07


翌朝、無理矢理身体を動かしたツケが来たのか俺は高熱を出した。

腕に点滴をされ意識がぼんやりとする中、誰かが病室に入ってきた気配がした。けれど、顔を動かすのも億劫で俺は点滴に入れられた睡眠導入剤も手伝ってか、意識はうとうとと夢の中に落ちる寸前で。

キシリと身体を横たえていたベッドが僅かに沈み、誰かの手が伸ばされるのが分かった。そしてその手は優しく俺の髪に触れると額にかかった前髪を払い、額に触れてきた。

ポツリと低い声が落ちる。

「熱が出たか」

その声を俺は瞼を閉ざしたまま聞くとは無しにうとうとと聞く。
額に触れる指先が心地好いと思うのはきっと熱のせいだ。

「寝てるのか」

そう、すべては熱のせい。

離れていこうとしたその手を掴んでしまったのも。
少しだけ触れた手は冷たくて、ずっと触れていたいような気にさせられたのも。

「起きてるのか拓磨?」

「………」

そのあと誰かが何か言ったようだったが、俺が瞼を開こうとするのとは裏腹に瞼は持ち上がってはくれず意識もそのまま微睡みの中へと落ちていった。

するりと力の抜けた手が落ちるのを猛は逆に掴み返す。

「拓磨?」

起きていたかと思えば聞こえてくるのはすぅすぅと規則正しい寝息だけ。
猛は掴んだ手を布団の上に戻し、熱で赤く染まっている顔を見下ろした。

薬が効いているのか大人しく眠るその顔はどこか安らいで見える。
熱を帯びた柔らかな頬に手を添え、輪郭をなぞるように指先を滑らせると猛は静かな声で告げた。

「今夜、お前を高遠に会わせる」

他に聞く者のいない状態で猛は言葉を紡ぐ。

「だが、お前は既に俺を選んだ。それを忘れるな」

やがて触れていた手を離し、瞳を細めると猛は眠りに落ちている端整な顔を眺めてから踵を返した。








夕方あたりになってやっと熱も平熱に戻り、意識も確りしてきた俺は遅い昼御飯として運ばれて来たお粥を黙々と食べた。

気付かない内に腹は減っていたのかお粥はあっという間に空になる。
匙を器の中に戻し、俺は誰もいない静かな室内で今朝の出来事を思い返していた。

「あれは誰だったんだ…?」

ベッドの脇に置かれた一脚の椅子に視線をやり、そこに誰かが座ったのを思い出そうとするも形にはならない。
しかし、この部屋に入れる関係者は限られている。

「…考えるだけ無駄か。夢だったかもしれねぇし」

あっさりと考えることを放棄し、お粥の器の置かれた台を足元に押しやって俺はベッドから降りようと身体の向きを変えた。

少し身体を動かしただけで痛みの走った昨日よりは幾分か増しな鈍痛が身体を襲う。

「…っ」

足を床に下ろしほっと息を吐いた所で病室の扉がコンコンと軽く二度ノックされた。

「起きてるかな拓磨くん?入ってもいいか?」

この軽い声、話し方は日向だ。
数日振りに聞く声は初めてあった時と何も変わっていない。
俺は少し逡巡した後入室の許可を出した。

「あぁ良かった。起きてたか」

日向は何が嬉しいのか微笑んで、どこぞのブランドの名前が入った紙袋を手に提げて部屋の中へ入ってきた。
俺の視線が紙袋にあるのに気付いたのか日向は紙袋を傍らに置いてあった椅子の上に乗せると言う。

「これは会長から。今夜出掛けるのに流石に入院着のままじゃマズイからこっちの服に着替えさせろって」

「出掛ける?」

「そう。大和くんから聞いてるだろう?会長が今夜拓磨くんを高遠の所に連れて行く」

はっと告げられた言葉に俺は息を呑む。
そうだ、マキに会うんだ。
会って俺は…どうする?

「それとこれ…」

その時、暗い翳り帯びた俺の目の前にチャリと金属音を立てて握られた日向の拳が差し出された。

「なんだ?」

条件反射で受け取るように出した俺の左手の上に、ひやりと冷たい塊が落とされる。それは。

「拓磨くんの乗ってたバイクの鍵。これだけでも渡しておきたくて」

「……っ」

俺は何の変哲もないその鍵を確かめるように目の前に引き寄せ、ぎゅぅっと握り締めた。

失ったと思ったものは意外な形で残っていた。例えそれが冷たい鉄の塊だけだったとしても。志郎から貰った物に違いはなくて。

俺はその時になってようやく気付いた。志郎がくれた物は他にもあったということに。

それは失われず今も俺の中にあり続けている…。
誰にも、俺自身ですら奪うことの出来ない想い。俺が知らなかった様々な感情を教えてくれたのは志郎だ。

《拓磨。お前の世界はまだ小さい。もっと周りを見てみろ。案外捨てたもんじゃねぇぞ》

望んでもいないのに広い世界へと連れ出され、トワや大和と知り合った。人を信じられなかった俺が、気付けば少しではあるが人と交流を持てるようにまでなっていた。

失ってしまったと思った物は未だこの手の中に。
失いたくないと思った大切な日々は思い出として今も俺の中に。

深い愛情を称えた瞳と優しく触れてきた掌の感触を思い起こせば、ひび割れた心に染み込む温かな熱。

志郎との約束だからと入った大学。試験をパス出来たのも付きっきりで勉強を教えてくれた志郎がいたからで。

なにも…志郎が命を賭けて守ってくれたのは俺の命だけじゃなかった。

猛は俺に何て言った?

“分からねぇのか。これじゃぁお前を生かした後藤も無駄死にだな”

…そう、志郎がくれたものは。最期の時まで守ろうとしてくれたのは、

《拓磨、いつまでも愛してる…だから生きろ》

俺の命と、

《俺が居なくてもお前ならもう大丈夫だ》

…未来だ。

じわりと、手の中にある冷たい金属が熱を帯びる。
そんな筈がないのに、手の内で起きた錯覚に気付けば視界はぼやけていた。

「拓磨くん?」

側に立つ日向に声をかけられ俺は慌てて感傷を振り払う。

「…っンでもねぇ。猛には分かったって言っとけ」

マキに会う決心がついた。

「それは構わないけど一人で着替えられないだろ?手伝うぜ」

右腕を吊っている状態では流石に俺も着替えづらい。加えてまだ体調は万全と言い難く、俺は渋々ながら日向に手伝ってもらい着替えることにした。



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