夏の朝(昼+鯉若)

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連日続く熱帯夜
少しだけ早く起きた朝に―…



□夏の朝□



ジーワジーワと、朝から忙しなく聞こえる蝉の声。
空から降り注ぐ陽射しは今日も弱まる気配を見せずじりじりとアスファルトを焼いている。

「ふぅ…、今日も暑いわねぇ」

軒先に吊るされた硝子製の風鈴が、ゆるりと吹いた緩やかな風にちりんと可愛らしい音色を奏でた。

軒先に立っていた若菜はよいしょと、冷たい水を溜めた手桶を左手に持つと慣れた様子で開け放たれた門の前まで歩く。
そして、手桶の中に立て掛けていた柄杓を手に取ると柄杓で水を掬い上げ、門の外側へ向けてぱしゃりと水を撒いた。

ぱしゃり、ぱしゃり…。

熱せられた地面から仄かに蒸気が上がり、再びその上へ水を撒く。
心なしか涼しくなった空気に若菜は表情を和らげ打ち水を続けた。

「…あ〜っ!僕もそれやりたい!」

やがて、手桶に汲んだ水が半分を切った頃、若菜は遠くから聞こえた声と近付く足音にふと顔を上げた。

とたとたと駆け寄ってくる小さな姿に、気を付けろよと苦笑混じりに届く耳に心地好い低い声。

昼間の陽射しよりまだ幾分か弱い朝の時間帯に散歩に出掛けた二人が帰ってきた。

「お母さん!僕もっ!」

「お帰りリクオ。鯉伴さんもお帰りなさい」

「おぅ、今帰った」

自分も水撒きをしたいとせがむリクオに若菜は微笑み、手桶をリクオの横に下ろすと膝を折って右手に持っていた柄杓をリクオに手渡す。

「じゃぁリクオにも手伝ってもらおうかしら」

「うん!」

「この桶の中から水を掬って、門の外にぱしゃりって。お願いね」

リクオの手には少し大きな柄杓。リクオは柄杓の柄を握り締めてちゃぷんと桶から水を掬い上げる。

てえいっと掛け声を上げてリクオは勢いよく、言われた通りに門の外側へと水を撒いた。
ぱしゃぱしゃと楽しげに声を上げて水を撒くリクオに、若菜の傍らに立った鯉伴がふっと口許を緩める。

「あれじゃぁ次は風呂行きだな」

はしゃぐリクオの様子に表情を綻ばせ、若菜もゆっくり立ち上がると隣に立つ鯉伴を見上げてふんわりと笑った。

「お風呂ならぬるめに沸かしてありますよ。鯉伴さんもリクオと一緒に汗を流してきたらどう?」

「あぁ、そうだな。…少し歩いただけで汗が出てきてしょうがねぇ」

「着替えは後から持って行くから、リクオをよろしくね鯉伴さん」

ていっと水撒きをしていたリクオは案の定、着ていた着物を濡らしていた。
だが、それに気付かずリクオは水撒きに夢中だ。

「わぁっ!見て見て、お父さん!お母さん!いま、にじが見えた!」

きらきらと飛び散った水に一瞬、太陽光が屈折、反射して、小さな虹を空に描いた。

鯉伴と若菜を振り返り、見上げたリクオの瞳が輝く。頬を薄く紅潮させ、庭に咲く向日葵の様に明るい笑顔が二人に向けられた。

「何か良いことがあるかもしれねぇな」

見上げてくる真ん丸の瞳に鯉伴は愛しげに瞳を細め、くしゃくしゃとリクオの頭を撫でる。
大きな掌で頭を撫でられて嬉しそうにするリクオに若菜も鯉伴の隣でふふっと柔らかく笑った。

「良かったわねリクオ。さぁ、打ち水はそろそろおしまいにしてリクオは鯉伴さんとお風呂よ」

「はーい!」

半分残っていた手桶の水は柄杓では掬えなくなるほどに減り、若菜はリクオから柄杓を受け取る。
軽くなった手桶に柄杓を入れて玄関へと向かおうとした若菜の手から手桶を掬い取って鯉伴が先を歩き出す。
そんな些細な気遣いに若菜は笑みを深めて、空いた右手でリクオと手を繋いだ。

前を行く頼もしい大きな背中を眺めながらリクオと若菜も歩き出す。

打ち水のされた門前を和らいだ涼やかな空気が通り抜けていった。



end




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