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静が岳と初めて会ったのは中学に上がる前の事だ。
それまで静は自分に兄弟がいる事も、それが母親違いの兄弟である事も、岳の存在そのものを知らなかった。
岳は佐久間家が用意した別邸で、母親共々佐久間家の縁戚として生活していたらしい。静もその辺りの事は詳しく知らないが、とりあえず、そういうことだったらしい。

「俺の母親は知ってたらしいがな。俺がそれを知らされたのは中学に入る前だ」

過去を思い出す様に双眸を細めた静に、明は何と口を挟んで良いものか分からず、一度開きかけた口を閉じる。

明には父親しかいない。母親は明が小学校低学年の時に病気で亡くなってしまったから。しかし、明の父は今でも亡くなった母の事を想っている。まだ若いのだからと再婚を勧められても頑なに拒んでいる。だから余計に静の両親の話に何と言えばいいのか分からない。
明の困惑した様子に気付いた静はそんな深刻な話じゃないと明の頬に手を伸ばす。

「お前がそんな顔するな。幸いうちの母親とアイツの母親の仲は悪くない」

むしろ、母親二人は定期的に二人でお茶をするほど仲が良い。

「それなら…良いのか?」

「修羅場になるよりはマシだろ」

女ってのは良く分からない生き物だと、明の頬に触れた手でその輪郭をなぞる様に指先を滑らす。

「ちょっ、静…!だから、そういうのはっ」

じわりと熱を帯びた頬に、明が静の行動を止めようと頬に触れてくるその手を掴む。

「理解したいとも思わないが…」

僅かに揺らいだ声音に、静らしくないものを感じて明は引き剥がそうとしていた静の手を掴んだまま戸惑った様に動きを止める。

「静?」

それでも無意識に何かを感じ取っていた明の心が、掴んでいた静の手をぎゅっと握り返す。

俺はここにいる。ちゃんとお前の前にいるから。何処にも逃げたりなんかしないから。無理に話さなくてもいいんだぞ。

そう掴まれた手から伝わる温度に告げられた気がして、ゆっくりと静の口許が緩む。硬い表情から急に苦笑へと変わった静の雰囲気に明は瞼を瞬かせる。
 
「本当、お前は俺と違って真っ直ぐだな」

「それは…褒めてるのか?」
 
「そうだな。…お前は騙せても、誤魔化しの効かない相手だ」

騙すのと誤魔化すのでは意味が違う。自分の都合の良いように嘘を吐いて、その嘘を相手にそれが本当の事だと思い込ませる事を騙すと言い、自分の本心を悟られない為に上辺だけでその場を取り繕ったり、話を逸らしたりする事を誤魔化すと言うのだ。

静は明をジッと見つめたまま話の続きを口にする。

「大丈夫じゃなかったのは俺達の方か」

「静…」

だって、そうだろう?父親が自分の母親以外に外に女を作っていて、その上、何の冗談か俺と同じ歳の子供がいるなんて。そんなこと考えた事もなかった。

普通はそうだろう。それを中学に上がる前、今も多感な年頃と言えばそうだが、それをよりにもよって両親は何故か中学に上がる前に顔合わせの時間まで作って子供達を引き合わせたのだ。

「最初は何の冗談かと思ったさ」

静から見たらだが、両親の仲は決して悪くはなかった。父親は典型的な仕事人だったが、不器用ながらも家族を大事にしていたのは子供ながら静にも分かっていたし。父と結婚してから仕事を止めて、家の中の事を取り仕切る様になったという母もそんな父の事を理解して、父の事を支えていた。まぁ、母親は専業主婦としての腕はお世辞にもあまり良いとはいえなくて、ほぼ家政婦のお世話になっていたが。

そんなありきたりで平凡な家庭だとその時まで静は信じて疑わなかった。

それが何故、どうしてと、静は変わらぬ様子で席に着く母と、こちらを気にした様子で心配げに見る女。静と同じく驚いた顔をして静と父、母、女を順番に見る少年を前に、座っていた椅子を蹴倒し倒し、立ち上がっていた。硬い表情で自分達の事を見る父へと声を荒らげていた。

酷く裏切られた様な気がして。
常と変わらぬ様子で何も言わない母にも憤りを感じて。
一方的に批難する様な言葉の数々を投げつけていた。
そして、そんな静の言葉に反論してきたのは、父では無く、もう一方の相手。同い歳の子供だと紹介された岳だ。
岳からして見れば批難されたのは自分の父親と母親だ。

気付けば二人は大人の代わりに喧嘩を繰り広げていた。

「あれは佐久間家の醜聞トップ3には入るな」

「何を他人事みたいに…」

静は茶化す様に言うが、その当時の静が受けた衝撃を思うと、それでも当事者ではない明では全てを想像するのは難しいが。今の静しか知らない明は先程出会ったばかりの岳と殴り合いになったという当時の静の姿をぼんやりと思い浮かべて、ふいに繋がった己の考えにぽろりと言葉を落としていた。

「もしかして静、それでぐれちゃったのか?」

恐る恐るこちらの顔色を窺う様に見上げて来た明に、あれだけ過去の話に触れる事を身構えていた静はふっと息を漏らし、俺が馬鹿みたいだと己の事を自嘲するように唇を歪めた。

過去の己の所業を気にしているのは自分だけで、明からしてみれば静が不良に片足を突っ込んでいたことなど、ぐれちゃったのかという何とも可愛らしい一言で片づけられてしまうらしい。

明に嫌われたくないから慎重に言葉を選んで説明しようと考えていたのに、やはり明の前では、いや、明が相手だからこそか、勝手がちがくて困る。

「静?」

「はぁー…。ちなみに聞くが、お前の想像するぐれちゃったの中身は何だ?」

それでもまだ予防線を張る己の自身の臆病さに心の中で自嘲を零しながら、静はじっと明を見つめた。

「中身って言われてもなぁ」

うーんと首を傾げた明はそれでも自分が思い描くぐれちゃったイコール怖い不良像を口にする。

「家を飛び出して帰って来なかったり、道行く人を捕まえて無意味に絡んだり。誰彼構わず喧嘩したり?後はタバコを吸ったり、お酒飲んだり…。先生の言う事を聞かない人とか、授業をサボって遊んでる人とかかな…?」

「それだと後半二つは身近にいるな」

「お、俺は別に!神城と黒月のこと、そんな風には思ってないぞ!」

静の言葉に慌てて訂正の言葉を被せて来た明に静は先程までの緊張感も何もあったもんじゃないなと口元を緩める。

「誰もその二人だとは言ってないだろ」

「え…あっ!今のなし!」

「なしって、お前が勝手に自爆しただけだろ」

ふはっと気の抜けた笑い声を漏らした静に明の顔がかあっと熱くなる。
それはただ勝手に自分が自爆したからだけではなく、静が素の表情で柔らかく笑っていたからだ。咎める様に静に向けたはずの視線が外せなくなる。とくとくと早まる鼓動に、明はその熱さに翻弄されそうになる。

「――っ、知らない!静のことなんか、もう知らないからな!」

「ははっ、ちょっと笑っただけで、そう怒るなよ」

ぷいと顔を背けた明に静は口だけで謝ると、明の機嫌を直そうと右手を持ち上げ、宥める様に明の頭に触れた。くしゃりと頭に触れて来た手に明の肩が跳ねる。

「明」

「…何だよ」

そっと触れて直ぐに離れっていった手に、明は視線さえ向けることなく呟くように聞き返す。
決してその手を意識してのことじゃないと、明は余計なことを口に出してしまわぬように口を引き結ぶ。

「家出は少しだけした。春休みの間だけな。喧嘩はまぁそれなりに…」

また真面目な話に戻った所で、明の顔からは熱がひきそうにない。それを誤魔化すように明はテーブルに置かれていた飲み物に手を伸ばした。掌から伝わるひんやりとしたペットボトルの冷たさを心地好く感じながら明は小さく相槌を打つ。

「…そうなんだ」

「驚かないな?」

素行不良な事とは無縁で、暴力に関しても忌避感を抱いている様子の明の冷静な反応に静も落ち着いた心で問う。明にとって不良は怖い者のイメージではないのか。嫌われたくはないが、正直怖がられるぐらいはするかと思っていた静は次に明が発した言葉に衝撃を受けた。

「だってそれは、今の静になる為に必要なことだったんだろ?」

「………ものは言いようだな」

「どうして静はそう捻くれた取り方をするかなぁ」

「お前が良い方に取り過ぎなだけだ。だから、変な連中にも絡まれる」

「その…中等部の時の話が知りたいって思ってたのは本当だけど、俺だってそれだけに釣られてほいほい来たわけじゃないんだからな」

そこは間違えないで欲しい。一番大事なのは今なんだからと、明はまだ自分が知らない静の柔らかな顔を知って、その想いを強くしていた。故に明の口から出た言葉には自然と明の強い意志が感じられ…。

「明…」

そのストレートな物言いに静は一度瞼を瞬かせると、ゆるゆるとその頬を緩めた。一方で、自分の発言が如何に危ういか自覚の無い明に静は込み上げてくる感情を抑えつつ、表面上ではにこりと穏やかに笑って言う。

「そこまで言われちゃ期待に応えないわけにはいかねぇよな」

「え、なに…急に、…その嘘くさい顔。俺、別に変なこと言ってないよな?」

「大丈夫。お前はいつも通りだ。それで、そのままでいてくれ」

「えっ?…えぇっ?」

ちょうどその時、あたふたといつも通り慌てだした明を助けるかの如く、ぐぅと小さく上がった間抜けな音が二人の間を遮る。
あっと声を漏らして反射的にお腹を押さえたのは明で、その頬を恥ずかしげにじわりと赤く染める。しかし、静はそんな明をからかう事もなく、室内に置かれた時計に目をやると、もうこんな時間かと呟いた。
明を迎えに行って、家へと戻って来て、余計な事で時間を取られて、それだけで午前中は終わってしまったようだ。いつになく早い時間の流れを感じて、静は時計を見る双眸を細めた。

「とりあえず、外は暑いし、昼飯は家でいいか?」

視線を明に戻した静はソファから立ち上がりながら聞く。

「う…ん。迷惑じゃなければ…」

「言っただろ?ここにはどうせ俺一人だ。お前が迷惑をかける相手はいない」

「でもさっき、お母さんがって」

「あぁ…、それはこの洋館じゃなくて、奥にある別邸の話だ」

だだし、それは家族仲がどうこうの話しで別れているわけではなくて、単純に趣味の違いから来るものだ。

「お前も来た時に見ただろ?やたらとメルヘンな造りの庭や建物。奥に見えた煙突頭が付いてるのが別邸で、母親は普段からそっちに住んでる」

別邸は内装も外観と同じぐらい可愛らしいもので誂えられており、まさに童話の中の世界そのものになっている。静は家に帰る機会があっても、あまり近付くことは無い。それに中等部から九琉学園の寮に入る前に、まだ内装もマシだったこっちの洋館に静は自ら自分の居室を移したのだ。何故か同時期に岳も洋館に住み始めたが、静はあえてそれを無視していた。以降、両親とは同じ敷地内にはいるが、建物は別で、一緒に住んではいない。

「なにより、あんなふわふわした甘ったるい空間で生活できるか」

メルヘン過ぎて気が休まらない。

「そ、そうなんだ…。そんなに凄いのか」

「気になるなら後で連れて行ってやってもいいが、誰かに見つかってお茶会に引きずりこまれても俺は責任を取れないからな」

静にそこまで言わせる母親というものは気になったが、明は自ら自分を窮地に立たせて楽しめる様な性分でもない。即座に謹んで辞退を申し出る。

「俺にはハードルが高そうだから、遠慮しておく」

「賢明な判断だな」

テーブルの上に置いていた伊達眼鏡を掛け直すと静は明を促す。

「食堂は一階にある。部屋の鍵を掛けて行くから荷物はそのままでいいぞ」

「うん。…静は家でもその眼鏡をかけてるのか?」

もう伊達眼鏡だと知っている明は静を見て、ちょっと疑問に思って首を傾げる。
それに対して静は明を見つめ返すとにやりと口端を吊り上げて言った。

「外してもいいんだが、それでお前は大丈夫なのか?」

「俺?なんで俺?」

きょとんと心底不思議そうな反応を返してきた明に、静は喉の奥で笑い、掛けたばかりの伊達眼鏡を外す。思った事を素直に口に出して、墓穴を掘っていることに気付かない明に自覚を持たせるように静はそっと顔を近づけた。

「この顔で近付いても平気なのか?」

「―っ、」

「まぁ、キスはしやすくなっていいか」

「っ、ま、待って!」

眼前に近付いてきた神秘的な色合いを湛える青みがかった黒い双眸に、すっと鼻筋の通った端正な顔。普段から見慣れている眼鏡姿の時の静の顔と、裸眼をさらして見つめてくる静の顔の印象が違う。同じはずなのに何か違う。どきどきと煩く騒ぎだした胸に、明の制止する声は上擦った。

「だろう?お前が慣れるまでは伊達眼鏡で勘弁してやる」

ふっと笑って離れていった静に明は熱くなった頬を両手で押さえ、唸る。

「ううっ…、今のは、分かっててやっただろ」

「そうだな。さっきから明くんが可愛くて、可愛くて」

「バカ静!」

ぽんぽんと宥められるように頭を軽く叩かれ、明は静を睨み付けたが、静はそれすらも楽しげに受け止めると、明の背を押して食堂へと向かった。



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