04
ゆっくりとスピードを落として車が停まったのは一件の寿司屋の前だった。
日向の手で開かれたドアから降り、ドアを閉めれば車はそのまま店の横に隣接している駐車場に入っていく。
「会長は先に中に入って待ってるから」
日向にエスコートされてくぐった暖簾の先には、趣のある内装に木製のカウンター。カウンター前には生簀があり、新鮮な貝や魚が悠々と泳いでいた。
店の主人は入店してきた日向の顔を見るとそそくさとカウンターの中から出てくる。
「これは氷堂様の…」
「あぁ、挨拶は良いから。会長は奥の座敷?」
「えぇ、はい」
「そう」
それだけ聞くと日向は店の奥へと歩を進める。
ペコリと頭を下げて見送る主人から日向の背中へ視線を移し俺は口を開いた。
「ここは氷堂の息が掛かってる店か」
「そ。詳しい事を聞きたかったら会長に聞くといい」
「それは別にどうでもいい」
すげなく言い返せば、心なしか日向が肩を落とす。
「俺が聞くことじゃないけど、拓磨くんさ、会長のこと…」
「なら聞くな。その部屋か?」
俺からしてみれば本当にどうでもいい話だったのだ。何となく聞いてみただけに過ぎない。それに何を反応する必要がある。
「…あぁ、うん。拓磨くんって意外と容赦無い所あるよな」
個室になっているのか目の前に現れた襖に確認するように聞けば、足を止めた日向が道を開けて頷いた。
コホンと気を取り直し、日向は続けて言う。
「この先は拓磨くん一人でな。俺の役目はここまでだから」
無言で顎を引き、俺は襖に手をかけた。
すっと静かに開いた襖の先には小上がりがあり、そこでスニーカーを脱いで座敷に上がる。
木製のテーブルにはまだ料理は並んでおらず、先に席に着いていた猛は俺に視線を向けると座布団に座るよう目線で促した。
それに逆らう理由も無く俺は大人しく座布団に腰を下ろす。
その後直ぐに茶碗蒸しやお吸い物、下駄に乗せられた握り寿司が運ばれてきて目の前のテーブルに並べられた。
料理に手をつける前に俺は湯呑みに注がれたお茶で喉を湿らせ、おしぼりで手を拭く。
「一応聞くけどここってマナーとかあるのか?」
「ない。好きに食え」
個室をとったのは猛の事情か、それとも俺の怪我を考慮してか。どちらにせよ、箸を使わずに食べれるご飯に俺はほんの少し気を緩めた。
左手で握り寿司を掴み、小皿に出した醤油を軽くネタにつけて口に運ぶ。
食材そのものはもちろんだが、間に乗せられたワサビの加減といい、シャリの握り具合といい、全てが完璧で素人でもこの寿司が絶品だというのが分かる。
「………」
そして、共に食事の最中となれば会話は極端に減った。元から俺はそんなに話す方でもなければ話かけること事態少ない。
「美味いか?」
無言で食べていれば、向かいから言葉を投げられる。
「まぁ」
俺はそれに素っ気なく頷き返し、自分でも思っていたより空いていたお腹を寿司で満たしていく。
その様子を何やら猛が眺めていたようだったが、俺は気にせずに食べ進めた。
「それで、三輪の診断は?」
先に食べ終えていた猛は俺が食べ終え湯呑みに口を付けるのを待って、漸く本題へと話を振ってきた。
三輪の診察は猛も承知していることだし、俺は三輪に言われた事をそのまま伝える。
「順調だって」
「今朝の事は?」
言ったのかと、何故だか強くなった視線に俺はほんの少し猛から視線をずらして答えた。
「…急性ストレス障害。三輪は身体と心を休めろって。…どうやってだよ」
今の状況を省みて休めろなどと三輪もよく言えたものだ。自嘲するように口を付いて出た台詞に猛は別の話題を持ってくる。
「お前、怪我が治ったら復学手続きをしてこい」
「は…?」
「護衛に誰か一人連れて行けば休学する必要はないと言ってるんだ」
「いきなり何言って…」
猛には大学の話はしていなかったが、日向あたりから伝わったのだろう。…それは別に構わない。
ただ、復学を勧める猛を俺は訝し気に見返した。
「以前と変わらない生活に近付けた方が良いだろう」
言われた台詞は真っ当な事だったが、俺はそれを別の意味で捉えた。
「…それなら、俺がマンションを出ていった方が早いんじゃないか?」
遠回しに出ていけと言われたような気になって感情が凍りついたように失せる。
どのみち遅かれ早かれそうなるんだろうと思って自分で口にした言葉に、何故だか胸の奥がぎゅぅと苦しくなって指先の感覚が遠退いた。
しかし、直ぐにその感覚は引き戻される。
「出す気はない。お前の大学ならマンションから通える距離だ」
向けられた強い眼差しにじくりと指先が疼き、小さく息が零れた。
「妙なことを考えるなよ」
「何を…」
ゆっくり湯呑みに口を付け傾けた猛は一息間を置くと再び口を開く。
「ただでさえ情緒不安定になってるんだ。一人で先走るな」
「………」
自分が不安定だという自覚はあった。けれど、先走ったつもりはない。
そう言葉にしようとして遮られる。
「俺はお前を手放すつもりはない」
いつだったか二度も同じことは言わないと言った口で、猛は繰り返すように告げる。不安になることは何もないとでも言うような断言に俺は開きかけた口を閉ざす。
そして、理由も何も無く期限無しで俺があのマンションにいることを許された気がして、胸の奥に仄かに宿った温かさに微かに表情が崩れた。
「三輪から許可が出たならお前にはこの後俺に付き合ってもらう」
「何処に」
仕事の合間を縫って猛が俺を昼食に誘うことはあっても、今まで怪我を考慮してか連れ回されたことはなかった。
座布団から立ち上がりかけた猛を見上げ、返答を待つ。
「事務所だ」
「事務所って…あの…」
猛と初めて顔を会わせることになって連れて行かれた、近代的なビルのことか。内部は清掃が行き届いているのか綺麗な印象があり、組事務所だと言われない限り普通のオフィスに見えた。
ただそこに、組員が加わると雰囲気や顔付きで何となく察せられるかも知れないが。
「…何の為に?」
猛の意図が読めなくて俺は立ち上がりながら疑問をぶつける。
すると猛は当たり前のことのように嘯いた。
「お前が正式に俺のイロになったことを周知させる。契約を破棄した以上お前は俺に買われた人間じゃない」
イロ…言い方はどうあれ愛人、情人、恋人関係にある人物とかそう言った意味合いのことだ。
「そんなことして何の意味がある?」
「お前を見る目と扱いが変わる。奴等が気安くお前に触れる事は許されねぇ。したっぱの連中が話し掛けてくることは少ないと思うが」
促されて座敷の出口に向かいながら猛の話を聞くとはなしに聞く。
「この先俺の側にいれば日向達以外の組の人間と会う機会もあるだろう」
「なるほど。何も知らねぇよりは覚えておいた方が身の為か?」
スニーカーを履いて、掴めた意図を確認するように小上がりの上にいる猛を見上げれば目の前にある唇がゆるく弧を描き、何の前触れも無く掠めるように唇を奪われた。
「なに…っ」
「ご褒美だ」
仄かにだが確かに感じた熱に動揺を隠せずにいれば頭を撫でられ、その隙に横を通り抜けられる。言葉を詰まらせた俺をよそに靴を履いた猛は表情を変えずに座敷を出て行く。
「置いてくぞ拓磨」
「…っ今、行く」
先を歩く猛の背中を見つめ、どきどきと苦しさを増した胸を抱えながら俺は足を進めた。
座敷から出た先のカウンターに、あれから待っていたのか日向が腰かけ店の主人と何やら話をしていた。
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