境界×居場所(猛×拓磨)


彼にとっての日常。彼にとっての非日常。
その境には明確な線が引かれており、何人たりとも土足で踏み込む事を許さない。



足元にある紙袋には無造作に詰め込まれた札束。
ご丁寧にも手首と足首を拘束するロープの間には布切れが噛まされ、簡素な椅子に座らされた女の身体は椅子に括られていた。もとは艶やかな黒髪であったろうその髪は抵抗した時に振り乱したせいか、こんがらがり、女としての魅力をいかんなく発揮していた滑らかな肢体も今では着ている服は薄汚れ、よれよれになっている時点で格好もつかなかった。

「チクショウ!アイツの言うことなんか信じるンじゃナカッタ!」

真っ赤な口紅が引かれた唇から吐き出された甲高い声はこの国で使用されるイントネーションとはどこか違い、悪態を吐くこの女が国外から来ている事を周囲の人間へと教えていた。

そんな口汚い言葉を吐く女にどこまでも冷ややかな視線を向ける青年が一人。
その女が逃走を図る為に武器として使ってきた女の色香を殊更冷たく切り捨て、眉一つ動かさずに事の対応にあたっていた。

「そのアイツという奴の事を教えてもらおうか」

ひやりと背筋に走った凍てついた空気に、正面に立った青年の冷たすぎる眼差しに、女は一瞬自分が椅子に拘束されていることを忘れ、ガタガタと椅子を揺らして、その場から後退ろうとした。
そして、同じくこの場に居て、誰もが美人だと言うであろう女の顔を見て「作り物か」と一蹴した青年が壁に背を預けたまま口を挟む。

「うちの連中を誑かしておいて、何もありませんはねぇよな」

うちの連中と言いながら、青年の視線が仕切りで区切られた隣の部屋へ流れる。
その部屋では少し前まで別の尋問が行われていた。時折聞こえていた、何かを殴るような鈍い音やくぐもった悲鳴にも近い許しを請う声。わざと聞こえる様に防音性も何もない直ぐ隣の部屋で行われた制裁。そうと知る由も無く、女はこれから自分の身にも降りかかるかも知れない男達の暴力を想像して顔から血の気が引いていく。

「ま、待って!ワタシもアイツに騙されただけヨ!ココに逃げ込めば、ガキどもの集まりだから、ドウとでもなるッテ!それなのに、こんな…こんなノ、真っ赤な嘘じゃないっ」

悪態を吐いていた時と一転、女は項垂れた様子で涙交じりに自分の主張を訴え始めた。

「随分と舐められたものだ」

「相沢。後藤には、どうする?」

「まだいい。この女の素性と女が持ち込んだ金の出所。情報収集はお前の部隊に任せる」

「了解。お前は…?」

「俺はこの女を匿っていた連中に話がある」

「副総長様、直々にか。こんな見ず知らずの女の為に。奴等も馬鹿だな」

「情報が出揃ったら連絡をくれ、小田桐」

全てが揃ったら最高決定権を持つ、鴉の頭に連絡を入れる。

 



ところ変わって、こちらは何処かの廃屋の梁から垂らされたロープで両手首を一纏めにされ、頭上で括られ、吊るされた男が一人。自分の重みで軋む両手首の痛みに顔を歪めていた。

「おら、さっさと吐かんかい!」

「うちから持ち逃げした金を何処にやった!」

男は堅気とは思えない風貌の男達に囲まれて尋問をされていた。
身体には棒状のもので打たれた痣や赤黒く変色した箇所があり、男が身に着けていた服も所々裂け、ぼろぼろに薄汚れていた。

「だ、だから…怖くなって、川に捨てた」

息も絶え絶えの様子で、男は最初に殴られた顔を赤紫色に腫れ上がらせながら、何度も同じ言葉を繰り返す。

「嘘を吐け!」

「お前が言う川を探らせたが、何も見つからんかったわ」

「あぁ?次は何処の川か言うてみろ」

その様子を興味なさげに一瞥して、一人の男がこの場から立ち去ろうとした。

「氷堂。今回は助かった。これは貸しにしておいてくれ」

背にかけられた声に氷堂 猛はちらりと視線を返しただけで、代わりに共に付いて来ていた唐澤が答える。

「我々は偶然、その男を見つけただけです。柳原さんもあまりお気になさらないで下さい」

それでは失礼しますと去って行った二人の背中を眺めつつ柳原と呼ばれた男は機嫌良さ気に瞳を細める。

どうやら氷堂は少し前の酒の席で自分が零した部下の失態話、もとい愚痴めいたものを覚えていてくれたらしい。何事もなかったかの様に、男を自分の部下に俺の所まで運ばせて、後から少し顔を出してこの場を去って行った氷堂に柳原は氷堂の事を義理堅い男だと思う。
対して、部下が面倒を見てやっていたこの男は組から金を持ち逃げして、途中で怖くなったから川に捨てたと言う、本当かどうか怪しい事を延々と繰り返すばかり。

「確かお前には、懇意にしていた女が数人、何処かの店にいたな」

「―――っ」

厳しい眼差しで、柳原は部下達の尋問の様子を眺めていた。





翌日、午後二時頃…
半分だけブラインドの下げられた窓に、空調の良く効いた室内。部屋の中央に置かれたテーブルの上にパソコンや紙の資料を開きながら二人の人間が事務作業をしていた。

「あー…眠くなってきたな…」

パソコンを弄りつつ欠伸を噛み殺した日向に、向かい側の椅子に座って紙の資料を捲っていた唐澤がそれならと口を挟む。

「コーヒーをお願いします」

空になっていたカップを日向の方へと押しやり、あくまでも目線は資料から離れない。
その様子に日向は注意をされないだけましかと、重い腰を持ち上げて、自分の分の飲み物も入れに部屋の一角に用意されている給湯室へと足を向けた。

そしてカップを両手に戻って来た日向は突然鳴り出した自分の携帯電話に慌ててカップをテーブルの上に置く。
そこで漸く仕事の手を止めた唐澤は自分のカップを回収して一息吐いた。
その間、携帯電話のディスプレイを見た日向が僅かに表情を硬くしたのを唐澤は見逃さなかった。

一体誰からだと唐澤は日向の様子を静かに眺める。

「もしもし、どうした?」

日向が電話口に向かって単刀直入に尋ねる。

「え?拓磨くんが?」

日向の口から零れた名前に唐澤の視線が鋭いものに変わる。

草壁 拓磨。彼はこの氷堂組を纏める氷堂 猛の大切なパートナーであり、現役の大学生だ。…それだけならただのカタギで話は簡単であった。彼は後藤 拓磨という別の名前を持っていた。本人の顔を知る者は限られているらしいが、彼は青少年を中心とした暴走族グループ、そのトップに立つ鴉という組織を纏める立場にあった。

日向の口振りからして電話をしてきたのは、その彼の護衛として配置された日向の部下、周防 直樹か。

「分かった。お前も一緒に上がって来い」

そう言って通話を切った日向が唐澤を見る。

「今、事務所の下まで周防と拓磨くんが来てる。何か会長に話があるらしい」

「拓磨さんがですか?」

唐澤と日向は顔を見合わせて、少しばかり不思議に思う。
何も昼間に事務所に寄らなくても、夜になれば必然的に二人は同じ家に帰るのだからそこで話は出来るはずだ。
それとも急ぎの用件でも出来たのかと、とりあえず二人はそれぞれ拓磨を迎え入れる準備に動く。

「私は会長に知らせてきます」

「俺はここを片付けとく」

別に見られて困る物はないが、雑然としているよりは印象が良いだろう。

 

ほどなくして到着したエレベーターから周防と拓磨が降りて来る。
周防は主に氷堂組の幹部が使用している部屋に拓磨を案内するとドアをノックしてから扉を開いた。

「ようこそ、拓磨くん…?」

室内には日向だけが居り、日向は現れた拓磨の顔を見て、これはと一瞬周防に視線を流す。
しかし、周防は首を横に振るばかりで役に立たない。

「まぁ、とりあえず座るか?」

椅子を勧めた日向に鋭い視線が突き刺さる。

「それで、アイツは?ここにいるのか?」

「今日は元から外出の予定はないよ。今、唐澤が知らせに行ってる」

だからお茶でも飲んで待っててよと、続けた日向の言葉を拓磨はいらねぇとばっさり切り捨てる。

「相変わらず連れないなぁ」

「自分の部下とでも飲んでろ」

俺?といきなり話を振られた周防は日向と拓磨を交互に見て、困惑した表情を浮かべる。

「拓磨さん。会長がお会いになるそうです」

そこへ天の助けとばかりに奥の廊下から戻って来た唐澤が部屋の入口で待っていた拓磨へと声をかけた。

「分かった」

唐澤とは入れ替わりで拓磨が廊下の先にある会長室へと一人で向かう。

「お前は行かなくていいのか?」

拓磨を見送った日向が椅子を引いて席に着いた唐澤に首を傾げる。

「えぇ、会長が拓磨さんなら一人で来させろと」

「なるほど。……で、周防。お前も座れよ」

日向は部屋の入り口付近に立ったままの周防に声をかけて同じテーブルに着くよう促した。

「それじゃ、失礼します」

日向から一人分席を離れて椅子に座った周防にさっそくとばかり日向が質問を始める。

「それで拓磨くん、いや…あの顔は鴉の方か。何があった?」

日向の質問に唐澤の視線も周防に向けられた。
この場へ姿を見せた拓磨は常とは違う、硬質でどことなく冷たく鋭い雰囲気を纏っていた。彼等の会長が時折見せる何処までも冷徹で鋭い刃の様な重みのある空気。
先程は分からないと首を振った周防だったが、心当たりは一つだけある。いや、むしろ一つしかなかった。

「会話まで聞くのは無理でしたけど、大学の構内で相沢と会ってから拓磨さんは暫く何か考えた様子で」

「大和くんか」

「彼ですか。それはまた…」

相沢 大和。拓磨と学部は違うが、拓磨の大学の同期であり、鴉としても拓磨の右腕の様な存在だ。要注意人物として日向は見ている。

「さすがに鴉には伝手もないし、今から仕込もうにもリスクが高すぎてなぁ」

「会長もそちらは放っておけと言ってましたし」

「え?そうなんですか」

鴉には手出し厳禁。下手に触れると要らぬ怪我を負う。
それに拓磨を害す事が無ければ、相沢はもちろん、鴉は氷堂組を相手に動くことはないだろう。

 



突然の来訪者に、会長室にいた猛は開かれた扉に目を向ける。

「その顔を見るに、どうやら俺に会いに来ただけじゃなさそうだな」

座れと視線でソファを示してきた猛に拓磨は部屋の中央にテーブルとセットで置かれた対面ソファの下座に座る。
会長席から立ち上がった猛はテーブルを挟んだ拓磨の対面のソファに腰を下ろした。

「それで?」

正面から対峙する様に向けられた漆黒の鋭い眼差しに気圧される事無く、拓磨は平然とした顔でそれを受け止めると、ここへ来た用件を切り出す。
大学への通学用に使用しているリュックの中から二枚の写真を取り出し、その内の一枚を猛の方へとテーブルの上を滑らせた。

「この写真の女に見覚えはあるか?」

テーブルの上に置かれた女の写真を手に取り、猛は口を開く。

「知らねぇな。この女がどうした?」

写真に写った女は椅子に拘束されており、その表情も強張っていた。どう見ても普通の写真ではないが、その事を指摘する者は誰もいない。

「…数日前、うちに逃げ込んで来たらしい」

「鴉にか」

拓磨の指すうちは鴉の事だ。今、猛に会いに来たのは拓磨個人では無く、鴉の総長としての拓磨だ。だから猛もあえて拓磨を客人として、自分の正面のソファに座らせた。もしこれが猛の恋人である拓磨個人の事であれば、正面では無く、隣に座らせている所だ。
また、チーム内の事で何故か猛のもとに来た拓磨に猛は続きがあるんだろうと、自分のもとを訪ねる原因となった事を聞く。

「この女の隣に写ってる男。この男から預かったという金を女が持っていた」

そこで拓磨は手にしていた残りの写真をテーブルの上に置いた。
写真には先程の女が、こちらは綺麗に化粧も施され美しい顔立ちなのが分かる。着ている服もチャイナドレスと何処かの店内らしい。女の隣にはそこそこ顔の良い優男風の男が一緒に写っていた。
写真を見た猛の双眸が僅かに細められる。

「何か知ってるのか」

その様子を見逃さなかった拓磨が再度問いかければ、猛は拓磨を見返し、逆に聞き返す。

「お前が俺の所に来たのはこの男の事を聞く為か」

猛の指先が写真の男を指す。

「女が持ってた金の出所がこの男で、どこかの組関係者だと吐いた」

しかし、肝心の男の素性がまだ掴めない。女もそこまでは知らされていないようで、もしくは女から情報が洩れる事を警戒した男があえて教えなかった可能性もある。
鴉でその女も金も好きに処分しても良かったのだが。女が鴉に逃げ込んで来た、それはこの写真の男の指示であり、消すならば男もろともで無くては意味がない。鴉が関与した痕跡を残せば要らぬ禍根を生むし、何より拓磨は好んでヤクザとは関わりたくなかった。面倒な予感しかしない。
しかもこんな見ず知らずの女のせいで、平穏が崩される事に一番腹が立った。

一段と冷えた眼差しに拓磨の苛立ちを感じ取り、猛の口元が緩む。

「その女は今何処に居る?」

「鴉が所有する部屋に監禁してある。あの女は今回の件を報告してきたチームに褒賞として与える予定だ」

さらりと女の末路を告げた拓磨に珍しく猛の方からストップが掛けられる。

「それは少し面倒なことになるぞ」

「どういう意味だ?」

猛が手にしていた女の写真がテーブルの上に戻され、そのまますっと横に流された視線がもう一度写真の男に向けられる。

「こいつはもう関係者に引き渡されている」

「……だからって何も無しに女の無罪放免は有り得ない」

言外にも見逃すつもりはないと告げる冷淡な眼差しに双方の事情をある程度把握した猛は拓磨に一つの提案を持ち掛けた。

「拓磨、女の身柄を俺に預けろ。代わりの女は用意してやる」

それを報酬としてガキ共に与えて良い。

「それはまた随分と気前の良い話だな。アンタが鴉の為にそこまでする必要がどこにある?」

まだ明らかにされていない写真の男の素性と何か関係があるのかと疑念を向ければ、猛は拓磨の懸念を一蹴する様に言った。

「詳細は省くがこいつはうちの人間じゃない」

「それなら尚更、どうしてアンタが動く」

猛に直接関わりの無い話に、拓磨が当然の疑問を突き付ければ、猛は真っ直ぐに拓磨を見つめ返してその口元に笑みを浮かべて理由を口にした。

「“お前に”目を付けられるのは困るからな」

「は…?」

出来る事ならばヤクザとの面倒事は避けたい拓磨と、自分の価値や魅力を正しく理解していない拓磨を不必要に同業者の目に晒したくない猛。
もとより鴉というだけで注目度は高いものがあり、滅多に姿を見る事の出来ない鴉総長ともなれば猛だけでは無く、同業者達の目を引くことになりかねない。

そこに多少の私情を挟んでいようと鴉にとっては何も問題は無いだろうと、猛はさらりと話を流して本筋に戻る。

「金の方は多少減ってようが問題はねぇ」

鴉に逃げ込んだ女と金が多少なりとも返って来ることの方が奇跡だ。
また、紛失した分は今回の騒動を引き起こした男女にその組関係者がどうにか補填させるはずだ。だからお前は必要な分だけ回収しておくといい。

「……それが一番か」

織り交ぜられた個人的な私欲を排除しても、鴉が取るべき最善手は目の前に提示されたこの手しかないだろう。戦争をしたいなら話は別だが。
今回は本当にくだらない、騒動になる前のボヤみたいなものだ。鴉に被害無く、利益を得て終わらせられるならこの辺が引き際であろう。

腹を決めた拓磨は鋭い眼差しを正面に向ける。

「女は何処に運べばいい?」

「リスクを避けたければ駅の近くにあるホテルにでも突っ込んでおけ」

鴉と組の人間が直接顔を会わせなくても済むように女の引き渡しに関して二人は僅かばかり手間をかける。

「ホテルのキーは駅のコインロッカーに入れておけ」

「分かった。番号は周防を通して連絡する」

最近のコインロッカーも電子化が進み、わざわざ硬貨を入れて刺さっている鍵を抜く必要が無い。場所にもよるのだろうが。例えばコインロッカーに荷物を入れた後は併設されているタッチパネルで支払い方法を選ぶ。世の中で広く使用されているICカードでの支払いを選択し、ICカードで支払いを済ませれば、支払いに使用したICカードそのものがコインロッカーのカギとなる。また、現金支払いの場合であれば、支払い時に暗証番号の印字されたレシートが出て来るようになっており、そのレシートに印字された暗証番号がコインロッカーのカギとなるのだ。レシートの紛失が心配であればスマホや携帯電話で写真を取っておくと心配もない。

「女の回収が済み次第、同じ部屋に代わりの女を用意しておく。部屋のキーもその女に渡しておく。お前達はその女を連れてチェックアウトしろ」

それで女の交換が完了する。

「今から五時までには済ませておけ」

ちらりと腕時計に視線を落とした猛に、テーブルの上に置かれていた写真をリュックの中に回収しながら携帯電話に触れた拓磨はリュックの口を閉じると、用件は済んだとばかりにソファから腰を上げ、踵を返す。

「ーー拓磨」

その背中へ、つい拓磨が足を止めてしまうほどの甘さを含んだ呼びかけをされ、拓磨の纏っていた硬質な気配が揺れる。
その声音にはどんな引力があるのか、拓磨は逆らえずに背後を振り返った。その様子に満足そうに口端を吊り上げた猛はソファに腰掛けたまま、続きの言葉を投げる。

「次に此処に来る時はもう少し色っぽい理由で来い」

「…仕事の邪魔をする気は無い」

「たまには息抜きも必要だ」

数秒、沈黙した拓磨は帰りかけていた足を室内に戻すとソファに座る猛の傍まで近付いて行く。上から猛を見下ろす形になった拓磨は僅かに目線を逸らすと自ら身を屈めた。

「礼がまだだった。…今日は助かった」

ぽつりと呟いて、自分の為に時間を割いてくれた猛に感謝の言葉を落とす。
すると目の前の弧を描いた唇から低い笑い声がもれ、それで?と、まるでこの部屋に来て、最初に投げられた台詞を繰り返される。

「っ、」

拓磨は観念した様子で、猛の肩に手を置くと、自分から残りの距離を縮めた。
瞼を閉ざし、重ねた唇の熱さを感じる。

「ん…っ」

気付いた時には猛の両手は拓磨の後頭部に回され、逃げられないように囲われていた。

「…猛。…俺、まだ講義が残ってる、から。大学に戻る」

「残念だが、俺もまだ仕事中だ」

戯れる様な口付けを繰り返し、何とか猛から解放された拓磨はリュックを片手に今度こそ会長室から立ち去る。引き止められる代わりに、別室にいるだろう日向を呼んで来るよう言われて、拓磨はそのついでに周防を回収して大学へと戻って行った。

 

拓磨が猛を訪ねて来た事のあらましを会長室で聞かされた日向は猛からの指示が出る前に自分の役目を理解する。

「使い捨てではなく、使える女ですね」

「お前達の方が気にしているようだからな」

猛自身はさほど鴉に害は無いと思っているが、幹部連中の一部は組を守る立場からしてそうはいかない。その事に気づいていた猛は拓磨が持ち込んだ話に便乗する形で、鴉内の何処のチームだか知らないが女を一人送り込む事にした。不自然ではない形で、成功しても失敗しても構わない。
こちらが送り込む女の事をガキどもが気にいれば、多少は鴉の情報も掴みやすくはなるだろう。

「俺の手持ちだと大和くんに怪しまれそうなので、上総辺りに頼んでみます」

「その辺はお前達の好きにしろ」

残る問題は引き取った女の処遇だが、そちらは唐澤と手の空いている組員に任せる事にした。



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