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「落ち着かない…」

静に連れられ一階へと降りた明だったが、目の前の自分を取り巻く光景に分かり易く怯んでいた。ドラマや漫画の世界でしか見たことの無い、白いテーブルクロスの掛けられた奥に細長いテーブル。何人座る事を想定しているのか分からない、何脚も並んだ椅子。壁際にはこの洋館の使用人と思わしき制服姿の侍女や従僕達が並び、明達の入って来た扉とはまた別の奥の扉からは料理の乗ったカートを押して入って来る人。それを見た瞬間、明の意識は一瞬遠退きかけた。

いや、さすが佐久間家と言うべきか。なるべく温かな一般家庭と同じ様にと育てられてきた明にとっては別世界に迷い込んでしまった感覚であった。良い所の子息が通う九琉学園であっても、流石に目の前の光景の様な事は無い。食堂にウエイターはいても、学園はその名の通り学びの場でもあるので、全部が全部用意されているわけではない。

あからさまな明の緊張を感じ取る以前に、食堂へと足を踏み入れた静は、その場に居た面々の顔を視界に入れると嫌そうに眉を顰めて溜め息を吐いた。
そして、椅子に座り、目の前のテーブルに料理が配膳され終わるのを待ってから静は口を開いた。

「もう良いだろ。俺はこいつと二人で食事がしたい。仕事に戻れ」

さっさと散れと犬でも追い払うかの様にぞんざいな口調と仕草で手を払う静に、その場にいた執事長を始めとする洋館の使用人達から何だか温かな視線が静と明の二人の上を滑り、次には粛々と綺麗なお辞儀を見せて、食堂内から使用人達が立ち去って行く。

「はぁー…ったく、こっちは見世物じゃねぇんだ」

「せ、静…?今のは…?」

「あー、気にするな。別にお前がどうこうとかじゃない。どうせ俺が家に人を連れて来たのが珍しかったんだろう」

今いた人間達はこの洋館の中で働いている面々だ。有能な奴等だが、まさかこんなに野次馬根性があるとは知らなかった。

「そ、そうなんだ…。確かにびっくりしたけど、でも…」

「ん?どうした?何か気に掛かる事があるなら言えよ」

それとも料理に嫌いなものでも入っていたか。外が暑かったから、昼は冷やしパスタにしてもらったが。目の前の料理に視線を落として、言葉を途切れさせた明に静は正面の席から声をかける。
すると明は別に料理の事じゃなくてと、顔を上げて、静と視線を合わせるとおずおずと口を開く。そしてそれは静にとっては思いがけない言葉であった。

「その、こんな広い場所で静は一人でご飯食べてたのか?」

寂しくなかったのかと、明は自分だったらそれは少し嫌だなと、自分の感じるがままに言葉を紡ぐ。

「…別に」

そして、それは家に帰ったら、それが当たり前になっていた静には思いもよらぬ発想でもあった。

“寂しい”?

逆だろう。誰もいなければ気を遣う事も無い。一人の方が楽だ。…そうだ。

静は僅かに口元を歪めて、重ねて明に言葉を返す。

「別に。それにずっと一人だったわけでもない」

さっきも言ったが、この洋館には何の気まぐれか知らないが、今、岳も住んでいる。両親のいる別館ではなく、何故か、嫌いな静のいる洋館に。

「アイツがたまに居ることもある」

「……そっか」

何に納得したのか、僅かに柔らかく明の表情が緩む。
それを目にして何だか納得のいかなかったのは静の方で、気付けば淡々と口を動かしていた。

「まぁ、人間、一食や二食抜いたところで問題は無い」

「あるだろ。ちゃんと食べないと身体に悪いぞ」

柔らかく崩された明の表情が途端に変わる。口をへの字に曲げて眉を顰められる。

「何だ?心配してくれるのか?」

ころころと変わる明の表情に瞳を細め、面白そうに明を見つめ返して言えば、明はそれに気づかず真面目な会話を続ける。

「心配って言うか、もしかして、学園でもそんなことしてるのか?」

明が学園の食堂を利用している時に必ずしも静がいるわけではない。むしろ学園では、いつ誰が何処でご飯を食べているか何て、一緒に食事の約束をしない限り、誰にも分からないことだ。
心配から咎める様な眼差しに変化した明の視線を受けて、静はついいつもの調子で答えてしまう。

「気になるなら明が俺と一緒に食べるか?」

「……」

「明?」

反射的に断られる事を想定していた静は明の思わぬ沈黙に訝しげに眉を動かす。そして、次に返されたのは強く真っ直ぐな眼差し。

「俺は、ご飯は皆で楽しく食べたい」

「みんな?」

「透とか、黒月とか、神城…、静の事を知ってる皆と」

「ふぅん、明くんは俺と二人きりは嫌だと」

「え?誰もそんなこと言ってないだろ?」

俺はただ、ご飯は皆で食べた方が美味しいと思ってるし、静だってそうすれば身体の為じゃなくて、ちゃんとご飯を食べてくれるようになるかなって。そう思って。それだけで。
静とのご飯が嫌なわけじゃないんだと、明は自分の考えを、思いを包み隠さずに言う。

「あー…」

それを知ると、自分が明の言葉をただ捻くれて受け取っただけだと気付かされ、静はズレてもいないのに眼鏡の弦に指を添え、直す振りをして明の言葉を止めた。

「うん、まぁ。分かった」

言葉の端から感じる思いに静は平静を装って食事を続ける。けれども、無意識に静を喜ばせてくる明は時間をおいても静の心を強く揺さぶってくれた。

「それに、料理の味がどうとかじゃなくて、こうやって静と二人で食べるご飯は美味しいし、俺は好きだよ」

ご飯は一人より誰かと一緒に食べた方がずっと美味しいものだからと、明はそう思って、静にもそう感じてもらえると良いなと、自然と込みあげてきた柔らかな笑みを零した。

「――そうだな。お前の言いたいこと、少し分かった」

真正面から堂々とこんな明の良い顔が見れるなら、ご飯も良いものだ。今までは特に何も考えず、何かに集中している時は面倒くさくて抜いていたご飯も。

「本当か?」

「あぁ。これからは気を付ける。…その上で、俺がお前を飯に誘ったら、お前は頷いてくれんのか?」

「うん。その時に用事がなければ良いよ」

先程は軽い気持ちで口にした言葉。その重さと意味が変われば明の答えもそれに相応しく変わってくる。そこに変な意識はなくて、明の性格を表すかの如く、誠意の言葉には誠意の言葉が返される。

「先約じゃなくて用事か」

「静達だって忙しくなるんじゃないのか?」

夏休みが明ければ、テストはともかく、文化祭に生徒総会という一大行事が控えている。特に今回の生徒総会の議題には、今まで空席となっていた風紀委員長の指名が確実に取り上げられるだろう。風紀副委員長である明が関わらないわけにはいかないし、唯一の指名権は生徒会長である神城が持っている。静も生徒会副会長という立場から、傍観しているだけとはいかないだろう。

空になった皿の上にフォークを置いて、静は一つ頷く。

「もうひと波乱ありそうだな」

「何か知ってるのか?」

「イエスでもありノーでもある」

「…俺が知らなくても良い事なら言わなくていいけど、俺が知らなくちゃいけないことならちゃんと教えて欲しい」

この間みたいに、俺の知らない所で誰かが傷つけられて、後になってそれを知らされるなんて嫌だ。俺には静達みたいに誰かを守れる力は無いけど、それでも一緒に、その傍らにいてあげることぐらいはできるんだから。
そう目を逸らすことなく、自分の弱さも受け入れて、静を見つめ返すその瞳は強く真っ直ぐで。凛とした揺らぐことのない光を湛えていた。

…あの時も。

中等部時代、赤池に絡まれていた明。赤池と同様にみるからに不良然とした格好をした静に怯えた様子を見せながらも、その眼差しは揺らぐことなく、自分を助けてくれた静を見ていた。

怖がっているくせに、律儀にお礼の言葉を口にする。
こちらは偶然、それも気まぐれで助けてやっただけだ。感謝やお礼の言葉など期待していなかった。ただ、家の中の事で苛立ち、何もかもが馬鹿らしく思えていて、真面目に何かをすることが、することほど、嘘くさいものはないと、自棄になっていた時分。

明の事を助けながら、静が思った事は、こいつはいつか痛い目を見るだろうと冷淡な事を思っていた。実際に口にも出した。

『あんな野郎にまで律儀に答えるなんてどこまで人が良いんだお前は』

その真面目さに、律儀さに、後で馬鹿をみるのは自分だと静は皮肉気に唇を歪め、肩を揺らした明を鋭い眼差しで見返した。
そして、怯えながらも向けられた真っ直ぐな眼差しは静の言葉に戸惑いながらも、静かに受け止めている様にも見えた。

『あの、…助けてくれて、ありがとう』

『ふん。どうでもいいが、次があると思うなよ』

自分を見る、そのくもりの無い目。寸前まで、自分がどういう人間に絡まれていたか分からない筈がないのに、どうして似た様な気配を滲ませる静に向かってお礼など言えるのか。その辺の感覚が鈍いのか、ただの馬鹿か。眉を顰めた静は気分の悪さを覚えた。

『あ、…えっと…。その、名前…』

『じゃぁな』

関わった事を無かったことにする様に静は明の言葉を斬り捨て、その場を立ち去った。

あれは自分が捨て去った、過去に持っていた、人を信じている目だ。疑いを抱く前に、相手の誠実さを信じる。だから、赤池なんか、どこか捻くれた所のある連中が寄って来る。物珍しい。興味本位で。

『はっ、馬鹿じゃねぇのか。あいつ』

一度の偶然。一方的な邂逅。
でも、それが静に大きな影響をもたらした。

真っ直ぐに自分を見る眼差し。

俺は今、何をしているのか。誰にも言えない、佐久間家の醜聞。異母兄弟となった岳とは決着のつかない喧嘩を繰り返し、家に居たくなくて家を飛び出した。中等部に上がってからは家には帰省せず、学園の寮で気ままに過ごし、気の合う友人や、小等部から変わらず接してくる親衛隊の相手をする。休みの折には学園の外に出かけ、学園の外で出来た友人とは時折何もかもを忘れて街の中で遊ぶ。ふらふらと、どこにでも行けるようで、どこにも行けていない。己の中で燻る消化しきれない感情を誤魔化したまま。逃げていたのかも知れない。
だから、誠実さを語るあの眼差しが、全てを投げ出し自棄になっていた静には眩しすぎた。

どうすれば、そう強くいられるのか。
気まぐれの出会いから、その姿を見かけるたびに気にするようになり、何度か人を使って遠回しに助けてやった。

もしかして、何も知らないから、そう真っ直ぐでいられるのか。そう考えた時もあった。
けれど、冷静に思い返してそれは違うんじゃないかと思い直した。

新見 明という人間は素行不良の連中にちょっかいを掛けられて、普通に怯える事もある。何かされると怖いと感じて怯えるのだ。それにも関わらず、馬鹿正直に相手をして戸惑う。悪循環この上ないことであった。

そう、明は何も知らないわけじゃなかった。明は人の汚さを知った上で、人を信じる強さを持っていただけ。時に策を弄して人を試している自分とは違う。最初から明には明にしか持ち得ぬ心の強さと優しさがあっただけ。それがとても静には眩しくて、冷めきっていた心には熱かった。
今も…。
凛とした強さを持つ眼差しに。
その綺麗な心の在り方に……惹かれている。

「静?」

いきなり黙り込んでしまった静に明が不思議そうに首を傾ける。

明の心根はあの頃から何も変わっていない。
何一つ損なわれることなく、目の前にあり、それが今、自分へと注がれている。
そう改めて実感した現実に、何の脈絡もなく、口から言葉が零れ落ちていた。

「好きだ」

「…………え?…えっ!?…えぇぇっ!お、おれ、今そんな話してないよなっ!?してなかったよな!?」

ぼふっと音がしそうなぐらい一瞬で顔を真っ赤に染め上げ狼狽え出した明に静の方こそ驚いた様子で目を見開く。ぱっと右手で口元を押さえ、衝撃を隠せぬ声で呟く。

「俺、今…。声に出してたか…?」

「えっ!?あぁ…う、ん…」

何で俺に確認してくるんだと、恥ずかしさからとうとう視線を合わせられなくなった明の目が食堂の中を彷徨い、珍しく静の耳たぶが赤く染まる。

「うー…、あぁ…えっと…、その…」

「………」

とりあえず何か言おうと口を開く明の言葉は言葉にならず、静もしばし黙り込む。

「…あー…、こほん」

そんな気まずい緊張を孕んだ奇妙な時間は、静のワザとらしい咳払いにより打破される。

「明」

「はっ、はい!」

「…今のは思わず口にしたようなもんだが、俺の本心だ。忘れてくれるなよ」

というか、忘れるに忘れられないだろうと明は赤い顔のまま、こくこくと顔を縦に振った。それが今はせいいっぱいであった。

「午後からは少し屋敷の中でも散策するか」

「…うん」

僅かな時間で開き直ったというべきか、明にはストレートに伝えた方が伝わりやすいと学んだからか、少しは成長を見せたかに思われた静ではあったがその内心ではまだ少し自分の溢した想いに動揺していた。




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