11
八時過ぎに上総が帰ったあと俺はリビングのソファに身を沈めて見るともなしにテレビをかけていた。
夕方に寝てしまったせいかまったく眠気は感じず、目が冴えている。
自分以外誰の気配もない部屋。
「………」
傷に障らぬよう三角巾で吊られた右腕をソッと抱く。
「少し…冷えてきたか」
テーブルの上に放置していたリモコンを手に取り、冷房の温度を上げる。
それでもまだ寒いような気がして、結局俺は冷房を停めた。
シンとした部屋に虚しくテレビの音が流れる。
面白くもない作り物のバラエティ番組はただ耳障りになるだけで、それも電源を押して消してしまった。
高層階にあるせいか、それとも防音がしっかりしているからか、全ての音を消せば耳に痛いぐらいの静寂が部屋を包む。
右腕を抱いたまま俺はソファに沈めた身体で天井を仰いだ。
「……大丈夫…」
意味もなく口から零れた言葉は空気に溶けて消える。微かに揺れた瞳を隠すようにそっと瞼を伏せれば、淡い暗闇が視界を包む。
完全な闇が訪れないのは瞼の裏で灯る蛍光灯の光のせいか。
「………」
ふぅ…と息を吐く。身体から力を抜いて、じくりと何かを訴えるように疼いた胸に意識を向けた。
じくじくといつまでも抜けない棘のように鈍く疼く胸に、ふと昔の光景が脳裏を過る。
あまり綺麗とは言いがたい部屋で、小さな自分の身体を抱き締める。折り曲げた膝に額を押し付け、耳に痛いほどの静寂と自分の意思とは無関係に震える身体を抑え込んだ。自分以外誰もいない部屋。
別の部屋には家人がいるのだろうが、誰も俺には関心を払わない。
現実には感じない寒さを覚えて唇を震わせた。
《……だいじょうぶ》
一人になったからといって死ぬわけじゃない。
当時は本気でそう思っていた。そう自分に言い聞かせていた。
「………あぁ、そうか」
これはもうずっと昔から俺の心の中に居座っていたものだ。
心の奥底へ上手く隠れては悪戯のように時折顔を覗かせ、その度に宥めてきた厄介なもの。
この感覚を味わうのも久し振り過ぎて理解するまで時間がかかってしまった。
「………」
緩やかに瞼を開け、ソファに沈めていた身体を起こす。
室内に置かれた時計に視線を走らせ自嘲するように唇を歪めた。
「――寂しいって…何だ。俺はもうガキじゃない。あの頃とは違う」
目を向けた時計の針はあれからまだ二十分も進んではいない。
そんな些細なことを気にする自分が何だか馬鹿らしく思えて俺はソファから立ち上がった。
「復学する前に少し復習しとくか…」
気をまぎらわすように口に出して言い、俺は自室へと引き上げる。
電気をつけて自室の扉を後ろ手にバタリと閉めた。
机に向かって約一時間、記憶力は良い方なのでさほど無駄な時間も使わず復習を終えることは出来た。が、ここで問題が一つあった。机の上に広げていた教科書とノートを畳み、左手に握っていたペンを転がす。
「…字が書けない」
今現在固定されている右腕が俺の利き手だ。左手で出来ることといえば精々教科書にラインを引くことか。
「治ったらってそんなにすぐ字も書けるようになるのか?」
リハビリとかいるんじゃないのかと考えながら大学のテキストを納めた棚に教科書を戻して、ノートは通学用のリュックにしまう。
三輪からはまだその辺の話は聞いていなかった。
引き出しを開け、中から適当に出したペンを戻して動きを止める。視界の端に引っ掛かった引き出しの中身を俺はそっと丁寧に摘まみ上げた。
ひやりと冷たい金属。
「……志郎」
本来の用途を無くし、ただの金属になってしまった塊。志郎がくれたバイクの鍵。俺はそれを捨てれずに持っていた。
「………」
そして初めはこの鍵を病室で手渡してきた日向に少しばかり感謝していなくもなかった。
何もかも無くしてしまったと思っていた俺に与えられた一つの希望。
手にした鍵に視線を落としたままポツリと言葉を溢す。
「何で言わなかったんだアイツ…」
そう、この鍵は日向の手から渡ってきたものだが、バイクを廃車にすると決まって鍵を棄てずに保管していたのは猛だった。
それこそ猛には何の意味もない鉄屑だろうに。
ぽろりと鍵の成り行きを溢した日向は特に疑問にも思っていなそうだったが、俺には不可解に思えた。
だが、それも仕方ないのかもしれない。
手にしていた鍵を引き出しの中に戻して視線を上げる。そうして俺は前を見据えた。
「俺は…アイツを知らないんだ」
何も。知らなさすぎる。
でも、だったら、知ればいい。
知らないのならこれから知ればいい。たったそれだけのこと。
椅子から立ち上がり、俺は自室から出て誰もいないリビングに入る。
数時間前まで感じていた寒さは不思議と感じなかった。
それよりも冷房を切っていたことで温度を上げた室内を不快に思って冷房をつける。
そよそよと頬を撫でる風を受けて俺は首を傾げた。
「そもそもアイツ何時に帰ってくるんだ?」
この一週間で考えれば九時前後だが。九時はとうに過ぎている。
もう暫くすれば短針は十時を指すだろう。
俺はソファに腰を下ろし猛が帰って来るのを待つ。
その行動にこれといって深い意味などなく、俺は自分の心が向くままに動いていた。
時刻は十時半近く。歯磨きを済ませて再びソファに座った俺はカーテンが開いたままの暗い窓の外を眺めて猛の帰りを待っていた。その耳にガチャンと鍵が開錠される音が届く。
「帰ってきた…か」
玄関扉の開く音に、次に開けられるだろうリビングの扉へ目を向ける。
カチャとノブの動く音に外から空気が流れ込む。同時に、闇夜を思わせる独特の気配を纏った男が入ってきて、他人を威圧するような深い色を宿した双眸がスッと動く。
ソファに身体を預け座っていた俺で止まるとその目が訝しげに細められた。
「まだ起きてたのか」
「眠くないから」
リビングの中へと入ってきた猛に俺はソファの肘掛けに左肘をつき、頬杖をついた体勢で言葉を返す。
「眠くなくてもベッドには入っていろ」
「別に俺は病人じゃない」
「似たようなもんだ」
俺と猛の間では帰宅の挨拶などあってないようなもので、お互い気にしたことはない。
上着を脱ぎ、ソファの背に掛けた猛はネクタイに指をかけて緩めるとソファに腰を下ろした。
その様子を何となく眺めていれば向けられていた視線が強さを増す。
「それで、どうした?」
「……?」
「何かあるから起きてたんだろう?」
話を聞いてやると、わざわざソファに腰を下ろした猛は無言で先を促す。
確かに訊きたいことはあった。けれど、こう改めて場を用意されると居心地が悪くなってしまい、俺は訊こうと思っていたことは何も口にせず曖昧に誤魔化した。
「……別に話があったわけじゃねぇ」
「ほぅ…」
用は無いと言ってやれば猛は緩やかに口角を吊り上げる。次いで訝るような眼差しは興味深そうな色を宿した。
「なら、俺が帰って来るのを待ってたわけか」
「…っ違う。眠くなかったから起きてただけだ。さっきもそう言っただろ」
本音を見抜かれた気がして、じくりと胸の奥に発生したむず痒いような恥ずかしさに眉を寄せる。
この部屋に一人でいて寂しかったとか、帰ってきて嬉しいとか…俺は何歳のガキだ。
一人になって自分の感情を理解してから何かがおかしい。
不可解な事態に陥っている自分の状態に俺は眉を寄せたまま猛から視線を反らし、ソファから立ち上がる。
今の状態は何だか良くない。一端落ち着いてリセットしなければ。
「俺、もうね…」
「そのわりに俺がリビングに入った時やけに俺を見てきたな。…それも気のせいか?」
立ち上がった俺に視線が付いてくる。反らした横顔に強い視線を感じた。
「…気のせいだろ」
冷静に応えてさっさと寝室に引き上げようとした俺に猛は気にした風もなくそうか、と呟くと一方的に告げる。
「一人で寝たくねぇなら起きてろ。まだ眠くはないんだろ」
「は…?誰がいつそんなこと言った?」
思わず猛に顔を戻して見返せば、猛はソファから立ち上がり、俺の問いに答える素振りもなく風呂に入ってくると言ってリビングを出て行ってしまう。
「なんだよそれ…」
俺は仕方なく座っていたソファに腰を落とし憮然と呟く。
まだ眠気は感じない。
だから…起きてるだけだ。
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