19


佐々木の選んだ書店は中型の駐車場付き店舗で、夕方と言うにはまだ少し早い時間帯のせいか、店内にいる客は疎らであった。

夏休み中なのであろう学生と思われる年代の少年少女達が漫画の新刊が積まれたコーナーで賑やかな声を出している。その直ぐ側には雑誌を立ち読みしている青年がいて、小説の棚の前では女性が本を探している。他にも複数の大人。店内には会計をしている高齢の男性に、子供を連れた女性もいた。拓磨は後について来ていた佐々木に冷ややかな声を投げる。

「しばらく俺から離れてろ」

この中でスーツ姿の佐々木は目立つ。それもただの若者にくっついて店内を歩いて回れば余計な視線を集めかねない。前に寄った本屋ではそのような事は気にもかけなかったが、それは知らず日向が上手く立ち回っていたせいか。佐々木は口答えする事無く拓磨から離れて行く。それでも目だけは離す気はないのだろう、視線を感じた。

「……」

多少煩わしく思いながらも、佐々木の視線を受け流して、拓磨は目的の物を見つける為に店の奥へと足を進めた。旅行雑誌が並ぶ隣の棚。主要幹線道路や路線情報が掲載された本。地図の棚の前で足を止めた拓磨は現在自分が居る地域が掲載されている地図を手に取ると、その頁を開いてざっと中身を確認する。頭の中にあるマンションから大学へと続く主要な道や引っ越し先となった屋敷の周辺。組事務所のある辺りや、鴉として支配しているエリア。バイクで走ったことの無い道。今後、屋敷から大学へと通学するのに新しい地図が必要か。そう、頭の中に入っていない情報を付け加えて、地図を閉じる。

「…一応、買っておくか」

手元に置いて、実際に走ってみる必要がある。

こんなこと、鴉の情報部隊を司る小田桐に言えば、直ぐに情報は手に入るだろう。けれども、この情報を今必要としているのは鴉の総長ではない。ただの大学生だ。

拓磨はそう即決すると地図を持ってレジに向かった。それに気づいた佐々木が近付いて来ようとしたので拓磨は余計な事はするなという意味を込めて佐々木を冷たく見返す。それから店の外で待つように視線を動かした。

ビニール袋に入れられた地図を左手に提げて店を出れば、佐々木が待っており、拓磨は車に向かってさっさと歩き出す。

「猛に何て言われてんのか知らねぇけど、必要以上に干渉してくるな」

「会長からはただ拓磨さんの好きにさせろとしか言われてません」

「……」

「不快な思いをさせたのなら申し訳ありません。今のは自分が」

「猛がそう言ったのか?俺の好きにさせろって」

「はい。屋敷の者達にもそう伝えられています」

どうぞと、車のドアを開けられ、拓磨は無言で乗り込む。

猛は本当に俺を俺のまま受け入れてくれるらしい。
それは何と甘く緩い鳥籠だろうか。

黙り込んでしまった拓磨の様子をミラー越しに見つつ、佐々木は車のエンジンをかける。

「拓磨さん。他にはどこか寄りたい場所はありますか?それともこのまま屋敷に帰りますか?」

「あぁ…そうだな」

上の空で呟きつつ窓の外へ顔を向けた拓磨の表情が、ふと熱の無い冷ややかなものに変わる。

「猛は…お前以外に俺に人をつけてるか?」

「え?それはないかと…」

唐突な質問に佐々木も拓磨の纏う空気が変わった事に気付き、まさかとその言葉の意味を察して表情を硬くする。自然な動作で車内へと顔を戻した拓磨はそれ以上、佐々木に口を挟ませず、冷めた声音で佐々木に指示を出した。

「とりあえずマンションに戻れ」

「…はい」

人を頼るつもりの無い拓磨の態度に壁を感じつつ、佐々木は忠実に頷き返すに留めた。
また、マンションに戻ってからは車を降りた拓磨に余計な事はするなと釘を刺され、佐々木は一人どうすべきかと悩んだ。会長からは好きにさせろと言われているが、こうも不穏な気配を感じてしまっては。実の所、佐々木を始めとした事務所の若衆、屋敷の者達は拓磨の事を普通の男子大学生、カタギの人間であるとしか認識していない。氷堂組幹部の一部と拓磨に関する事件に関わった者、その者達しか鴉の事は知らない。鴉のことに関しては何も伝えられていなかった。故に佐々木はカタギであり、会長の大事な人の身を案じて、一人の人間にだけ連絡をとった。

「もしもし、お疲れ様です。実は…」




再び戻って来たマンションの地下駐車場で車から降りた拓磨は足早に一人でエレベータに乗り込むと部屋のある最上階のボタンを押した。ふわりと身体に感じた浮遊感とは逆に拓磨の身を包む空気は冷たく重さを増す。玄関の鍵を開錠し、部屋へと入った拓磨の足は迷う事無くリビングへと向かい、大きく切り取られた窓にかかるカーテンの前で止まる。カーテンに指をかけた拓磨はそのカーテンを開くでもなく、双眸を鋭く細めると僅かにできた隙間から眼下を見下ろした。視線を左右に動かし、眼下に広がる景色を注視する。

「…気のせいかとも思ったが。やっぱり、あの車、付けて来てるな」

人の視線や気配に敏感になっていた拓磨は書店の駐車場で何気なく向けられていた視線を感じ取っていた。そしてその視線の持ち主が拓磨の警戒心に触れた。相手の車は駐車場の奥、佐々木の停めた車からは間に数台分の距離、斜め奥と角度的には気付きにくい位置ではあったが、拓磨は気付いた。窓の外へと流した視線の先で、その相手も佐々木と同じようにスーツを身に着けており、その辺にいくらでもいるサラリーマンだと言われればそう納得できなくもない相手ではあった。が、その視線が自分を捉えていたことに拓磨は気付いていたし、わざわざ書店の駐車場に止めた割には書店に寄る素振りを見せず、その男の姿を店内で見かける事も無かった。最後の確認として、書店の駐車場で休憩をとっているただの一般人かと確認の為にマンションに戻って来てみたが、結果はこの通り。自分の感覚は外れていなかったらしい。

「小田桐からも、大和からも連絡は無し。と、いうことは…」

マンションからいくらか離れた場所に停車する車を見つけて、拓磨の唇が動く。そっとカーテンから指を離した拓磨は窓から離れて、玄関へと戻る。

「猛の関係者か、それとも警察か」

心当たりはそれしかないが。この距離では判断がつかない。
だだ、どちらにしろ、相手は俺の事をただの一般人だと思って、尾行しても気付かれないと思っているのか。

「それはそれでやりやすくはあるか」

侮られていた方が、何かあった時には、相手の油断も誘いやすいだろう。つけられている、その事実は不快だが。今は動くべきではない。

「俺をつけたところで何もない。せいぜい無駄足を踏めばいい」

拓磨は歩きながら考えを纏めると、口元に薄く笑みを覗かせて地下駐車場へと戻って行く。

この時、尾行をしている相手の素性を一番早く確実に知る方法は、猛に連絡を取ることであったが、拓磨はあえてそれを選ばなかった。何故なら、自分の好きにしていいと言われていたから。

車に戻った拓磨は屋敷に帰るのではなく、買ったばかりの地図を車内で広げると、今後使えそうな道や使うことになりそうなルートを選択して佐々木に車を出させる。バイクで走る予定の道を車で先に下見することにした。その途中、気になった横道や裏道もチェックしていく。車が進入出来ない箇所は改めて後日確認するかと進路変更を指示した。




なんの一貫性もなく、かといってこちらに気付いた様子も見せずに走る車に頭を悩ませたのは拓磨の乗る車を尾行していた、もとい探りを入れていた男であった。男は拓磨が推測した通り、猛関係の人間で、葉桜会総本部いわゆる本家と呼ばれる組織に身を置く人間で、猛に出来たという新しいイロの情報を探りに来ていた。相手はカタギ、気付かれる事はないと、氷堂組関係者にだけ気を張っていればいいと高を括っていた男はその時点で、その認識こそが間違いだったと気付かぬまま拓磨の尾行を続けていた。





『あれは宇津見代行の所のだな』

午後から事務所を出て、外回りをしていた日向は唐澤から掛かってきた電話に折り返しの連絡を入れると、単刀直入にそう口にした。

「と言うことは、本家の?」

『だろうな。会長がとうとう本宅にまで拓磨くんを連れて行くと知って、興味を持ったんじゃないか』

「その可能性は否定できませんね」

宇津見代行は以前、会合の場で真山の一件について会長と含みを持たせた会話をしていた。

『まぁ、後は拓磨くんの意向と会長の判断次第だろう』

「えぇ…、会長も会わせる気はあるようですから」

唐澤はちらりと会長室のある方を見て、机上に広げていた資料を片手で纏め始める。階下の事務所内は上総が詰めているので自分が席を外すことになっても何も問題はないだろう。

「では、この話を会長に報告して来ます」

『おぅ。ついでに拓磨くんの心配はいらなそうだって伝えておいてくれ』

どちらかと言うと今は、宇津見代行の所の奴が振り回されているって感じだな。まぁ、拓磨くんも一筋縄じゃいかない人間だからな。
日向との通話を切った唐澤は速やかに報告を上げるべく会長室へと向かった。

「失礼します。会長」

「何だ?」

「実は日向から連絡がありまして」

黒革の椅子の背もたれに背を預け、唐澤が持ってきた報告を耳にした猛は小さく溜め息を吐くと、皮肉気に言う。

「宇津見さんも暇人だな」

「それだけ会長の動向を気に掛けているということでは」

「今更だな。それで、拓磨は?」

「私共に連絡はありません。佐々木にも余計な事はするなと言ったそうです」

ただ、日向からは何も心配する様なことはないと。拓磨さんの方が上手だと。

「そうか。拓磨には相手が分からねぇだろう」

流石に宇津見さんの下、本家の若衆の顔など教えていない。猛自身もそこまで覚えているかと言われれば、本家で直接接したことのある人間に限られる。

「しかたねぇ」

猛は唐澤へ鋭い視線を投げると指示を出す。

「宇津見さんに繋げ。日にちをセッティングしときゃ手を引くだろう」

唐澤に電話を掛けさせ、電話口に出た取次が宇津見を呼ぶ間に、唐澤から電話を受け取る。

「宇津見代行はご自宅にいらっしゃるようです」

長い呼び出し音が続いた後、ふつりと途中で音が途切れる。

『氷堂か』

「えぇ、俺です。忙しいところ申し訳ありません」

電話口の向こうで低くしゃがれた声が返って来た所で、猛はさっそく本題へと入る。

「用件は言わなくても分かると思いますが」

『…随分と早いな』

「うちのは優秀なんで」

まさか尾行目的である拓磨本人が気付いたとはさすがの宇津見でも思うまい。やや驚いた様子の宇津見に猛は話を続ける。

「気になるんでしたら、顔見せぐらいはしますよ」

『ほぉ…、いいのか?ガードが堅いもんだから、てっきり我々には見せたくないのかと思っとったが』

「まぁ、あながち外れてはいませんね。あれは扱いが難しいので」

嘘は何一つ言っていないと、猛はさらりと言葉を返す。扱いが難しいという点では、同じ室内にいた唐澤も胸の内では同意していた。

『お前をして難しいか。ますます興味をひかれるな』

「退屈をしないって意味では面白くもありますが」

ふと言葉を途切れさせると、猛は声色を深め、続きの台詞を口にする。

「機嫌を損ねると何を仕出かすか。余計なちょっかいはかけないで下さい」

『ははぁ…。こいつはまた随分と入れ込んでるな』

こうしてわざわざ連絡を入れてくるほどに。

「否定はしませんよ」

だから、何かが起こる前に打てる手は打つ。それだけの力を拓磨は秘めている。使わせるつもりはないが。

『ふぅむ…』

重々しく頷き返した宇津見の声が真面目なものへと変化する。

『それで、お前さんも交えていつ頃会えそうなんだ?』

「あれの都合もあるんで、二週間後位には。近い内もう一度連絡入れますよ」

『そうかい。そりゃ楽しみだ』

「…轟木のオヤジにもよろしく伝えといて下さい。それでは」

宇津見の返答を聞いてから通話を切る。

最後、否定の言葉が返らなかったことを考えると、この件にはオヤジも絡んでいると見ていいだろう。

「ったく…」

話を終えた猛に側に控えていた唐澤が静かに口を開く。

「宇津見代行はなんと?」

「どういうわけか知らねぇが、オヤジも宇津見さんも拓磨のことが気になるらしい」

「それは仕方がないのでは。会長が手ずから守っている存在です。お二人でなくとも、いずれ周囲からは興味を持たれたかと」

唐澤の冷静な分析に猛はふと深い闇色の双眸を研ぎ澄ませて言う。

「必要があれば連れ出すが、むやみやたらにアイツを連中の前に立たせるつもりはない」

関係性の変化に伴い、猛の中でもその心情に変化が訪れていた。

「アイツも嫌がるだろう」

「…そうですね」

僅かに空いた間。唐澤にとって、拓磨という青年は行動の読めない危険な人物であるという印象が拭えない。それは一重に唐澤が鴉としての拓磨の顔を断片的に見ているせいかもしれなかった。

「この件は俺から直接拓磨には伝える。お前は先の予定を調整しておけ」

「分かりました」

話は終わりだと、仕事に戻る猛に礼をして、唐澤は会長室を出て行く。今後のスケジュールを確認しなくてはと、先程居た会議室に戻って行った。




一方、最終的に長距離ドライブをしてから、屋敷に戻った拓磨は荷物の詰まったリュックを左肩にかけると、上着を右手に抱えて離れの屋敷へと帰宅した。

一階で手洗いを済ませ、二階に上がった拓磨は自室の空っぽだった棚に買ってきたばかりの地図や大学の授業で使用しているテキスト等を詰めていく。筆記用具類は机の上に置き、書きかけのレポート用紙を机に広げる。ついでに携帯の充電器もリュックの中から出して、コンセントは刺さずに適当にその辺において置く。それほど充電の減っていない携帯電話も机の片隅に置き、リュックは口を開けたまま机の横に下ろす。
そして、マンションから持ち出した猛の上着だが、それはクローゼットの中、自分用にと用意されていた服の中にこっそりと紛れ込ませる様にして収納した。

何も隠す必要はないのだが。何となく…そうした。

「さて…。やることは終わったか」

ベッドに腰を下ろし、一つ息を吐く。
少しばかり重たく感じた身体に、疲れたかと他人事の様な感想が浮かぶ。
それでもまだ休む気にはなれず、顔を上げて、天井を見上げる。

「とりあえず下に行くか」

階下のリビングへと移動し、今日は遅くはならないと言っていた猛の言葉を思い出して、拓磨は猛がこの屋敷へと帰って来るのをリビングで素直に待つことにした。




[ 88 ]

[*prev] [next#]
[top]



- ナノ -