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ばしゃりと水が跳ねる。
肌に感じる水の冷たさに水中へと潜った圭志は一度浮上して、きらきらと光る水面から顔を出した。

「っ…はっ、気持ち良いー」

額にかかった髪を右手で掻き上げ、一緒にプールへと突入した京介の姿を探す。

「おい、京介ー?」

きょろと辺りへ視線を向けた圭志はいきなり後ろからきたばこっという頭への衝撃に驚き、振り向く。と、視界の端でビーチボールがべちゃっと水面へ間抜けな音を立てて落ち、振り向いた先で京介がボールを打った体勢でこちらをにやにやと笑って見ていた。

「油断大敵だな圭志」

「なっ…お前どっからボールなんか持ってきたんだよ。このっ!」

にやりと笑った京介にぷかぷかと浮いたボールを掴み、圭志は打ち返す。
しかし、飛んできたボールを京介は簡単にかわしてしまいボールはまた間抜けな音を立てて水面に着水した。

「ずりぃぞ!避けんな京介!」

水面に浮かぶボールへ手を伸ばしながら、自分がボールを避けたことに不満そうに眉を寄せた圭志に、京介はククッと低く笑った。
左手でボールをトスし、右手を振り上げる。

「だったら打ち返してみろ…よっ!」

バシッと水飛沫を散らしながら押し出されたボールは真っ直ぐ圭志の元へ向かう。

「ンのやろっ!」

それを圭志は両腕で受け、自分の真上へ打ち上げてから右手を振り上げ京介へ打ち返した。
同時に水の中へ潜り、圭志は京介の視界から消える。

ボールを目で追っていた京介はその様子を認めながらも向かってくるボールを対処しようとして、一先ずボールを打ち上げる。ふわりと少し遠くへ落としてから圭志を探そうとして…いきなり水中へと引き摺り込まれた。

「おわ…っ!?」

ばしゃんと派手に水飛沫が上がり、咄嗟に息を止めた京介は自分を水中へと引き摺り込んだ元凶に目を向ける。ボールを囮に潜水で近付いていた圭志が京介の足へと腕を絡めてにやりと笑っていた。

どうだ驚いたか、と言わんばかりのしたり顔で絡めていた腕を離すと圭志はすぅと水の中を泳いで京介から距離をとる。
だが、京介がそうそう逃がすわけがなかった。

水の中、逃げた圭志を京介が追う。

壁際まで追い詰めれば圭志は綺麗なターンを見せするりと京介の手から逃げる。
しかし、水中での追いかけっこはそう長くは続かなかった。


空気を求めてザバァと水の中から圭志が顔を出す。それに僅かに遅れて京介が水面へ顔を出し、偶然にも手の届く距離にたゆたっていたボールを見つけた。きらりと京介の瞳が光る。そろそろと水の中で静かに伸ばされた手がボールを掴んだ。

「……圭!」

ふぅと落ち着いてきた呼吸に息を吐き出した圭志は背後から呼ばれて、少し離れた位置に顔を出していた京介を振り返る。

「あぶねぇぞ」

「は?」

続けられた言葉と額に衝撃が来たのはほぼ同時だった。ベシッと額にぶつかったそれは軽い音を立て、圭志は僅かに頭を仰け反らせる。

「――っ」

反射で目を閉じた圭志はぶつかった感触にそれが何なのか目にせずとも分かった。またか、と。

パチャと軽いものが着水する音を聞きながら圭志は右手で額を押さえ、体勢を整えてゆっくりと目を開く。
すると目線の先で京介が可笑しそうに笑っていた。

「今度は注意してやったぜ?」

「同時じゃ…意味ねぇだ、ろっ!」

バシャンと水飛沫を上げて圭志はまた水の中へと潜る。それに倣い京介も水中へと潜り込んで、仕返しを企てる圭志に水の中で応戦した。
息が続かなくなっては水面へと出て、攻防はやがて勝負事へと変化していく。

プールサイドに上がり、肩を並べて立った二人はプール全体を見ながら会話を交わす。

「50mだ。向こうでターンして先にここに戻ってきた方が勝ち。いいな?」

「あぁ。これで負けたら相手の言うことを一つ聞く」

問うた京介が真剣なら応えた圭志も真剣そのもの。負けず嫌いを発揮して二人はスタート位置に立つ。
一コース分間を開けて並んだ二人の勝負は打ち上げたビーチボールが着水してスタートとなる。

「行くぞ」

「おぅ」

バシリと京介の手で打ち上げられたボールは高く弧を描き、ふわりと、設けられていた二人の間のコースに着水した。それを目に圭志と京介はほぼ同時にプールに飛び込んだ。

水飛沫を最小限に抑え、水の中を潜水で進む。少しして浮力で浮き上がった所で泳ぎ出す。
共にクロールで進み、前半は大差無く折り返す。
辿り着いた壁に右手で触れ、ぐるりと体を回転させ壁を強く蹴り、後半戦へと入る。

息継ぎの合間に圭志は京介の姿をちらりと確認して水を蹴る足に力を入れた。

(ぜってぇ負けねぇ)

逆に圭志の姿を視界に入れた京介は全力を出しながらもふと沸いた誘惑に心を揺らしていた。

(相手の言うことを一つ聞く…、圭志のやつ俺に何を言うつもりだ?)

折り返し半ば、45mを過ぎたところで共にスピードが落ちてくる。
若干京介の方が早いぐらいか。


目前にゴールの壁が見えてきて圭志は最後の力を振り絞る。水を蹴り、腕を動かして前へと手を伸ばした。
その手が水を叩きつけるようにバシャンと強く壁に触れる。

「ぶは…っ」

顔を上げ、少し遅れてコチラを見た京介に圭志は嬉しそうににこりと無邪気に笑った。

「俺の勝ちだな、京」

数秒先を行っていた京介だったが、心に生まれた僅かな迷いが京介の動きを鈍らせ先行していたその差をいつの間にか逆転させていた。

「しょうがねぇ…」

ふぅと息を吐いて京介はグシャグシャになった髪を掻き上げる。負けても何故かあまり悔しく思わない。それはきっと、ここへ来て初めてみる圭志の子供っぽい満面の笑みのせいか。

毒気を抜かれてゆるりと愛しげに瞳を細める。
その心の動きに合わせるように発した声音も自然と甘いものになった。

「それで俺に何をして欲しいんだ?」

圭?と視線を絡めて言えば圭志は一旦京介から視線を外し、水の中を潜って移動してくる。
返事を待つ京介のすぐ側で顔を出した圭志は濡れて張り付いた髪を鬱陶しげに払うと無邪気な笑みを一掃してニヤリと口角を吊り上げた。癖のありそうな色気を含んだ眼差しが京介に向けられる。

水の中から持ち上げられた手が京介の頬に添えられ、するりと輪郭をなぞるように撫でて首元へ下りていく。
妙に熱を煽るようなその仕草に京介が手を掴み止めようとすれば圭志はその手を制するように言った。

「お前のハジメテが欲しい」

「………」

真っ直ぐ絡められた眼差しに持ち上げられた京介の手がピタリと中途半端に止まる。
その様子に圭志はくくっと悪戯染みた笑いを溢すと首元に触れていた手で京介の肩を辿り、するすると腕の上を滑らせ逆に京介の手を掴んだ。

「いいだろ?…今夜の夕飯お前が作れよ。ハジメテの手料理」

「…は?」

一泊間を開けて返ってきた間抜けな返事に圭志は纏っていた艶を帯びた雰囲気を一瞬で脱ぎ去り、くつくつと笑い出す。

「お前…っそんな深刻そうな顔すんなよ。わざとそういう雰囲気作り上げたけど…って、わぷっ!?」

話している途中で圭志はバシャリと水の襲撃に合う。反射で閉じた瞼を開ければ初めて見る京介の表情が瞳に写る。

どこか憮然とした様子で少し耳が赤い。

「ふはっ…、もしかして照れてる?それとも拗ねてんのか?」

俺がからかったから。

思わず嬉しそうに出てしまった声に京介から低い声が返される。

「誰が」

「やっぱ拗ねてんだろ!可愛いなー、お前。あ…そういや昔も…」

ふと圭志の瞳が懐かしむように細められる。
だが、圭志が次の言葉を口にする前に京介が遮った。

「余計なことは思い出すんじゃねぇ。それより何で料理なんだよ。作れねぇぞ」

明らかに話を反らした京介に圭志はにやにやと笑みを浮かべたまま話に乗る。

「それでも構わねぇよ。俺が欲しいのはお前のハジメテだからな。よく考えたら俺、お前からハジメテって形のもの貰ったことねぇんだよな」

「そう…か?」

「そ。だから下手くそでも今夜お前が作れよ。サポートはしてやる」

首を傾げる京介に圭志は優位に立って楽しげに笑った。


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