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そして、聞き間違いでもなくしっかりと耳に届いた返事に静が息を呑む。耳元に寄せられていた唇からそっと吐息が零れた。

「……明」

「…はっ、…はい」

耳朶に触れた吐息にどきどきと緊張が高まりすぎて明の口から上擦った声が漏れる。
顎に添えられていた指先が熱くなった頬へと滑り、再び視線が絡められる。

「ぅ……」

既にいっぱいいっぱいな明は腰に回された腕の力が強まった事にも緊張で体を強張らせた。
そのことは静にも筒抜けで、一生懸命過ぎるほど一生懸命な明の姿に瞳を細めると静は口を開く。

「今のやっぱり無しとか利かねぇから」

「そっ、そんなこと…言うわけないだろ!」

念の為重ねて言えば流石にむっとしたのか、明は赤い顔のまま精一杯静を睨み付けた。

「そうか」

「っ、……そう、だよ」

だが、自分を見つめて緩く和らいだ眼差しに頬は熱くなる一方で、瞼を伏せた明はぼそぼそと返すだけしか出来ない。心臓はまるで全力疾走した後のようにどくどくと激しさを増し、明の体温を上げていく。そんな中、頬に添えられていた手がするりと頬を撫で、指先が唇に触れる。

「――っ」

びくりと大袈裟なほど明の肩が跳ねる。

「…昨日のこと、俺は謝らねぇから」

「え…?」

最早それどころではなかった明は突然切り出された話に目を丸くして静を見返す。

「いいな?」

宥めるような口調で言いながらゆっくりとなぞられた唇に生々しい記憶が蘇り、羞恥のあまり明は固まった。

「…っ…な…!」

「あれでも我慢した方なんだ。次からはもっと上手くやる」

「うっ…上手くって…」

ふっと今まで静の奥底にしまわれていた感情が顔を出す。荒々しくも妖しく微笑んだ端整な顔に目を奪われ、きゅぅと鼓動が収縮する。明は無防備にも距離を縮めることを許した。

「明」

唇に吐息が触れ、甘さを帯びた声が間近で囁くように告げる。

「俺は別にどっちでもいいけど」

「ぁ…」

「こういう時普通は目を閉じるもんだぜ」

続いた言葉の意味を理解する前に唇に柔らかな感触を感じ明は目を見開く。
啄む様に優しく重なる唇に頭の中が真っ白になり、ただただ熱い瞳に見つめられる。

「ゃ…っ…」

その視線に堪えきれなくなって明はぎゅぅと堅く目を瞑った。


けれど、逃げれる筈もなく。触れてくる唇の温度や頬に添えられた右手。腰に回された左手に意識が引き寄せられてしまい、何もかもが初めてな明は静に翻弄される。

いつの間か明の手はすがるように静のシャツの裾を握り締めていた。

それでも時間にしてみればたった数秒。戯れるように何度か唇に触れるだけで離れていった唇は明に向けて毒のように甘い声音を吐き出す。

「…嫌じゃないだろ?」

そして鼓膜を震わせた音に、明はうんともいいえとも言えずに押し黙った。ただ、耳元まで赤く染まった顔が言葉の代わりに明の気持ちを代弁していた。

ククッと低く静の喉が鳴る。
聞かなくとももう分かりきっている返事でも、やはり本人の口から聞きたい言葉はある。
明の顔を覗き込んだ静は意地悪く聞いた。

「明」

「………」

「言わないと続き…するぞ?」

「――っ」

じわりと明の茶色の瞳に薄く膜が張る。
微かに震えた唇が言葉を紡ぐのを静は大人しく待った。

「……ぃ」

「ん?」

小さく呟かれた声に耳を傾ける。そして、

「……分かんない」

予想していなかった答えを返された。

「分からない?」

思わず虚を突かれた表情を浮かべ静は繰り返す。
それに気付かず明は尚もぼそぼそと歯切れ悪く言った。

「…はず…かしくて…」

どうやら好き嫌い以前に、恥ずかしさが上回ってしまい分からなかったらしい。
明らしい答えに静はふはっと笑う。

「お前な、そういう時は嘘でも嫌じゃないって言えよ」

「…っ、るさい。俺だってもう何が何だか分からなくて…」

「いや、…可愛くて良いけどな」

さらりと自然に静の口から飛び出した聞き慣れない台詞に、明はうっと声を詰まらせる。

「どうした?」

いきなり様子のおかしくなった明に静は不思議そうな顔をするが、目も合わせずふぃと視線を反らした明の反応に直ぐに思い当たって笑いを噛み殺した。

「くっ…、可愛いことするよなお前」

「〜〜っ、だ…だって…何か、違う」

「何が?」

ん、と先を促す静をちらりと窺い明はどきどきと鳴り止まない鼓動に急かされるように口を開く。

「…全部。…なんか、俺の知ってる静じゃないみたい」

視線を反らしたまま言われた言葉に静は口端を吊り上げた。


「意識してくれてるわけだ」

腰に回されていた腕が離れ、頬に触れていた手も離れていく。触れていた熱が無くなった事にホッとしつつ、微かな寂しさが明の胸を過った。

「静…?」

胸ポケットに引っ掛けていた伊達眼鏡を取り、眼鏡を掛け直しながら静は明を見つめる。

「もう焦る必要はないな。時間はたっぷりあるんだ」

眼鏡を掛けてくれたことでやっと見慣れた姿に戻ったと、明が少し気を抜いた隙を狙って静は吊り上げた唇で低く囁く。

「俺と付き合うからには今までのように他の男を頼るなよ明。分からないことがあればいちから俺が教えてやる」

「え、ほ、他の男って…」

狼狽え赤くなるだけでいまいち反応の鈍い明に静は付け加える。

「黒月だ。黒月が来てからお前はアイツを頼りにしてる節がある」

「別にそんなこと…」

「あるから言ってるんだ」

何だか先程もやたら黒月の話に突っ掛かっていたなと思い出して明は赤い顔のまま不思議そうに首を傾げる。

俺が気付かなかっただけでもしかして…。

「静って黒月と仲悪い?」

「…悪くはないが良くもないな。それは向こうも分かってることだ」

「何で…」

「分からないか?」

うん、と素直に答える瞳に静は噛んで含むように伝えた。

「そうやってお前が黒月を気にかけるからだ」

「え?」

「お前、俺と二人でいて俺が他の奴の話ばかりしてたらどう思う?」

唐突に出された静からの例え話に明は少し考えて口を開く。

「どうって別に…」

「何とも思わないのか?」

「だって友達の話だろ?」

「…そこからか。まぁいい」

はぁ…とため息を落とした静を明はジッと見つめる。
今日は今だけで色んな表情の静を見た気がして明の胸はどきどきと高鳴る一方で何か温かなもので満たされていく。
それも何だか嬉しくて、緊張が解けたように気付けば明は笑っていた。

終始ぎこちない様子だった明のその笑顔を目に、癖のように眼鏡のブリッジを中指で押し上げると静は諦めたように肩を竦める。

「しょうがない。他の男を頼ったらお仕置きにするかな」

「えっ!」

その台詞にはぶわっと一瞬で顔を真っ赤にし反応を見せた明に静は微かに目を見張る。だが直ぐにその口許は緩み、静はからかうように口を開いた。

「何を想像したのかな明くん?」

「なな、何も!」

「何も?それなら何でこんなに真っ赤になってるんだ?ん?」

「〜〜っ」

くすくすと笑い、苛めモードに入った静に明は堪えきれなくなって帰る!と宣言して静に背を向ける。

「っと、待てよ明」

しかし、後ろから静に右手を取られて明の足は止まった。

「はな…」

「もうからかわねぇから生徒会室行くぞ」

「えっ…?でも…見つかったら、静今謹慎中なんだろ…?」

からかわれた事を彼方に放り投げ静の身を心配してきた明に静は苦笑を浮かべ、明の手を引いた。

「ちょっ!」

そのままぐいぐいと手を引かれて明は静と共にエレベータに乗る。

「謹慎って言っても寮内謹慎だからな。寮内にいれば良いんだ」

「それって屁理屈って言うんじゃ…」

二人が乗り込んだエレベータの扉は間もなくすぅっと静かに閉ざされた。


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