05
《……遊士》
《…遊士》
「……ぅ」
どこからか声が聞こえる。
耳のすぐ側で囁きかけるような、どこか悲しみを帯びた…けれど、優しくも懐かしい声。
ゆらゆらと不鮮明な意識の中、オレは小さく呟くようにその名を口にしていた。
「…母…う…え?」
《遊士…》
ふわりと頬に温かな熱を感じる。
徐々に鮮明になっていくその声に、瞼を押し上げようとして持ち上がらないことに気付く。
「ど…して…」
《そうね…、きっと決まりだから》
元来より生者は死者の姿を視ることは出来ない。許されない。
《ごめんね、遊士…》
労るような声音に、頬に触れていた指先が離れ、優しくオレの髪を梳く。
「母上、何を謝っているのですか?オレは何も…」
《いいえ。貴女には、本来私が負うべきだった責を…背負わせてしまった》
後悔の滲む声にオレはゆっくりと右手を持ち上げ、手探りで母上の肩に触れた。
「大丈夫。オレは何も後悔はしていない」
《遊士…》
「それに母上を泣かせたなんて知られたらオレが父上に怒られてしまいます」
目には見えなくとも肌で感じる空気に、オレは冗談を混じえて笑った。
《貴政様…》
「母上もご存知でしょう?父上が怒るとオレは身が竦む思いがします」
《えぇ、そうね。あの人ったら大人気ない部分があるから…》
ふわりと暖かく和らいだ空気に小さく母上が笑う。記憶の中にあるその姿を思い浮かべオレもまた笑みを溢した。
《…遊士。貴女は聡い子だからもう薄々勘づいているとは思うわ》
「はい…」
《今から私の言うことは紛れもない事実。貴女も身を持って体験していることよ。しっかり聞いていて…》
始まりは遠い昔。
何の悪戯かその年、力ある巫女が一人誕生した。
そして、彼女の生まれもった力というのは何時かは分からないが少し先の出来事を夢に見る、という本来はそれだけのもの。
“夢見の巫女”
当然誰も彼もが彼女の力を欲しがった。だが、当時はただの寺社の娘に過ぎなかった幼い彼女は自分に集まる人々の過度な注目と期待、圧しかかる責任にやがて疲弊していく。
いつしか自身の力までも恐れるようになり彼女は嘆いた。
もう嫌だと。こんな日々から逃げたいと。
そんなある日。
まるで…その声を聞き届けたかのようにいつしか彼女はそこから姿を消していた。
「そこって…」
《気付けば彼女は生まれた戦国の地から先の世へ、時間軸を移動していた》
「………」
《…私は彼女の願いを、彼女の家が奉っていた神様が聞き届けたのだと思っているわ》
先の世へと移動した彼女はそこで更なる乱世を目にする。
誰もが天下統一の夢を抱き、多くの兵が、農民が、武器を手に取り戦いに血を流す日々。
彼女は愕然とした。
広がる戦禍、もたらされる混沌。
それは彼女の生家をも奪い去っていた。
直面した惨状に彼女が何を思ったのか、それは彼女自身にしか分からない。けれどもその時を境に彼女は
“先読みの巫女”
となった。
《いえ、これでは少し意味が違うわね。彼女の力はあくまで夢見だけ。元の時間軸へと戻った彼女は戦国の世で先読みの巫女と“呼ばれるように”なった》
「じゃぁ、先読みは嘘…?」
自分の知る歴史と半兵衛の語っていた先読みが読んだ未来。そこに生まれた齟齬。正しいのは…。
すぐ側で首を横に振る気配がする。
《いいえ、それも正しくはないわ。彼女の読んだ未来は嘘と真実が複雑に絡み合っていた》
「………」
ふわりと持ち上げられた手がオレの頬に触れる。
《彼女は第六天魔王が天下を統一すると読んだ。けれども実際には第六天魔王は謀反により命を落としてしまった》
それはオレが知る過去。
先読みはどうして第六天魔王が天下を統一するなどと読んだのか。
頬に触れていた指先が、瞼を閉じた右目をなぞるように滑る。
《…先読みが外れたのは彼女が亡くなってしまったから》
「それでは彼女が生きていたら魔王が天下統一を成したと?」
《えぇ、可能性は十分にあったわ》
「………もしかして」
少しずつ与えられた情報を整理して遊士は一つの仮説に辿り着く。
先を促す気配に遊士はゆっくりと確認するように口を開いた。
「先読みの巫女は先読みではなく、彼女は自分の口にした嘘を真実に変えていた?」
《…その通りよ。先の世を垣間見た彼女は第六天魔王に天下統一を果たしてもらい更なる乱世が訪れることを忌避しようとした》
元より彼女には権力者達から注目が集まっていた。それを逆手に取り、先の世で見た戦を回避する為に偽りの先読みをし、人々を動かし、偽りを真実に塗り替えていった。
「そこまでして…」
《彼女は彼女なりに戦国の世を善くしようと戦った。けれど、志半ばで彼女は命を落としてしまった…》
「あ…」
確か魔王に殺されたと。
微かに漏れた声に優しく言葉が続けられる。
《貴女は優しい子ね、遊士。でも大丈夫》
彼女は…いえ、私の母は最後に夢見で自分の死を予見していた。
そして自分のしたことに後悔はないと言って私を奥州へ逃がした。
その先は言われずとも分かった。
瞼の上にぬくもりを感じながら遊士は更に深く話の中へ切り込む。
「母上はどうやって先の世へ?」
《詳しくは私も説明が出来ないのだけれど、きっと一番は母の願いが私を先の世へ送ったのだと思うわ》
出来るならば平和の世で生きて欲しい、と。
「では、オレは…」
ソッと瞼の上から離れた指先が遊士を抱き締めるように背中へと回される。
《ごめんね、遊士。貴女は私達が歪めてしまった歴史のせいで、その身に流れる巫女の血のせいで過去へと呼び戻されてしまったの。本来なら私が戻らなければならなかったのに》
「母上…」
《生まれつき身体の弱かった私は一度きりしか時間軸を移動することが叶わなかった。呼ばれても過去へと戻ることが出来ずに、こうして貴女へと言伝てを遺すことしか出来なかった…》
「…十分です。もう会えないと思っていた母上にこうして会えただけで」
背中に回された腕に遊士も手探りで抱き締め返す。子供の頃より変わらない凛としていて優しい包み込むような母上のぬくもり。
オレは自然と笑みを浮かべていた。
《…貴女のその強さは貴政様譲りね》
「そう、ですか?自分ではよく分からないけど」
あと一つだけ謝らなければならないことがあると、柚葉は遊士を抱き締めたまま告げた。
《貴女の右目…》
柚葉が何度か指先で触れてきた右目に手を添え、遊士は耳を傾ける。
《今なら分かる。それは私が先の世へ来てしまった代償だったのかもしれない。先を見通し過ぎてはいけないという戒めだったのかもしれない》
暗く沈んでしまいそうな声音に遊士は普段と変わらない真っ直ぐな言葉を被せる。
「もしそうだったとしても、オレは母上と父上の間に生まれて来て良かったと思ってます」
徐々に見えなくなる右の視界。幼い頃は怯え、確かに良いことばかりでは無かったかも知れない。けれどオレはそれを上回る幸せを母上や父上から与えられていた。
生まれてきて嫌だと思ったことは一度もない。
《遊士…》
「だから、母上が謝るようなことは何一つないんです」
そうでしょうと、遊士は柔らかく大人びた顔で穏やかに微笑んだ。
その表情の中に柚葉は貴政の面影を見つけて唇を震わせる。
過ぎ去ってしまった時の流れを感じて切なく胸を痛めるのと同時に、健やかに育った遊士の成長振りに思わず眦から涙が零れた。
《――っ》
「母上?泣いているのですか?」
《…っいいえ。泣いてなんて…ない。ただ貴女が素敵な女性に成長したことが私は何よりも嬉しい》
「そんな…オレは母上のようには…」
化粧をし、綺麗な着物を身に付けてもいなければ母上のように艶やかな黒髪を簪で留めたり、女性らしい振る舞いなど殆どしていない。
していることといえば、男物の服に身を包み、刀を手に戦場に出る。決して誉められた事ではない行動をしている。
《それは違うわ遊士。身形など関係無く貴女の心はとても素敵な女性に成長している。…この先も貴女は貴女らしく自分の信じる道を行きなさい》
「…はい」
いつかの貴政と同じ言葉を送られ遊士は表情を引き締めて頷き返す。ふっと緩んだ雰囲気に子供にするように柚葉はくしゃりと遊士の頭を撫でた。
《そして最後に貴女は選ぶことになるわ。その選択によっては…貴女は女性としての幸せを取り戻すこともできる》
「選ぶ…?」
《今は分からなくてもその時が来れば自然と分かるようになるわ》
頭を撫でていた手がふわりと離され、感じていた気配が薄まる。
「母上…?」
額に唇が寄せられ凛とした声音が遊士の鼓膜を揺らす。
《貴女に蒼き竜の御加護がありますように》
「蒼き竜…」
《私達が奉っていた神様よ》
「え…?」
言われた言葉に驚き、目を見開く。
視界に映ったのは柚葉でもなく、冷たい鉄の柵。
柚葉の気配はどこにもなく、冷えた空気が遊士の肌を撫でた。
「ここは…座敷牢か…?」
どうやら畳の上に転がされていたらしい。手足の拘束はないが、近くに刀は見当たらない。
腕を付き、座敷牢の中で遊士は何とか身を起こした。
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