13
昨夜の言葉通り、朝はいつもと変わらず出掛けて行った猛は夜十時半を回っても帰って来る気配はない。
俺は一人寝る準備を整えてまたぼんやりとリビングのソファに座っていた。肌を撫でる冷房の風が体感温度より低く感じる。
「…早く帰ってくるんじゃなかったのか」
別にいいと言った口でついぼやくように言葉を落とし、耳に届いたその内容に俺は自分で驚く。
「今日は昨日と違ってアイツに話があるからだ」
だからこうして起きているんだと俺は誰にともなく言い訳する。
そう、今日は昼間に大和から連絡が来て次の集会の日付と昨夜出頭命令を出していたφ<ファイ>に関する取り調べの報告を少しだけ聞いていた。
ソファに背を凭れ、身を深く沈めて息を吐く。
「俺の名を騙ったもう一人の人間…か」
ファイからの聞き取りで新たな事実が判明した。
マキがバラ撒いた薬によって操られていた連中が炎竜を襲撃したと思っていた事件は実はそうではなかった。
ちらりと室内の時計に目をやり、数時間前電話越しに耳へと届いた冷涼な声を思い出す。
『ファイは薬に関しては白だ。念の為マキの写真も見せたがこちらも反応は無かった』
「マキに操られてたわけじゃないのか。なら何で炎竜を…」
『お前からの指示だとファイは証言している。こちらも嘘を吐いてる様子はない。考えられる可能性はマキを除いた第三者の存在だ』
マキの起こした事件の裏にはまだ裏が。全てマキが主犯だと思わされていた事件はまだ終わっていなかった?
「………」
『妙だと思わないか?志郎さんの事件から一年が経っている。今になって何故マキはお前の前に現れたのか』
冷静になって考えられるようになった頭の中へと大和の言葉が入ってくる。
『俺達はマキを捕まえる為に網を張っていた。だから今さらマキが現れたことに疑問を抱かなかった。…お前はどう思う?』
口を閉ざし、暫し思考を巡らせて俺は口を開いた。
「何故…、今さら。マキには俺を殺すチャンスは幾度もあった」
それこそ志郎が死んだあの日。それ以降も。
鴉を建て直す前の俺は隙だらけだった。
そこまで辿り着き、ふっと閃いたように双眸が鋭い光を帯びる。同じ答えを出しただろう大和へ向けて俺は言った。
「その第三者にマキは恨みを煽られたんだな」
『まだ確証は無いが…心当たりなら俺の方で一つある』
「なに?」
『接触は一回切りだったが鴉の建て直し後、金を積んできた奴がいた』
外見は五十過ぎ、スーツ姿で銀行員みたいな男。それと一緒に小間使いみたいな若い男がいた。
こっちはTシャツにジーンズ、髪は茶髪で二十代ぐらいか。
「用件は」
『お前が聞くまでもないくだらないことだ。スーツケースに詰めた金をこれ見よがしに見せて、金で鴉を買いたいだと……笑わせてくれる』
冷ややかに落ちたトーンに大和はその相手をにべもなく切り捨てたのだと結末を聞かなくても分かった。
余計な口は挟まず話を続ける。
「目星は付いてるのか?」
『まだだ。次の集会で炙り出す』
「決まったのか」
『早い方が良いだろうと思って明後日の深夜を指定した。お前は構わないか?』
今の俺にこれといって用事はない。
承諾して明後日の深夜に集会の予定を入れれば、珍しく大和が電話口の向こう側でふっと小さく笑ったような気配がした。
「どうした?」
『いや…』
聞き返せば僅かに温度を乗せた声が世間話をするように言う。
『マキから炎竜襲撃を命じられた連中だが、鴉本隊からの報復を恐れて躊躇ったそうだ』
「あぁ…その間にファイが動いたってことか」
『連中はその賢さをもっと前に発揮すべきだったな』
残念だと紡ぐ声音は微塵もそうは思っていない。
それを受けて俺もゆるりと口許を緩め同意するように頷いた。
「そうだな。…一つ手間が省けたか」
鴉内に存在していた不穏分子がこれで少し減った。
結局、反旗を翻した連中は踊らされるだけ踊らされて鴉から粛清されたのだった。
静かな室内に俺の声だけが落ちる。
「トワから連絡は?」
『まだ無い。だが、薬のルートは黒幕を引き摺り出せば自ずと割れるだろう』
「見つけ次第締め上げろ」
『そのつもりだ』
気付けば俺は大和と普通に長電話をしていた。
俺にしても大和にしても珍しいことだ。
些細な変化に気付いて言葉が止まる。
『拓磨?』
「…何でもない」
『悪いな、疲れさせたか。他の細かい話は集会の時にする。それまでお前は体を休めろ』
「休めてるが正直暇でしょうがねぇ」
『お前が暇なのは良いことだ。それだけ平和なんだろう。今の内に満喫しておけ』
集会が始まったらどうなるか分からないからな。
最後に少し気遣われ大和との通話を切った。
「暇なのは良いこと、か」
思い返した内容に、言われた台詞を口に出して呟く。ずるずるとソファに沈めていた身を起こし、再び時計に目を向けた。
十時四十分…猛はまだ帰って来ない。
俺はエアコンのリモコンに手を伸ばし、冷えてきた空気に停止ボタンを押す。
テーブルの上にリモコンを戻して俺は一人掛けのソファから立ち上がった。
「少しだけ休むか」
猛が帰宅するまでと決めて、寝室では無くテーブルを挟んで向かい側にある三人掛けのソファに移動する。
腰を下ろし、ソファの上に足を乗せて怪我に障らぬよう体を横たえるとアームの上に頭を乗せた。
眠くはないが身体を休める為にそっと力を抜き瞼を下ろす。
閉じた瞼の裏に感じる蛍光灯の眩しさを嫌って左腕を目の上に乗せれば途端に視界は暗くなる。
頭の中ではチームのことや集会、事件について…主に今後のことがぐるぐると巡る。猛に言われた大学のこともある。
「………」
深く沈み込んでいく思考にうとうとと、意識は未だ拭えぬ暗い闇の中へと引き込まれるようにして落ちていった。
「…っ…はっ」
ぼんやりと薄暗い倉庫の中、痛みに呼吸を乱しながら俺は重たく感じる左腕を持ち上げる。
またあの日の夢だと心の片隅で感じながら、赤く染まる視界と手から滑り落ちた銃に乾いた笑みが零れた。
「――ぐっ…ぅ…」
途端、ずきりと胸に走った痛みにその場に膝から崩れ落ちる。いつの間に足元まで広がったのか膝を付いた地面は血の海のように赤く染まっていた。
「っ…はっ…はっ…」
鼻につく強烈な血臭に呼吸が苦しくなり左手で胸元を掴む。
カタカタと小さく震える身体を丸め、堅く目を瞑る。
「――っ」
何故かいつもより酷く深い闇色の夢。
開いた唇から掠れた吐息が漏れる。
いつもならどんなに小さな声でも聞き届けてくれる、目の前の悪夢を一瞬で消し去る声が今日は聞こえない。
「…た…っ」
瞼は閉ざされたまま小さな呻き声が口から零れる。ソファの上でキツく胸元を掴んだまま俺は空気を吐き出すのと同じぐらい自然にその名を呼んでいた。
「――たけ…る」
自分では振り払えない悪夢に、心がその存在を必要としていた。
間もなく、強く身体を揺さぶられる。
「…く…ま…」
ぴくりと瞼が震え、外界からの刺激に意識が浮上する。しかし、耳に届いた声は猛のものではなかった。
「…く…ん、…拓磨くん!」
この声は…
のろのろと重たい瞼を持ち上げれば酷く焦った顔の日向が瞳に映る。
「はぁ、良かった…起きてくれて。声かけても起きないからどうしようかと…」
その手は俺の両肩を掴んでいて。外からの刺激は肩を揺さぶられたことだと理解して…その手を、俺は左手で強く振り払った。
「俺に…触るな!」
「わっ…と」
ソファに横たえていた身体を起こし、すぐ側に立ち戸惑ったような表情を浮かべた日向を睨み付ける。
「あー…拓磨くん…?」
「何でアンタが…、猛は…」
さっとリビングの中に目を走らせたが猛の姿はない。
室内の時計は俺が眠ってから十五分が経っていることを告げていた。
「会長ならもうすぐ帰ってくるよ。俺はその会長に言われて拓磨くんの様子を見に来ただけなんだけど」
そうしたら拓磨くんが魘されてて。声を掛けただけじゃ起きなかったから肩を揺さぶった。
それだけ、とおどけて両手をホールドアップした日向はいきなり張り詰めた空気に驚きつつも顔には出さずに説明した。
「もうすぐ…」
「そ、もうすぐ」
おどけた様子で頷き返した日向に俺は警戒を解かぬままソファに座り直す。
「その割に何でアンタが来るんだ?」
猛が帰ってくるのなら日向が来る必要はないはずだ。
向けられた疑惑の眼差しに日向は上げていた手を下ろすと、そりゃぁ…と怪しく瞳を細めて言った。
「拓磨くんが心配だったからでしょ。もうすぐ帰って来れるけど、そのもうすぐって僅かな時間さえ会長は心配だったんじゃないかな」
「………」
「って、あれ、無反応?」
日向に向けていた疑惑の眼差しをすぃと反らし、俺はソファから立ち上がる。
日向に背を向け、リビングのドアへと向かって歩き出しながら背後にいる日向へ素っ気なく言葉を投げた。
「様子見ならもう終わったろ。帰れ」
日向の返事を聞かずにリビングを出た俺はその足でバスルームに向かう。
ドアを開け、バスルームに入ると後ろ手にドアを閉めた。
「……っ、は」
遠退いた日向の気配に張り詰めていた気が緩む。
洗面台の鏡に写った情けない自分の姿に唇を歪め、唯一人を望んだ自分の心に瞳を揺らした。
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