交錯する世界(ALL)


ゆらりと波打った鏡面。
そこに映った光景はーー



黒いパーカーの上にジャケットを羽織り、細身の黒いパンツを履いた圭志は持ち物を確認すると寮の自室を足早に後にしようとした。

「こんな早朝からこそこそと、何処に行く気だ?」

しかも目立たない様に色味を抑えたそんな服装でと、寮室を出て、赤い絨毯の敷かれた廊下で圭志は背後から呼び止められるように声を掛けられた。
振り向けばそこには、壁に背を預け、圭志に咎める様な眼差しを向ける京介がいた。

「何で分かった?」

待ち構えていた様子の京介に圭志は動揺を見せることも無く、ただ素直に疑問を口にした。

「お前が昨日、寮監から届けられた手紙を睨み付けるように見てたのが気になってな」

明日かと、小さく零された呟きを拾って、こうして寮室の外で待っていたというわけだ。
本当なら部屋の中に入ろうかと思ったのだが、それより早く圭志が寮室から出て来たのだ。

「それで、あの手紙は何だったんだ?」

特段焦る様子も誤魔化す気配もなく、会話をする気はある様子の圭志に京介はずばり本題に入る。圭志が受け取ったのは黒い封筒だ。市販の白い封筒ならまだしも、黒い封筒とは些か不吉な色であり、不幸の手紙でも入っているのかと一瞬疑ってしまった。しかし、こうして早朝から圭志が出掛けようとしているあたりあれは呼び出し状だったか。

「あー…、とりあえず、約束の時間に遅れるとマズいから歩きながらでいいか」

圭志は京介の問いかけに、周囲を見回すと、僅かに声量を落としてそう言った。

「いいぜ。話してくれんなら」

圭志と共に出かけることになった京介は圭志が僅かに安堵の息を吐いた事を知らない。
 

何故なら―…


一通の黒い封筒。目の前に差し出されたそれに工藤は微かに目を見張り、次いでその封筒を差し出してきた喫茶店兼バーの店主、筧 恭二の顔を見た。

「お前に召喚状だ」

「召喚状…」

差し出された黒い封筒を受け取りながら、オウム返しに呟いた工藤は糊付けのされていない封筒をその場で開けると中に入っていた白いカードを抜き出す。綺麗な筆跡で書かれたカードの文面に目を走らせ、一人呟く。

「やっぱり、死神の件か」

自身がこの封筒の差出人から呼び出される心当たりなど一つしかない。また、死神とは先だってDoll[ドール]が潰したチームの事だ。いくら工藤が、Dollがこの地域のトップの座に君臨し、普段からそれが当たり前のように仕切っていようが、無視できない組織がある。それがカードの片隅に印字された黒い鳥のマークをシンボルとする組織。鴉-カラス-だ。

ころころと入れ替わりの激しい下位チームや一般人にはほとんど聞き覚えも無く、その存在自体関係ないが、この地域一帯を纏める役割も担っているDollからしてみれば鴉は更にその上に存在する上役みたいなものだ。とは言え、工藤もDollの総長となってから鴉の人間に会った事は一度しかない。しかもその時は鴉本隊の人間ではなく、Dollが仕切るエリア担当の幹部相当の人間の様だった。
まぁ、あの時は新しくDollの総長に就いたばかりの工藤の顔見せの場であったが。

「Dollの総長。確かにお前に渡したぜ」

「あぁ…受け取った」

工藤は恭二に礼を言うと、カードを封筒の中に戻し、上着のポケットにしまう。
その足で今しがた入って来たばかりの店の出入口へと向かう。
そして店を出て直ぐ、工藤の進行方向から店に向かって歩いて来ていた悟達と遭遇した。

「貴宏?どこか出かけるんですか?」

悟の隣には修平がおり、修平も不思議そうに首を傾げた。

「急ぎの用が出来てな。今日は戻るか分からねぇから後の事はお前に任せる」

擦れ違いざま、悟の右肩を右手でポンと叩き答えれば、すっと双眸を細めた悟が工藤の姿を目で追いながら振り返って告げる。

「それは構いませんが…」

気を付けろよと、何も話していないのに何かを察したかの様に鋭い言葉を投げられる。工藤はただそれにあぁと頷いて返し、足を進めた。

「何かあったんすかね、工藤さん」

「さぁ?貴宏の事は本人に任せましょう。うちには他に問題児が多いですから」

「えっ、何でそこで俺を見るの?悟さん!」

一人、賑やかな声を響かせる修平を横目に悟は店の中へと入って行く。



 

「あれ?外にバイク無かったけど、何でいるの兄貴?」

「あ…お邪魔します」

玄関ポーチを上がり、玄関扉を開けた隼人はちょうど二階から階段を下りて来た人物と玄関で遭遇し、疑問の声を上げた。そんな隼人に誘われて、相沢家に遊びに来た廉も滅多に会わない人物の登場に驚きつつも隼人の後ろで小さく会釈をした。

階段から下りて来た人物、隼人の兄である大和は驚いた様子の二人に静かな眼差しを向けると、僅かに温度の感じられる声音で答えた。

「少し近くまで車で来たからな。また直ぐに出る」

「ふぅん…。廉。先に俺の部屋に行ってろよ。何か飲み物持ってく」

答えるだけ答えてリビングへと入って行った大和から視線を切った隼人は背後を振り返って言う。

「俺、お菓子は持ってきたから。じゃ、先にお邪魔させてもらうな」

「あぁ、先行って待ってろ」

廉を自室へと向かわせた隼人は大和の居るリビングを横切り、キッチンに立つと飲み物の用意をし始める。炭酸飲料が入ったペットボトルに、コップを二つ。トレイに乗せて隼人はキッチンを後にする。その姿をリビングのソファに座って視界の端に映していた大和は上着に入れていた携帯電話が振動した事で、その意識を切り換えた。ソファから腰を上げ、リビングを出る。階段を上がっていく隼人とは正反対に、玄関で靴を履いた大和は家を出ると近くで待機させていた仲間が運転する車に乗り込み、その場を離れた。



 

「大和はいないのか」

とある埠頭の倉庫街。その一角でたむろする男達を眺めて拓磨が言う。

「相沢の奴なら東の部隊長を連れて出て行ったきりだぜ」

拓磨の声に答えたのは情報部隊の頭を務める小田桐 千だ。情報部隊には鴉本隊の拠点とは別に情報部隊専用の拠点を与えているが。どいう風の吹きまわしか、珍しくこちらに顔を出しているようだ。自分で持ち込んだのか、机やら椅子、菓子に飲み物と何だか良く分からない道具類にノートパソコンを机の上で開きっぱなしにしたまま。小田桐は手の中にある通信機器、インカムを弄っている。

「そうか」

ふとそこで手元から視線を上げた小田桐は拓磨の方を見るなり眉を顰めた。

「おい、後藤。てめぇ、まさか一人でのこのことやって来たんじゃねぇだろな?」

その視線の強さに拓磨は顔色一つ変える事無く淡々と言い返す。

「俺だってそこまで馬鹿じゃない。移動はゼロに手配させた」

ZERO-ゼロ-。ゼロとはいわゆる鴉の隠密部隊だ。相手にこちらの事を悟られたくない時、目立ちたくない時、他にも裏工作など主に影で暗躍する部隊だが、最近は鴉の総長である拓磨の護衛として使われる事がある。

「はっ、そうかよ。それで、そうまでして此処に足を運んだ用件は何だ」

相沢の代わりに、聞くだけ聞いてやると小田桐は不遜な態度を崩さず話の先を促す。

「別にたいした用じゃない。気分転換も兼ねて走りたくなったから来ただけだ」

「あ?ンなもん…」

面倒臭そうに椅子から立ち上がった小田桐は密かに自分達の会話に聞き耳を立てていた連中に向かって言い放つ。

「バイクを一台用意しろ。総長と走りに出たい奴は好きについていけ」

「小田桐」

「文句は聞かねぇぞ。気分転換なら一人じゃなくても出来るだろ」

それからたまにはお前も鴉の頭らしく、連中の面倒をみやがれと小田桐は言い切った。

小田桐の号令と同時にいそいそとバイクの用意をし始めた鴉所属の上位チーム達。鴉本隊と呼ばれる兵隊達も何故か慌てたように動き回り始め、そこかしこでわいわいと賑やかな声を上げている。拓磨自身の自覚は薄いのか、鴉総長として何の目的も無く、ただ部隊と仲間達と共も走りに出るのは久方ぶりのことであった。また、基本的に拓磨は群れる事を好まないと理解している彼らからしてみれば、小田桐の言葉は合法的にも鴉総長のお供が出来るというわけで。こんな千載一遇のチャンスをみすみす見逃す彼らではなかった。

何だか大事になってきた事態に拓磨は目の前にさっと用意されたバイクに目をやりつつ、自分の役目は終わったとばかりに椅子に座り直した小田桐に冷めた声を投げる。

「適当に走って来るが、障害物が出たら知らせろ」

「了解。一応、珠樹を付いて行かせる」

珠樹とは小田桐の下についている情報部隊員だ。そして、ここで二人が指す障害物とはもちろん人工物の事ではない。鴉の行く手を阻む敵、警察の事だ。

「総長。こちらが鍵になります」

二人の会話に遠慮がちに声を掛けて来た青年が、拓磨に向かってバイクの鍵を差し出して来る。

「あー…青兎(あおうさぎ)か」

ちらとその顔を見た小田桐が呟く様に口にする。青兎。チーム名か。その名を呼ばれてか、青年の肩が僅かに揺れた。
偶然か、必然か、用意されたバイクも白と青を基調にした物だった。

拓磨はバイクの鍵を受け取りながら独り言を零すように言う。

「青は俺も嫌いじゃない」

借りるぞと、目を見開いて固まった青年に構わず、拓磨は告げてバイクに触れた。



 

「良かったんですか?わざと周防を撒かせて」

日向は余計な事かと思ったが、少し前の話を蒸し返す。組事務所の扉を下っ端の組員が押さえているのを横目に、共に外から事務所に戻って来た氷堂組のトップに問いかけた。

事務所内にいた若い衆が一斉に頭を下げるのにも動じた様子は無く、むしろその光景に視線すら動かさず、堂々と事務所の奥へと歩を進めた氷堂 猛は上階へと上がる為に足を止めたエレベータホールで、ようやく本日のお供として付き従っていた日向へ一瞥をくれた。

「良くはねぇな」

「でしたら、どうして…」

「どうせならあの場で食って掛かられた方が良かった」

「え、そっちですか?」

拓磨くん、大丈夫かな?と日向は少し前に外で擦れ違うことになった会長の大事な人の後姿を思い浮かべて僅かに眉を寄せた。

なにせ、仕事中の事とはいえ、先程まで猛の隣にはこれでもかと己の肢体を武器にした妙齢の女性がいたのだ。日向達からしてみれば、ただただ化粧のケバイ取引相手だが。そこを何の偶然か、拓磨が通りがかってしまった。一瞬、重なった視線の先で拓磨は微かに目を見開いていた。しかし、次の瞬間にはその事が嘘だったかの様に、表情を冷たく凍らせた拓磨はこちらを見る事も、近寄る事もせず、まさに赤の他人の如く通行人の一人としてその場を通り過ぎて行った。
それから間もなくして、拓磨の護衛に付けていた周防から連絡があり、拓磨の向かう先が鴉であるならば、一度離れろと猛が指示したのである。鴉の総長には鴉の護衛が付く。

到着エレベータに乗り込み、猛は日向の心配を一蹴する。

「整理がついたら帰って来るだろ」

猛は拓磨と遭遇した時、たとえ拓磨が感情に任せて動いていたとしてもそれを責めるつもりはなかった。
女は取引相手ではあるが、そこまで優先度は高くなかった。にも関わらず、猛が動く前に、拓磨の方が先に選んでしまった。一瞬で乱れた感情を理性で抑え込み、常々拓磨が口にしているように「猛の仕事の邪魔はしない」その宣言通りに、拓磨は素知らぬ振りで通り過ぎて行った。

今頃、自分の中でどうにか折り合いを付けているのかもしれない。

「それはそれで面白くねぇな」

聞き分けの良すぎる恋人も考えものだ。

拓磨が帰って来たら、どうしてやろうかと理不尽な考えを巡らせながら猛は上階へと到着したエレベータから日向と共に下りた。

 



複数のバイクが連なって通りを走り抜けて行く。

「昼間っからうるせぇな」

しばらく来ない間に街も変わったなと、そう文句を零した瑛貴の肩口に頬を寄せ、鷹臣は瞳を細める。学園を抜け出してきた二人は今、久し振りに下りた街の、狭い路地裏の一角に身を潜めていた。
そして、瑛貴は変わらず染めた綺麗な銀髪に紅いカラーコンタクトをし、鷹臣は瑛貴のリクエストで眼鏡を外し、髪は金髪に、瞳はカラーコンタクトで蒼色に。学園にいる時のスタイルを完全に捨てて、タイガーと呼ばれていた在りし日の自分の姿をとっていた。

「瑛貴…」

他所へと向けられていた瑛貴の意識を自分へと引き戻すように、鷹臣は壁を背に己を囲う腕に触れて囁く。

「物足りない。もっと直接、触れて…少し乱暴なぐらいが良い」

「久々に血を見て興奮したか?」

狭い路地裏で身体を密着させて、瑛貴は布越しに感じる熱に口端を吊り上げて囁き返す。

この路地裏に入り込むまで、久方振りに姿を見せたタイガーに対して喧嘩を売る馬鹿な連中がいたのだ。当然ながら全て返り討ちにしてやったが。鷹臣もタイガーとして久し振りに暴れまわったせいか、その興奮が冷めやらず、身体を熱くさせていた。

僅かに赤く染まっている鷹臣の目元に口付けを降らせ、瑛貴はその唇を塞ぐ。

「んっ…、ン…」

するりと容易く侵入を許した口腔内では、それを待ち望んでいたかのように舌先が触れ合い、絡まり合う。壁についていた瑛貴の手が鷹臣の腰に回され、鷹臣は瑛貴の頭を抱くようにその両手を瑛貴の首の後ろへと回した。

「ん…っ、ン…、ぁ、ふ…」

深まる口付けに、夢中になっていれば、甘やかな吐息を零した鷹臣の腰が無意識に揺れる。
そっと紅い瞳を細めて瑛貴は鷹臣の腰に添えていた手を臀部に滑らせると、ズボンの上から谷間を愛撫し、指先を更にその奥地に潜む隙間へと突き入れる。

「っ…!…、瑛貴」

ふっと開いた唇の隙間から仄かに熱で湿った鷹臣の声が漏れる。抗議の声ではない、もどかしさを含んだ声音に瑛貴は分かってると唇で笑みを刻んで、一度鷹臣の身体を離す。

「少し乱暴にするぞ。お前が煽りまくるから、俺も興奮してきた」

そう言って瑛貴は鷹臣の身体をその場で反転させると壁に向かわせ、自分は鷹臣に背後から覆い被さる様に立つ。

「バックでするのか?」

「嫌か?」

会話をしている最中にも瑛貴の手は鷹臣のベルトのバックルに掛けられる。同時に瑛貴の状態を思い知らされる様に鷹臣の臀部に布を押し上げる熱い塊が押し付けられる。その事実に鷹臣は腰を震わせると共に恋人に求められ、愛されている実感を感じて心を歓喜で震わせる。

「嫌じゃないが、お前の顔が見えない」

「それは俺も一緒だ。けど、ここで前は無理だろ」

後でどこか部屋取って、優しくしてやると瑛貴は鷹臣の要望をそれと無く汲んで宥める。
鷹臣も無理な事は分かった上での不満だったのか、それ以上は何も言わず、瑛貴に身を任せる様に邪魔な物は自ら取り払う。予めポケットに忍ばせていた円滑剤代わりのジェルを掌で温めた瑛貴は何処までも自分好みで男前な鷹臣を、己の手でもっと淫らに色っぽく乱す為に、ジェルを纏った指先を、刺激を求めて疼いているだろう秘所へと潜り込ませた。

 



目の前で銀髪が翻る。

同時に繰り出された鋭い蹴りを避け、紅蓮の総長でもある志摩 遊士は不機嫌さを隠すことなく口を開く。

「てめぇ、似非優等生!誰がここまで手引きしてやったと思ってる?」

「その点に関しては感謝してなくも無いが、…と言うか、似非優等生言うな!」

どっからどう見ても真面目な学生だっただろうが。全てはお前や來希、和真や掃除屋が、絡んでくるから俺の学園生活はおかしなことになったんじゃねぇか!俺の事は路傍の石だと思って、今後一切目に入れてくれるな。

警戒心剥き出しの猫宜しく騒ぐ似非優等生、もとい蒼天の総長糸井 久弥に遊士は唇を歪めて吐き捨てるように言う。

「だったら言い方を変えてやる。誰がお前の周りをうろつく番犬共を遠ざけて、ペットよろしく室内飼いを謳うあの頓珍漢を押し付け、尚且つお前が自由に身動き取れる様に街まで連れてきてやったと思ってる?真面目な学生だと言い張りてぇなら、今すぐ借りを返せ」

さぁ、と突き付けられた右手に久弥はデジャブを覚えてうぐっと唸る。

そう、敵であるはずの遊士には何故か借りが多々あり、今回もちょっと街に下りて、とある騒動で散り散りになった仲間達に自分の無事を伝えようとしただけなのに、街へ行くと話をしたカズが自分も付いて行くと言い出し、それを聞いた來希が付いて来ようとして。学園では蒼天の総長であることを隠し、平穏な学園生活を送る為に、平凡な生徒を演じている俺は、早々に正体のバレたカズはともかくとして、來希に一緒に来られては面倒な事になるのが目に見えている。そうこう悩んでいる内に、いつ間にかこちらの情報を掴んでいた遊士が何故か諸々の問題事を退けてくれたわけで。
さすがは、生徒会長。問題解決はお手の物ってことか。

「はぁ…、分かったよ。今の俺に出来る範囲で良いなら何か礼をする」

とはいえ、コイツが何を考えて俺を手助けしてくれたのか分からない。そのせいで警戒心が解けないのも本当だ。

両手を降参の形に上げた久弥に遊士はその前に場所を変えるぞ、ついて来いと言って久弥に背を向ける。

「礼をするとは言ったが、何処行くんだよ?」

「いいからついて来い」

行先を告げぬ遊士の背を半眼で見つめ、久弥は大人しく遊士の後に続いた。…のが、間違いだったのだろうか?

「何でカラオケボックス?まさか、この密室で俺をボコボコにしようと…?」

「はっ、そんなんでいちいち場所を変えるかよ」

BGMが流れる中で呟いた独り言を遊士に拾われ、鼻で笑われる。

「その妙な所で脳筋を発揮するの、止めた方が良いぜ。馬鹿に見える」

馬鹿だと言われて、むっとして言い返そうとしたが、それより先に遊士に座れとソファに向かって顎をしゃくられ、久弥は仕方なさげにしぶしぶとソファに腰を下ろす。その隣に遠慮なく座って来た遊士はそんな久弥の態度に構わず、口角を吊り上げると先程の疑問に答える様に口を開く。

「だいだい密室ですることなんて決まってるだろうが。なぁ、ヒサ?」

そっと隣から伸ばされた手が久弥の頬に触れ、するりとその輪郭をなぞるように滑る。

「っ…!」

ここに来てぎょっと目を見開いた久弥の蒼い瞳に愉快そうに笑う遊士に顔が映る。

「ちょっ、ジョーダン…!」

慌てて隣に座る遊士の胸を両腕で押し返した久弥だが、それより先に動いた遊士が掠め取るように拒絶の言葉を紡ぐ可愛くない唇を奪った。

「――っ」

「…さて、時間もねぇし、お前をからかうのもこの辺までにして」

触れるだけ接触に留めおいた遊士は、じわりと顔を赤く染め、唖然とした顔でこちらを見て来る久弥に僅かな手応えを感じつつ、今日の目的について話し出す。

「お前、これまでに街中にいて視線を感じた事はないか?」

「なっ、…何してくれてんだ、てめぇ!」

一拍遅れて再起動を果たした久弥がソファから立ち上がり、己の唇を手の甲で拭って吠える。平然と話を始めた遊士を睨み付け、拳を握る。それを遊士は片眉を動かし、しれっと受け流す。

「何って、キスだろ。子供だましの。足りなかったか?俺としても物足りねぇとは思うが、今日は別件でお前に話があるからな。それで勘弁しろ」

「さも、俺が要求したように言うな!誰も頼んでねぇし、しなくてもいいだろ!」

「それはもっと過激な礼を求めても良いって事か」

「どうしてそうなるんだよ!」

「俺がお前と二人きりになれる機会をみすみす逃すかよ」

あぁ、やっぱりついて来るんじゃなかったと、会話にならない相手に頭を抱えたくなった久弥だったが、続けて「それでどうなんだ?」と真面目な顔で問われて首を傾げる。

「何がだよ?」

「人の話は聞けと教わらなかったのか」

「お前にだけは言われたくねぇ!」

それから、その握りしめた拳を解いて座れと、再び命令されて遊士の座るソファの隣を叩かれる。
話を聞いてなかった久弥は遊士からもう一度同じ質問を投げられ、それに関しての詳細を聞く。もちろんソファは遊士から一人分開けて座り直した。

「初めはどこかチームの人間の恨みかと思ったが、一人でいる時には感じない。見られているというよりは値踏みされているような不快な視線だ」

「っつてもなぁ…」

遊士の話によると、紅蓮というチームで活動している時に限ってその視線とやらを感じると言う。ちなみに紅蓮の幹部連中、幹久達は気付いていないらしい。それでも遊士は紅蓮の周囲を調べさせたが、何も成果は無かったと。

まぁ、こんなんでも遊士は彩王学園で生徒会長を務めるだけあって頭は良く、志摩家も由緒ある大家だ。視線には敏感であって、そこに含まれる感情の機微にも聡い方だ。

「俺は彩王に入れられてからチームには顔出せてねぇし」

その前はと、街でやんちゃしていた頃を思い浮かべて、ふと心の隅に引っかかっていた出来事を思い出す。

「そいうや、アンタのとこといざ決戦ってなった時、おかしなものを見たな」

「おかしなもの?何だそれは」

「いや、何だって言われても…あれはヒトか?」

とにかく黒い。全身を黒で包んだ人間。そのまま夜の闇に溶け込んでしまってもおかしくないぐらい、存在感も感じられず、一瞬目を離した隙にその場からいなくなっていた。

「さすがにお化けではないと思うんだけど」

自分で言っておいてなんだが、本当に何を見たのか自身がないと眉を下げた久弥の言葉を、意外にも遊士は笑う事も無く真剣な表情で聞いていた。

「そのことを誰かに言ったか?」

「まさか、今の今まで忘れてたし」

「そうか」

それきり考え込んでしまった遊士を久弥はこいつもこうして黙っていれば、文句無しに格好良いんだよなと眺め、喉の渇きを感じて飲み物を注文することにした。遊士の分もついでに適当に注文してやるかと、久弥はソファから立ち上がった。

やたらと愛想の良い店員から飲み物を受け取り、久弥はカラオケに来たならとテーブルに置かれていたデンモクと呼ばれる機械を手に取る。
のんきに選曲を始めた久弥を横目に遊士は目の前に置かれたグラスに手を付ける。

「ヒサ。お前が言う化け物の話だが、お前…カラスは知ってるか?」

そこら辺を飛んでる烏じゃない。牙を持つ鳥の方だ。

唐突な話題にきょとりと久弥は瞼を瞬かせ、次にゆるゆると口元を緩ませた。

「なんだ、アンタ。都市伝説を信じてるのか?」

意外だなと、久弥は笑う。

鴉といえば、一つの地区・地域・県を越えて、暴走族の頂点に立つ組織の名前だ。その兵隊の数は数知れず、憧れる者も多い。しかし、その反面本当にそんな組織が存在しているのかと半信半疑な者も多い為、都市伝説化しているのも現状だ。

遊士と視線を合わせた久弥は、遊士が事のほか真面目な顔をしているのに気づき、その笑みを引っ込める。

「何か根拠でもあるのか?」

「鴉の都市伝説の中には、鴉には強力なバックが複数ついてるって噂がある。それは知ってるな?」

「あぁ…」

久弥は自分が選曲した曲が流れ始めるのを耳にしながら、遊士の話を聞く態勢を取る。遊士の話に興味を引かれたのだ。





そして、こちらもまた、密会にするには適している完全個室制の食事処で。

「それでは。私はこれで。黒月さんには宜しくお伝え下さい」

「はい」

会釈をして個室を出て行く相手の背中を見送り、圭志はそれまで無意識に詰めていた息を吐き出した。

「京介…」

それまで賢く沈黙を選んでいた隣の存在に圭志は疲れたように身体を傾け、その肩口に頭に寄せる。ずしりと肩に掛かってきた重みに京介は手を伸ばし、その頭をポンポンと労わる様に叩いた。

「それにしても。お前の親父、相当ヤバいんじゃねぇか?」

「…俺もそう思う」

京介の呟きに同意する様に返した圭志の言葉は何処か遠く諦観を滲ませる。

実は圭志へと届いた手紙は父親からのものであった。
完全個室制のこの食事処に来る道すがら、京介は圭志からその内容を聞いていた。
何でも多忙な自分の代わりに、会って欲しい人がいる。
その人が身を置いている場所には昔、自分も少しお世話になったことがあり、恩返しではないが、雀の涙ほどでしかないけれど、ポケットマネーから資金的援助をしているのだという。
その人に同封したカードを必ず手渡して欲しい。
日時と場所は約束済みなので、後は行けば分かる。
…とだけ、記されていた。

それに対して圭志が断る余地も無く、日付も明日付けとは。
圭志は黒い封筒を受け取って、その文面に目を通し終えた時からこの件に関しては何処かキナ臭さを感じていたのだ。
黒月財閥の社長たる者が、ただの資金援助だと言うならば、口座から送付すればいいだけの話。それが例えポケットマネーからであっても同じ事。それをせず、カードを手渡しとは、記録に残ってしまってはマズいと言う事か。まぁ、相手が口座を持っていない場合もあるが、その場合は口座を作れば済む話。

様々な疑問が浮かんで、胸に不信感を抱いていた圭志だったが、それでも京介が待ち伏せているのを目にした時には少しばかりこの胸に抱いていた重い気分も拭えたのだが。

「親父は俺に犯罪の片棒を担がせる気か…?」

「安心しろ。例え何があってもお前の身の潔白は俺が証明してやる」

「…今日ほどお前が一緒にいてくれて嬉しいと思った事はないぜ」

先程まで向かいの席に座していた男はただの学生に過ぎない圭志や京介が敵うような相手では無い事は一目見れば分かった。全身を黒い服装で固め、個室にも関わらずそのサングラスを外すこともなかった。その上、こちらは相手が何処の誰なのかも知らされていないのに、相手は圭志を真っ直ぐに見て「黒月さんのご子息ですね」と、圭志の事を呼んだ。

ふっと軽くなった肩に、隣に顔を向ければ圭志が大きく息を吐く。

「もう良いのか?」

「おう。…帰ったら、甘やかせ」

少しばかり早口でそう告げた圭志は照れ隠しなのか、食事処にも関わらず何も置かれていないテーブルを見て、どうせなら美味いもん食ってやろうぜと言葉を続けた。

「ここの支払いは親父持ちだからな」

にやりと調子を取り戻して笑いかけて来た圭志に京介はそうだなとテーブルの片隅に追いやられていたメニュー表を手に取る。

「勝手に俺達を使者に仕立てた分、高くつかせてやる」

「お前の親父の懐はあんまり痛まねぇ気もするが、お前の気がそれで晴れるなら俺も便乗するか」

「しろしろ。ステーキとか、すきやきとか…」

 


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