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「いいか。安藤に会ったらまずどういうつもりであのクッキーを渡してきたのか訊け。用件はその後だ」

ロビーに降りる前、明の部屋を訪れた京介は明にそう指示を出した。

「俺達も途中まで一緒にロビーに降りるから。何かあったら直ぐ逃げろよ」

ポンと圭志には肩を叩かれて、明は緊張した面持ちで頷く。
ロビーは大勢の生徒が出入りする関係上結構な広さがある。
窓辺には観葉植物が置かれ、すぐ側には管理人室もある。

寮への来客はまずないが、あった場合は管理人室で対応される。
夏休みの間に工事業者が入る予定になっているせいか管理人は今日も在中らしかった。

「人目があるから問題は起きねぇだろうがな」

念の為だと言って、ロビーには足を踏み入れず、滅多に使われることのない階段側に京介と圭志は回ってロビーの様子を窺う。

エレベーター前で圭志達と別れた明は観葉植物のある辺りで人待ち顔で佇む安藤を見つけて歩み寄った。

「ごめん、待たせた?」

「そうでもない。こっちこそ忙しいのにごめんな」

「それは別に良いんだけど…」

話の主導権を握られる前に明は指示されていた事を口にした。

「この前安藤がくれたクッキー、あれって何か意味のあるものだった?」

クッキーと言われて安藤の表情がパッと変わる。

「クッキー食べてくれたのか?どうだった?美味しかったか?」

「え…あの…」

「俺の家、小さいながらお菓子工場持ってて、新見にも食べて貰いたいなって思って……あ、ごめん。何か一人で盛り上がっちゃって」

恥ずかしいなと、スポーツ選手らしく短く切られた黒髪をガシガシと掻き安藤は恥ずかしそうに笑う。

「はぁ…っ、おい、京介。あれはどういうことだ」

階段の側に隠れて明達の様子を見ていた圭志と京介の頭上にピリピリと苛立った声が落ちてくる。

それに構わず京介は呟く。

「安藤はシロだな」

「見た目通りか。藍人の評価も間違ってなかったな」

圭志もこそこそと呟き返し、京介が背後を振り仰いだのに倣って圭志も背後へ視線を投げた。

そこには、謹慎中の筈の静が微かに息を切らせて立っていた。

これは京介が何かしたなと、圭志は隣で涼しい顔をして静を見る京介の横顔を見る。

七階から急いで階段を降りてきたのか、そんな静に京介は意地の悪い笑みを浮かべた。

(……あ。変わってねぇなコイツ)

その横顔に一瞬重なったあどけない頃の横顔に圭志はふっと声には出さずに笑った。
一緒にいる時間が増えたせいか圭志は京介の色んな表情を目にする機会が増えていた。


そして、説明もそこそこにその場を静に任せ、京介と圭志は階段を使って部屋へと戻る。
その途中で、階段を昇りながら京介はどこかへ電話を掛け始めた。

「宗太か?どうやら安藤はシロだ。もう見張りは良い。あぁ…、じゃぁな」

「渡良瀬まで動かしてたのか?」

「皐月もな。安藤がクロだった場合、仲間がいるはずだからな。ロビーの周囲を張らせた」

あの短時間で全てを手配した京介に圭志は感嘆とした声を漏らす。

「俺の時もこうやってたのか」

どうりで逃げられなかったはずだ。

「使えるものは使う。手に入れたいと思ったものならなおさら」

四階に差し掛かった階段の上で、伸ばされた手が圭志の腰を浚う。
不安定な階段の上で、壁へと背中を押し付けられて圭志は咄嗟に京介の腕を掴んだ。

「京……ンッ!?」

壁に押し付けられたと思ったら掠めるように唇を奪われ、緩く弧を描いた唇が囁きながら離れていく。

「だから、逃げられると思うなよ」

その台詞が些か気に入らなくて離れて行こうとした唇に圭志は軽く噛み付いた。

「っ、圭……」

ぴくりと跳ねた肩に満足して離れる。

「は…、逃げねぇし」

そして掴んでいた京介の腕から手を離し、圭志は軽く京介の胸を押した。
次の段に足を掛け振り返る。

「今のが無ければ惚れ直したって言ってやったのに、惜しいことしたな」

「…そうでもねぇさ」

京介も一段階段を上がりながら圭志に甘く噛まれた唇に指先で触れ、目線を合わせた。

「お前からの貴重なキスを貰ったからな」

「………」

「したくなったらまた何時でもしていいぜ」

大歓迎だとニヤリと笑った京介に圭志は返す言葉に詰まる。
珍しくも圭志の耳朶はほんのりと赤く染まっていた。


上階での雰囲気を暑い夏とするならば下階での空気は凍てついた冬。

寮内での謹慎を言い渡されていた静は京介から至急階段でロビーに降りてくるようメールを受け、意味が分からぬまま降りて行った。

そして一人残され、大変不愉快な思いをしていた。

「何で俺がこんな場面を見なくちゃならねぇんだ」

唸るような低い声音が、据わった目が、視線の先で青春を繰り広げる二人に向けられる。

爽やかな笑顔をどこか緊張で強張らせて安藤が口を開いた。

「夏休みは会えないって思ってたから今日新見に会えて嬉しかった」

「そんな…別に喜んでもらえるようなものじゃ…」

困った顔をした明に安藤は首を横に振り、新見と真剣な表情で明の名を呼ぶ。
それに明も安藤を見返し、思わず見つめ合う形になった。

「いきなりこんなこと言われても困ると思うかもしれない。でも…」

「……?」

「新見。…俺は新見が好きだ」

「――っ」

向けられた凛とした眼差しに明は息を呑む。じわりと熱くなる頬に、明は頭の中を真っ白にして安藤の言葉を聞いた。

「あの日、怪我の手当てしてくれただろ?…一目惚れなんだ」

「あ…」

真剣な表情が照れ臭そうに崩れ、少しだけ緩んだ空気に明は言葉を探す。

「俺と付き合って欲しい」

「………ごめん」

探して明の口から出た言葉は短い断りの文句だけ。

「やっぱり佐久間と付き合ってるのか?」

目に見えて肩を落とした安藤の台詞に明はぎょっとして無意味に持ち上げた手を振り、更に顔を赤く染めて慌てて言う。

「え…、なっ…ちがっ…」

「違うのか?じゃぁ…黒月か?最近よく一緒にいるし」

「そっ、それは絶対に無いから!」

学園内の情勢には疎いのか恐ろしい事を口にした安藤に明は赤かった顔を青くして強く否定した。


赤くなったり青くなったり、安藤相手にころころと表情を変える明に静の顔から表情が消える。
掛けていた眼鏡を癖のように押し上げ、階段から一歩足を踏み出した。

「それだけは絶対にないから!」

力強く否定した明に、安藤はそっかと何処と無く安堵の息を吐いて会話を続ける。

「新見がフリーなら俺にもまだチャンスはあるって思っていいか?」

「いや…、それは…多分待って貰っても返事は変わらないと思う。それに安藤なら俺より他にもっと良い人が…」

「もしかしてもう好きな人がいるのか?」

今度ははっきりと断りの台詞を口にしようとした明に、安藤は最後まで言わせず言葉を被せた。
好きな人と言われて、瞬時に思い浮かんだ顔に明は頭を横に振り、浮かんだ顔を追い出そうとして…動きを止めた。

(向き合うって決めたんだ。自分の気持ちと…)

返事を待つ安藤に明は小さくだが、しっかりと頷き返して言う。

「好きな人が…いるんだ。だから安藤には応えられない」

真っ直ぐ目を見て告げられた安藤はその時、明が自分の手を取ることは無いと悟ってしまった。
完全に振られてしまったと、安藤は明が想いを寄せる人物を羨ましく思う。

「こんなにハッキリ言われたんじゃ諦めるしかないか…」

「ごめん」

「いや、逆にハッキリ言ってくれて良かった」

力無い笑みを浮かべた安藤に明は声を掛けようとして賢明にも言葉を飲んだ。
振った自分が声を掛けても安藤は喜ばないだろうと思ったから。

「話、聞いてくれてありがと」

そう言って背を向けた安藤がロビーから出て行くのを明は黙って見送った。
その姿が見えなくなってから明はほっと息を吐いて、自室に帰ろうと踵を返す。

振り向いた先で、背後に立っていた人物を瞳に映して、明は大きく目を見開いた。


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