08


出来立てのコーヒーをサーバーからコーヒーカップに注ぐ。ふわりと鼻腔を擽るコーヒー特有の香りに意識をとられながら俺はソファから立ち上がった。

その足でキッチンへ入れば、水を張った桶には朝浸けた皿がまだそのままの状態で浸かっていた。
どうせ夕方辺りにでも上総が来るだろう。
今現在料理の出来ない俺の代わりに仕事の合間を縫ってか上総がマンションへと顔を出していた。

棚からグラスを取り出し、軽く濯いでから流し台に置いて冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。一度ボトルをグラスの横に置き、片手でキャップを開けてミネラルウォーターをグラスに注いだ。

同じ要領でボトルを冷蔵庫にしまい、俺はリビングへと戻る。ソファに座り直した猛とは別の一人掛けのソファに座り、俺は冷えた水で喉を潤した。
それを待ってか猛が口を開く。

「さっきの話だが…」

俺は目線で返し、続く言葉を待つ。

「周防を連れて行け」

「アイツを…?」

まだ会って間もない、よく分からない人間をか。
声音に滲んだ疑念に思いの外猛は真剣な表情をして答えた。

「気にいらないならそれでも良い。仲良くなる必要はない。ただ、周防を付けるのは用心の為だ」

「何かあるのか」

気になることでも、と聞き返せば猛は俺を見て口許に笑みをはく。向けられた双眸は不可解な熱を滲ませ、絡んだままの視線に胸の奥深い場所がざわりとざわついた。

「俺に喧嘩を売ろうとする馬鹿はそうそういねぇが前のように万が一ってこともある。…そう何度も奪われるつもりはないがな」

「…なんだ…それ」

周防を連れて行くことは猛の中では決定済みのことらしくそれ以上は何も言わず、猛は口を付けたカップを傾ける。

「………」

確かに一方ではなく、互いに相手を止める権利は持たない。それならば俺が周防を置いて行くことも可能だが、猛が連れて行けと言った以上置いていったりしても何らかの対策を講じて付いてくるはずである。

そして俺は基本的に無駄だと思うことはしたくない。

「……分かった。周防は連れて行く。けど、アイツの身の保障まではしねぇからな」

例え鴉の人間に手を出されようとも俺は助けたりしない。
むしろそこまでする義理は俺にはない。
真っ直ぐ目を見て言い放てば猛は口許に弧を描き、冴えざえと冷めた瞳で薄く笑った。

「それでいい。カタギにやられるようならアイツもそれまでの人間だったってことだ」

酷薄そうに笑んだ猛は坦々と言葉を紡ぐ。
よりどちらの方が酷いことを言っているのか。
共に自覚をしながらも指摘することはなかった。

ふつりと会話は途切れ、猛から視線を外した俺はグラスに口を付ける。窓から射し込む光の眩しさに瞳を細め、コクリと冷えた水を飲み干した。

「………」

猛はカップをテーブルの上に置くとその代わりにテーブルに置いていた書類を手に取る。パラリと紙を捲る音に視線をやれば猛は再び書面に目を落としていた。

「………」

その様子に俺はすぐに視線を元に戻し、テーブルに空になったグラスを置く。自室に引っ込んでもよかったが、なんだかこの場を動く気にはなれなかった。

かといえ特にすることもなく、ぼんやり壁掛け時計に目をやる。
時計はもうすぐ三時を指そうとしていた。

「………」

静かな部屋には眩しい程の陽射しと運転音も小さな冷房の音、紙の擦れる微かな音がする。
それらの音はやがて朧気になり、いつしか俺の耳には届かなくなっていた。



猛は目を通していた表の仕事で上がってきた営業収益の報告書からふと顔を上げる。その場から動く様子のない気配に目を向ければ、一人掛けのソファに身を沈め拓磨は目を閉じていた。

微かに胸が上下し、薄く開いた口から寝息が零れる。

「流石に疲れたか」

心身共にまだ休息が必要だという割に拓磨は何でもない振りをして動く。
一歩外に出れば、そこに自分以外の目があれば、当たり前のように気を張る。他人に隙を見せない為か。

手にしていた報告書をそっとテーブルの上に置き、組んでいた足を解く。

「良いのか、拓磨。俺の居る前で」

声を掛けてもぴくりとも反応しない拓磨の様子を眺め、猛は静かにソファから立ち上がった。

「…しょうがねぇ」

拓磨の座るソファの側へ行き、身を屈める。
膝裏と背に腕を差し込み、ゆっくりと拓磨の身体を持ち上げた。拓磨はこの年頃の男性平均より体重が幾分か軽い位か。

抱き上げても目を覚まさない拓磨はよほど深い眠りに落ちているのか。無防備に腕に身を預けてくる拓磨に猛は小さく口許を緩めた。

そして拓磨の身体を寝室に運ぶ。
波打つシーツの上へ拓磨を下ろし、立ち去らずに猛はベッドに腰掛けた。目許にかかった髪を軽く指で払ってやり、囁く。

「早く治せ。そうでないと俺がつまらねぇ」

落とされた声に返る言葉はなく、小さな寝息だけが猛へと届く。

「ん…」

いつの間にか深い眠りへと落ちた拓磨は猛の気配に煩わされることなく眠る。

陽が傾き、マンションへと人が訪れるまでその眠りが破られることはなかった。








知らず温かな微睡みに身を任せていた俺は意識の外で感じ取った微かな気配にぱちりと目を開く。

急速に浮上した意識は霞むことなく冴え渡り、俺は視線だけで現状把握に努めた。

「え…?」

すると、俺の頭の横に誰かが座っているのが見える。
ゆっくりと動かした視線でここが寝室だということは認識したが、これは…。

「上総が来たようだな」

言いながら大きな掌がさらりと俺の髪を梳く。
いつ移動したのか知らないがベッドに横になっていた俺は、頭の側に腰掛けた猛をぎこちなく見上げた。

その視線を感じてか猛が視線を落とす。
自然と…視線が絡まった。

「よく眠れたか」

「………あぁ」

聞かれた言葉に頷く以外の回答は無くて。
他人が側にいながら一度も目を覚ますことなく、これ程深く眠っていた自分に自分で驚く。

これは猛の気配に俺の身体が慣れたせいか…?
マンションへと帰ってきてから一週間、仕事以外では常に猛は俺の側にいた。

「起きれるようならリビングに行くぞ」

くしゃりと最後に頭をひと撫でされ、手が離れていく。その手を無意識に目で追っていた。

ベッドから立ち上がった猛は背を向けたまま歩き出し、ドアを開ける。
ベッドの上で俺もゆっくりと上体を起こし、床に足を下ろした。

何となく、猛に撫でられた頭に手で触れる。じわりと胸の奥から沸き上がる擽ったいような不思議な感覚にはどこか覚えがあって、俺は俯き困惑した表情を浮かべた。

「俺は…嬉しいのか…?」

「拓磨?」

小さな呟きは猛には届かず、いつまでもベッドから動かない俺に振り向いた猛が訝しげな視線を寄越す。

「今行く」

動揺を振り切るように頭を緩く左右に振り、俺はベッドから立ち上がった。

揃ってリビングに顔を出せばキッチンにいた上総が軽く会釈し、猛に挨拶をする。

「会合への迎えは唐澤が来てますので」

「分かった」

用件だけの短い会話を耳にしながら俺はリビングにある一人掛けのソファに腰を下ろす。猛は上総の話を聞き終えると緩めていたネクタイを締め直し、ソファの背に掛けていた上着を手に取った。



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