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「さんきゅ、皐月。何とか部屋から出て来たのは良いが両手が使えなくて困ったぜ」

サランラップの掛けられた硝子製の器には京介がリクエストした冷やし中華が彩りも鮮やかに盛られていた。
扉を開けた皐月は圭志の手にあるトレイに目を向け、驚きも露に言う。

「わぁ!もしかしてこれ先輩が作ったんですか?」

「ん、まぁな。たいしたもんじゃねぇけど」

応接室に足を進めながら得意気にするでもなく圭志は淡々と皐月に返す。

「いえ、凄いです!…僕ももっと料理が出来たらなぁ」

呟くように溢された皐月の語尾を拾った宗太が皐月の側へ寄って来て、その頭を優しく撫でながら言う。

「皐月も料理出来るじゃないですか」

「でも僕が作れるのは殆どお菓子でご飯じゃないし…。僕も宗太先輩にお昼ご飯とか夕飯とか作ってみたいんです」

「皐月…」

計算ではない、ただ純粋に思ったことを口にした皐月に宗太は目元を和らげ破顔した。
ふわふわと漂う甘い空気を背に受けながら圭志はトレイを一旦応接室のテーブルに下ろす。

冷やし中華の入った器をトレイからテーブルの上に下ろしそれぞれ箸を添えて、何だか難しそうな顔をしてソファに座る明へ圭志は声をかけた。

「勝手に冷やし中華にしちまったけど平気か?」

「へ…?あぁ、うん。平気。黒月ってほんとに何でも出来るんだな」

「そうでもねぇさ」

肩を竦め、トレイをテーブルの端に退けた圭志はグラスを片手に京介が入っていった給湯室に足を向ける。
そこで氷と麦茶を出している京介の側に寄り、棚の中からグラスを四個取り出した。

「お前、明に何か言ったか?」

京介の方へグラスを寄せて置けば、適当に掬った氷が入れられる。がらがらと音を立てる氷の上へ麦茶を注ぎ、圭志はちらりと京介の横顔を見た。

「そろそろ自覚しろって言っただけだ」

「ふぅん」

圭志は麦茶の入ったグラスをトレイに乗せ、京介は自分のグラスを手に給湯室を出る。

「渡良瀬、お前らの分はここに置いとくぞ」

「ありがとうございます」

机の片隅に、会計と書かれたプレートが乗る机の上に宗太と皐月の分の飲み物を置き、圭志は京介の後を追う。
持ってきた麦茶を明に渡し、圭志は京介の隣に腰を下ろすと残りのグラスを自分の前に置いた。

「いただきます」


野菜はしゃきしゃきとしていて、短時間で作ったにしては麺も良く冷えていた。タレも酸っぱ過ぎずにさっぱりとした味を出していて、明は一口食べると思わず言葉を落とした。

「あ、美味い…」

その様子に圭志は冷やし中華をつつきながらそういえばと口を開く。

「寮に入って結構経つけど、もしかして俺の作った飯食うの初めてか?」

「うん」

「そうだったか。じゃぁ俺が勝手に作った気でいたんだな」

二人の会話に口を挟まず、箸を進めていた京介はちらりと向けられた圭志の視線を無言で受け止める。何だと視線で促せば圭志は冷やし中華に一度視線を落とし、言った。

「夕飯、ご飯もので何が食いたいか考えとけよ。…希望が無かったら簡単に野菜炒めにするからな」

「あぁ…。分かった」

ずるずると麺を啜り始めた圭志とどこか楽しそうに瞳を細めた京介を目にして明は一瞬ぽかんと間の抜けた顔をし、麺を挟んだ箸を止める。

「なんか…もう、すっかり恋人同士なんだな」

何となく居心地が悪くなって明は二人から視線を反らして冷やし中華に集中することにした。他所では宗太と皐月が仲良く話しているのが聞こえる。

「どこが?普通だろ」

「…まぁな」

明にそう言われた当の二人は顔を見合わせ、京介はさらりと、圭志は少し考えた様子で間を開けてから返した。

食べる手を止め、麦茶に口を付けた圭志は話を切り換える様に別の話を振る。

「午後はどうするんだ?」

「俺は午前中に出来なかった風紀の書類片付けなきゃいけないから」

ここに居ると続くはずだった明の言葉を京介が遮る。

「それならもう手の空いた宗太と皐月に回して処理してもらった。後はお前の確認が必要な書類が三、四枚残ってるだけだ」

「え?」

「宗太。明の確認が必要な書類だけ持って来い」

人目も憚らず皐月を膝の上に乗せて、照れたように笑った皐月を可愛いと言って抱き締めていた宗太は京介に名指しされて名残惜しげに皐月の額に唇を落とす。

「続きは部屋で」

ひっそりと内緒話をするように耳元で囁かれた甘く低い声音に皐月は頬を薄く染め、小さくコクリと頷く。

膝の上から皐月を下ろした宗太は机上のクリアファイルを手にすると椅子から立ち上がった。


食べる手を一旦止め、明は宗太からクリアファイルを受け取る。
中に入っていた紙を引き抜き目を通すと明は顔を上げ、宗太を見返した。

「本当にこれだけ?」

「それだけです。処理し終えた書類は京介が持ってますよ」

ちらりと向けられた視線に京介は軽く頷く。
決して気のせいではない朝から感じる確かな気遣いに明は少しだけ泣きそうになり、…笑った。

「ありがと」

それに気付きながらも皆、気付かない振りをして会話を続けた。

「それならお前も午後はフリーか」

コップを置き、箸で麺を挟みながら圭志は考えるように呟く。その先を察して明はクリアファイルを自分の横に置きながら口を挟んだ。

「あ、黒月。俺は一人でも大丈夫だから、午後は神城と二人でゆっくりしなよ」

「明?」

いきなりどうした?と眼差しで問えば、普段の明るさを取り戻した明が置いた箸を手に取り言う。

「俺、午後は部屋に居るから。せっかくの夏休みなんだし…さ」

圭志と京介の親密なやりとりを目にして、明にも思うところがあったのか明はそう口にした。
一番先に冷やし中華を食べ終えた京介が箸を置き、答えようとした圭志を視線で制して言う。

「それならそれで構わねぇ。ただ、部屋から出る時は誰でもいいから声掛けろ」

「うん、分かった」

「私も皐月と自室にいますから。何かあれば遠慮なく電話して下さい」

「渡良瀬もありがと」

いえ、と穏やかな笑みを見せて宗太は皐月の元へ戻っていく。
大人しく椅子に座って待っていた皐月の手を取り、宗太は皐月と手を繋いで生徒会室を出て行った。

「京介」

「何だ?」

昼食を食べ終え、明が給湯室にコップを片付けに行った隙に圭志は隣に座る京介に話し掛ける。

「良かったのか明を一人にして」

「部屋にいる分には平気だろ」

「そうじゃなく…」

すと伸びてきた京介の指先に言葉を止められる。唇に押し当てられた指に圭志は京介を見返した。

「あれで明も男だ。あまり言ってやるな」

それよりと京介は言葉を続け圭志に顔を近付ける。

「お前が気にすべき相手は他にいるだろ」

そう言われて、間近で絡んだ視線に圭志は微かに口許を緩めた。


今にもキスでもしそうな危険な距離に、給湯室から出てきた明は二人を目にして動きを止めた。

「っ……」

幸い二人はまだ明に気付いていないのか、その距離を保ったまま会話を続けている。

その体勢に、昨日己の身に降り掛かった出来事を重ねて思い出してしまい、じわりと熱を帯びた頬に明は首を横に振った。

「なに思い出してるんだ俺は…、あんな奴…」

神城は静が俺を守っていたっていうけど…、それが本当なら静は何で言ってくれなかったんだ。
いつも煙に巻くような態度で、俺をからかって遊んでるだけだろ。

そう思うと苦しくなる胸に、本当はもう俺は気付いていた。

黒月が言ったように俺は静を信じたいんだって。
信じさせて欲しいんだって。
でも、同時に怖いんだ。

静が口にする言葉の何が本当で何が嘘か俺には分からないから、俺は信じられない。

「…明?」

いつの間にか俯いていた明に圭志の声がかかる。

「っあ、…なに?」

考え込んでいた明は弾かれたように顔を上げ、とっくに熱の引いた頬をぎこちなく動かした。

「何じゃなくて、悪いな片付けやらせて」

「え、いいよ、コップだけだし別にそんなこと」

昼食で使った硝子製の器や箸を乗せたトレイを持って圭志がソファから立ち上がれば京介もその後に続くようにして立ち上がる。

「書類は夕方に取りに行く」

ソファに置いていたクリアファイルを京介から受け取り明は頷き返した。

「分かった」

三人は生徒会室を出て、京介が鍵をかけるのを待ってからエレベーターに乗り込む。

一階下の七階で三人はエレベーターを降り、副委員長室とプレートの掲げられた部屋の前で明は圭志と京介と分かれた。

バタンと閉めた扉に背を向け、電気を点けなくともまだ明るい室内を見つめて明は呟く。

「これ以上は…俺の問題だから」

俺が自分で何とかしなくちゃいけない。

あんなにも自分のことを気遣ってくれたり、心配したり、相談に乗ってくれたりする友人達の優しさに触れて明は勇気を貰ったような気がした。

「まだ少し怖いけど…」

靴を脱いで玄関を上がった明は手に持っていたクリアファイルとポケットに突っ込んでいた携帯電話をリビングのテーブルの上に置く。
洗面所で手を洗い、リビングに戻ってきた所でマナーモードに設定していた携帯電話が振動していることに気付き明は慌てて携帯を手に取った。


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