃりと頭を撫でた。
聞き出しておきながら猛から言葉は無く。けれど…無言だからこそ強く伝わってくる温かなぬくもりや頭を撫でる優しい掌。
猛の前では虚勢も意味を成さぬほど心を丸裸にされてしまう。
気を張っていた身体から力が抜け、俺は猛の胸元に寄りかかるようにして瞼を閉じた。
どうしてか猛の側は安心出来る。
心がそう頻りに訴えてくる。
大人しく身を預けた俺の頭上で猛は静かに頬を緩めると凪いだ声を降らせた。
「もう少し起きてろ。一緒に寝てやる」
「…その前に話がある」
閉じた瞼を持ち上げて猛から離れる。腰に回されていた腕が解かれ、俺も掴んでいた猛のスーツから手を下ろした。
リビングに戻り、冷房を付けて三人掛けのソファに座って猛が風呂から上がってくるのを待つ。
あれだけ取り乱していた心は今は酷く落ち着いていた。
「………」
冷静になった頭が、診察時に三輪の言っていた言葉を思い起こさせる。
三輪はこの不安定な症状を治すのには俺が安心だと思える場所で、安心して一緒に過ごせる人といると良いと言っていた。
そして俺はもう安心出来る場所を知っているとも言っていた。
「あれはもしかして…」
もしかしなくても猛のことだったのだろうか。
先程の状況の他にも思い当たる節があって思い返した途端とくりと不自然に鼓動が乱れる。
「……?」
些細な自分の異変に気付き、何だと胸の辺りを押さえて首を傾げるもその異変はすぐに治まってしまい、気のせいかとすぐに意識を目の前のことに戻す。
その直後にカチャリとリビングのドアが静かに外側から開けられた。
リビングに入ってきた猛はまだ少し湿った黒髪に、シャツにスラックスという軽装姿で。
ちらりとこちらに目を向けたかと思えば猛は一度キッチンに入り、ワインとグラスを二脚乗せたトレイを手にリビングへと戻って来る。
当たり前のように俺の隣に腰を下ろし、トレイとグラスをテーブルの上に置くとワインオープナーを使い、出してきたばかりのワインの栓を開けた。
とくとくとグラスに注がれるワインは黄金色…、白ワインか?
その様子を観察していた俺は猛の横顔を眺めて口を開く。
「これは?」
「白ワインだ」
「それは見れば分かる」
二脚のグラスにワインを注ぎ終えた猛は片方を手に持つともう片方を俺に差し出してきた。
「お前も飲め」
「怪我に障るんじゃなかったのか?」
それ以前に俺がまだ未成年だというのはきっと言うだけ無駄だろう。
「一杯ぐらい平気だろう。気分転換だと思って付き合え」
「ん…」
一杯ぐらいならと、未成年うんぬんの前に俺も断る気が起きなかったので素直に猛からグラスを受け取った。
酒について詳しく語れるほどの知識はないが、グラスに注がれた白ワインからは仄かに柑橘系の匂いがする。
グラスを傾け一口飲めば意外と飲みやすく、味はまろやかで美味しい。熟した果物の味わいに最後にほんのりと酸味が口の中に残った。
まぁ、嫌いではない味だ。
同じようにグラスを傾けた猛は注いだワインを半分ほど空けると俺の方を見る。
「それで?」
前置きも無しに振られた言葉に、ワインに気をとられていた俺は猛を見返し、ややあってから話を切り出した。
「明後日の夜、鴉の集会に出る」
「場所は例の埠頭か?」
即座に切り返されて俺は頷く。
鴉の集会はいつも埠頭の倉庫街で行われる。
あの場所でならいくら騒いでも周囲に人家はないので問題はない。
「当日は大和が迎えに来ることになってる」
俺は右腕を骨折している上、もう乗るバイクも無い。
自力で行くには遠すぎてその辺、大和は言わずとも理解してくれていたようで迎えの話は大和から言われた。
「大和にはこの場所を伝えた。構わないだろ?」
「相沢か…まぁいい」
猛は僅かに考える素振りを見せたが、グラスに口を付け頷く。
話はそれだけだと俺は残りのワインを口に含み、猛の晩酌に付き合った。
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