優しく包んで、おやすみと(笠黄)

※笠黄付き合ってる前提
※帝光中三年時の弱ってる黄瀬くんが笠松センパイの元に来る話




朝晩が冷え込むようになり、陽が暮れるのも早くなった秋のある日。部活を終えて家に帰ると部屋の中に黄瀬がいた。





「………お前、どっから入った?」

いや、それ以前に黄瀬とは「また、明日っス!」と、ついさっき別れたばかりだ。
それによくよく見ると笠松の部屋の真ん中に突っ立っている黄瀬は白いブレザーに水色のワイシャツ。白のスラックスと…海常高校の制服ではない別の制服を身に付けていた。何だか身長もついさっき別れたばかりの黄瀬よりもはるかに低い気がする。

「おい、黄瀬?」

「……アンタ、誰っスか?てか、ココどこっスか?」

笠松の呼び掛けにようやく応えたと思ったら黄瀬は鋭い眼差しを笠松に向けてきた。精一杯の警戒と威嚇も今よりも幼さなさを残す風貌では、あまりというか、もとより、笠松には意味をなさなかった。

「お前それ本気で言ってるのか?」

何故か笠松の部屋にいる黄瀬。
見慣れぬ制服。でも実際は見慣れぬだけで、笠松はその制服が帝光中のものだと知っている。
今よりも幼い顔立ちに、笠松と同じぐらいの背丈。

「本気も何も意味が分からないっス。…で、アンタ、誰っスか?こんなとこに連れてきて、俺をどうするつもりっスか?」

警戒心と敵意を剥き出しに笠松を睨み付けてくる黄瀬に笠松は「マジか…」と呟き、肩に掛けていたエナメルのバッグを床に落とした。
右手で額を押さえ、頭の中で成り立った有り得ない仮説を現実のものとして受け入れるのに暫くの時間を要し、同じく警戒心剥き出しの黄瀬に説明・説得するのには更に時間を要した。






「でだ、今のお前は帝光中学三年の黄瀬 涼太で間違いないな?」

「そうっス。んで、アンタは海常高校バスケ部の笠松 幸男サン?」

「そうだ」

黄瀬をベッドに座らせ、自分は勉強机の椅子を引き出して座る。机上に広げたルーズリーフに確認事項を書き付けながら距離をとったまま笠松は黄瀬に質問を重ねた。

「此処に来る前は何してた?」

「何って別に…。全中も終わっちゃったし、暇潰しにバスケしてたっス。んでその途中で仕事の連絡がきて、仕事に行って、家に帰ろうとして…そっから記憶がないっスね」

「ふむ…」

全中が終わった後か。微妙な時期だな。
黄瀬から聞いた話じゃ、中学最後の全中の時には既にキセキの世代と黒子の仲には亀裂が走っていたというし、全中後には完全にバラバラになってしまったと黄瀬は寂しそうに笑って言っていた。その時は心情的にも、表情を作らなければならなかったモデルの仕事もちょっと辛かったっスと黄瀬は苦笑を溢していた。

つまり、今、目の前にいる黄瀬は時期的にみて苦しい・辛い思いを一人で抱え込んで足掻いている最中の黄瀬ということになる。
笠松はベッドに腰かける黄瀬の様子をちらりと窺った。

黄瀬は怠そうにベッドの下にだらりと両足を投げ出し、身体の横に両手を付いてつまらなさそうな顔をしている。その顔には、未来に来てしまったという焦りが全く感じられず、むしろ自分のことなのにどこか他人事の様に思っている雰囲気さえあった。
それでも笠松を警戒する心は残っているのか、一定の距離は保ったままだが。

「何スか、笠松サン?」

黄瀬を見たまま考え込んでしまっていた笠松は、黄瀬の鬱陶しそうな声に意識を引き戻される。
今のきらきらと宝石の様に輝いている琥珀色の瞳からは考えられない、翳りを帯びてくすんだ琥珀色の双眸と薄墨色の双眸が絡まる。

笠松は黄瀬に答えずに小さくため息を吐くと、椅子から立ち上がりベッドに腰かけている黄瀬に近付く。
縮まる距離に黄瀬の肩がピクリと小さく跳ねた。

「今のお前に言っても難しいかもしれねぇけどな、そう警戒すんな。俺は絶対にお前を傷付けたりしねぇ」

「……っ、そんなん、当たり前じゃないっスか。初めて会った人間を誰が信用するんスか。アンタ、馬鹿っスか」

ベッドに腰かけていた黄瀬は僅かに腰を浮かして、手を伸ばせば直ぐ届く距離で足を止めた笠松を睨み上げる。
当初より近付いた距離で黄瀬を見下ろした笠松はひそりと眉をしかめた。

「それでも今は信用してくれ。お前はそれで誤魔化してるつもりかも知れねぇけどな、目の下のクマ凄いぞ。顔色もあんまりよくねぇな」

「なっ−−、そんなことアンタには関係…っ!」

「あるんだよ。今は分からなくても良い。けど、そんなぼろぼろになるまで頑張らなくてもいいんじゃねぇのか」

キセキの連中と黒子がバラバラになっていった時の話を静かに聞いていた笠松は、その当時の黄瀬に言ってやりたいと思った言葉が一つだけあった。当事者じゃないからこそ言える言葉。無責任だと罵られても構わない。

何も知らない癖にと、ギリッと拳を握って今にも殴りかからんばかりの怒りの表情を浮かべる黄瀬に笠松はそれでも言葉を続けた。

「お前はお前なりによくやってる。頑張ってる」

他の連中が何を考えていたのか何て笠松は知らないし、もし黄瀬と同様に苦しんでいたのだとしても、笠松が今気にかけている目の前の後輩以上にはきっと自分の心は振れないだろう。
他の人間からみて、それは事実と違うと反論されても、笠松が大切にしたいと思うのはただ一人だけ。目の前の泣きたいのに泣かない強がりだけはいっちょまえな馬鹿で可愛い後輩だけだ。

「は…っ、なに…言って…」

唇を震わせ睨み付けてくる黄瀬に笠松は穏やかな声で語りかける。

キセキと黒子の仲を何とか修復しようと、声を掛け、引き留め、道化を演じてまでよくやった。
うるさいと振り払われ、無駄だと言われ、興味もないという態度をとられても。必要ないと、無視されても。
胸の痛みを抱えながら、それでも仕事では表情を求められれば何でもないような顔で笑ってたんだろう、…よく頑張った。
今のお前を知っているからよく分かる。好きな事には全力で、努力を怠らない。軽そうな見た目に反して、根は一途で真面目、繊細。皆が知らない所でお前は頑張っている。格好悪い所は見せたくない格好つけ。
お前はそういう奴だから…

「なぁ、黄瀬」

何かを堪えるように唇を噛んで、黄瀬が俯く。
さらりと揺れた黄色い髪の旋毛を見下ろしながら、笠松はゆるりと愛しげに瞳を細める。

「頑張ったなら、次は休め」

自然と持ち上げられた笠松の右手が手触りの良い黄色い髪に触れる。

「お前は一人で頑張りすぎる所があるからな」

「っ、…んな知った風な口、利かないで欲しいっス」

悪態を吐きながらも笠松の右手が払われる気配はない。
俯いたままの黄瀬の肩が微かに震える。
さらさらと指通りのいい髪を撫でながら笠松は「そうか」と、その姿に口許を緩めた。

「…そう…っスよ」

何も知らない癖にと黄瀬は繰返し、そのまま口を閉ざす。
笠松もそれ以上は何も言わずにただ黄瀬の頭を優しく撫でていた。






どれぐらいそうしていたのか、シンとした静かな空気が部屋の中を満たす。
やがて微かな布ずれの音と共に黄瀬の身体がぐらりと傾ぎ、笠松の方へと倒れ込んでくる。

「…っと、落ちたか」

それを危なげ無く受け止め、聞こえてくる小さな呼吸音に笠松は小さく息を吐く。中三にしては軽い気がする黄瀬の身体を笠松は抱き上げ、ベッドの上にゆっくりと下ろす。
その時、まなじりに光る滴を見つけて、眠った相手を起こさぬように指先でそっと滴を拭ってやった。

どうやって過去の黄瀬が此処へ来たのかは分からないが。

「大丈夫だ。今はゆっくり休め」

この場にお前を傷付ける者はいない。
涙の後が残る幼い顔を見下ろし、笠松は静かに呟くと身体の上に布団を掛けてやる。
その後、静かにベッドから離れ、制服から部屋着に着替える。エナメルのバッグの中から洗濯に出すTシャツとハーフパンツ、タオルを出して、携帯電話を一緒に持つと一旦部屋から出て行った。






洗濯物を洗濯籠に放り込み、リビングに足を踏み入れて電気を付ける。
笠松の両親はお互い遅い夏休みをとったとかで昨日から旅行中で不在だ。大学生の兄はとうに家を出てしまっているし、弟は笠松とは違う学校に通っていて学校の寮に入っているので今この家にはいない。

それが今は良かったのか。
それともこのタイミングだからこそか。

笠松はキッチンに入って冷蔵庫の中身を覗く。作り置きされているおかずに、日保ちするベーコンやウインナー、玉子に牛乳と…材料はそれなりに揃っていた。
パタリと冷蔵庫のドアを閉め、笠松はちらりと炊飯器を見る。

「米は弁当用に炊いたのが残ってたはずだし、あの様子だとアイツがちゃんと飯食ってたかどうかも怪しいな」

炊飯器の蓋を開けてご飯の量を確認する。

「よし。アイツには玉子粥で良いな」

でもその前に風呂入ってさっぱりしてこよと、キッチンとリビングの電気を消した。





風呂から上がった笠松は一度自室の様子を覗きに行ったが黄瀬は変わらずベッドの中ですぅすぅと寝息を立てて眠っていた。

「相当疲れてたんだな」

気を張っていたというか。
まだいくらか幼い寝顔に笑みが溢れる。

「いい夢見ろよ」

さらりと髪に触れ、優しく頭をひと撫でして、笠松は静かに部屋を後にした。





キッチンで自分用の夕飯と黄瀬用の玉子粥を用意して、笠松は黄瀬を起こしに行く前にリビングで携帯電話を操作して電話を一本かける。

「あ、黄瀬か?笠松だけど」

『こんちわっス、センパイ!センパイから電話なんて何かあったんスか?いや、俺は嬉しいっスけど』

「ん、別に何もねぇけど…お前が今何してるかと思って」

『な〜〜っ、』

「黄瀬?」

『不意打ちは止めて欲しいっス!』

「不意打ちって別に何もしてねぇだろ」

電話に黄瀬が出たということは今笠松の部屋にいる黄瀬はやはり過去の黄瀬ということだろう。未来の黄瀬はこうして自分の家にいるし。…と、そこまで考えて笠松は密かに安堵の息を吐く。
未来の黄瀬までいなくなっていたらどうしようかと、過去の黄瀬の前では微塵も見せなかった不安を電話口に出た黄瀬の声が知らずの内に打ち消していた。

「黄瀬」

『はい?』

「明日の朝、一緒に学校行くか?駅で待ち合わせして」

『行くっス!』

間髪入れずに返ってきた元気な声にくすりと笑みが零れる。

「じゃぁ、早起き頑張れよ」

『うっ、が、頑張るっス。それで、頑張ったら…ご褒美が欲しいなぁなんて…』

笠松はいつも部室と体育館の鍵を職員室に取りに行ったりと、部員の誰よりも朝は早くに登校している。それに対し黄瀬は頑張っても三番目か四番目の登校だ。黄瀬が到着した時には森山か小堀のどちらかが大抵来ている。

「ご褒美なぁ…。お前、来週の日曜って空いてるか?」

『ちょっと待って下さいっス!手帳、手帳…。あった!う〜んと、空いてるっス!』

ごそごそと音がして黄瀬が声を上げる。

「なら、その日デートしようぜ。お前の行きたい所に付き合う」

『えっ、本当っスか!やった!』

目の前にいなくても声の調子で黄瀬が笑顔を浮かべているのが分かる。笠松は細かい打ち合わせはまた明日なと、早く寝ろよ、おやすみと話を畳んで通話を切る。
そして、リビングの扉の前に出来た影に向かって声を掛けた。

「入って来いよ、黄瀬。そろそろ起こしに行こうと思ってたんだ」

携帯電話をリビングのテーブルの上に置いて、カチャリと控えめに開かれたリビングのドアの方へ笠松は視線を投げる。

「…アンタ、不用心だって言われないっスか?」

見ず知らずの人間を部屋に一人置きっぱなしにして、何があっても知らないっスよ。
口を開けば生意気なことしか言わない黄瀬だったが、言ってることはただ単に笠松の心配だった。

「大丈夫だろ。俺、お前のこと信用してるし」

「アンタねぇ、よくそうホイホイと…!」

「そんなことより、飯の準備するからお前は椅子に座って待ってろ」

「あっ、ちょっと!」

くるりと身を翻し笠松はさっさとキッチンに姿を消す。黄瀬は渋々と笠松の言葉に従って大人しく椅子を引いて座った。

「何で俺が…」

こんな知らない場所からさっさと立ち去れば良かった。…ただ、目が覚めた時に誰も側にいなかったから部屋を出てきただけで。階段を降りた先に玄関はあったのだが、リビングの方から楽しそうな声が聞こえたからちょっと気になって覗き見しただけで、決して笠松を捜していた訳じゃない。
ぶつぶつと文句とも言い訳ともつかない愚痴を溢して黄瀬は笠松がご飯の支度を整えるのを大人しく待った。

「……で、何で俺のはお粥なんスか?」

向かい側の椅子を引いて座った笠松に黄瀬はいちいち攻撃的な声で話かける。
それでも笠松にはまったく効果はなく、笠松は適当に作った野菜炒めをつつきながら答える。

「お前ちゃんと飯食ってねぇだろ。そんな腹にいきなり物つめこんでみろ。大惨事になるぞ」

笠松の前には他にも作り置きの筑前煮、金平牛蒡、豆腐とワカメの味噌汁が置かれている。

「お粥なら胃にも優しいし、食えるだろ。量が多かったら残しとけ」

「………」

「ん?まさか玉子が嫌だって言うんじゃねぇだろな」

スプーンを右手に握ったまま俯いた黄瀬の頭を笠松はジロリと見る。
すると黄瀬は俯いたままのそのそとスプーンを動かして玉子粥を一口を掬い上げる。ゆっくりと口へ運んで、味わうように咀嚼し、呑み込んでから黄瀬は口を開いた。

「ほんっと、何なんスか、アンタ。…アンタの側は居心地が良すぎて逆に気持ち悪いっス」

悪態を吐きながらも玉子粥を口に運ぶ黄瀬に笠松もご飯を食べながら、頬を緩めて言い返す。

「そりゃ、悪かったな」

「心がこもってないっス」

「はいはい」

「ハイは一回っスよ」

笠松が思ったよりも食欲はあったのか黄瀬はパクパクと玉子粥を完食して、椅子に座ったまま再びうつらうつらと頭を揺らし始める。
その様子に夕飯の後片付けをしていた笠松はキッチンから出て黄瀬に声をかける。

「眠いならさっきの部屋に戻って寝ろよ」

「んー、眠くないっス」

「嘘つけ。ほら」

目を擦る黄瀬の手を掴み止めさせると黄瀬の手を引き椅子から立ち上がらせる。それでも黄瀬は眠くないと抵抗して、その場から動こうとせずに笠松を困らせた。

「お前、もしかして寝たくないのか?」

「…だって、」

その続きは音にならずにシンとした沈黙が落ちる。

「分かった。それなら横になるだけで良いから、そこのソファにでも転がってろ」

リビングには食卓用のテーブルセットとテレビを見る時用のソファセットがある。そのソファなら笠松が横になっても大丈夫な大きさがあるし、中学生の黄瀬ならまだそのソファでも横になれるだろう。そう考えての提案に黄瀬は納得したのか、何故か逆に笠松の手を掴んで笠松を引っ張ってソファに移動する。

「おい、黄瀬。手、離せよ。まだ片付けが…」

「嫌っス」

「はぁ…?って、うわっ!?」

グッと強く黄瀬に手を引かれたと思ったら笠松は黄瀬に抱き締められる様にして一緒にソファの上に転がされた。
身長差があまりないせいか、黄瀬と顔が近い。

「んで…お前はまた何を泣きそうな顔してるんだよ」

「してねぇっス」

そのわりには笠松の身体に回された腕の力が強くなる。
至近距離にある瞳は不安定に揺らめいていた。

「それよりさっき、アンタ楽しそうに誰かと話してたっスよね」

「あ?あぁ…あれか」

楽しそうな顔。扉越しに聞こえてきた声もどことなく弾んでいた。
今も思い出して笠松は愛しげに瞳を細めている。
それが羨ましい。
何で俺じゃないの?
アンタの側は居心地が良すぎて気持ち悪いのに、何故だかずっと側にいたい。

よくやったなんて、頑張ったなんて、言われたのはアンタが初めてなんだ。
皆は皆よくやるねって俺に言って、自分の友達のことなのにもう興味もないみたいな顔をして皆バラバラになっちゃった。皆、友達じゃなかったの?
そんな俺の心情なんかお構いなしにモデルの仕事は舞い込んでくる。
笑顔を求められて、笑う。最近じゃ作り笑いも上手くなったと思うんだ。それでもダメな時はまったくダメで、カメラマンさんに怒られて。頑張って完璧な笑顔を作る。ここ数日はそれの繰返し。
体力はある方だけど、心はくたくたに疲れていて悲鳴を上げている。誰もそれに気付かない。俺に休めなんて誰も言わなかった。なのに何で初対面のアンタがそんなこと言うの?何も知らない癖に。何で俺は…。

「誰っスか、電話の相手」

「黄瀬?」

「恋人っスか?」

何でこんなに嫌だとムカついているんだろう。
笠松の身体に回した腕に力がこもる。

「おい、苦しい、力緩めろ!」

「嫌だ」

「嫌だってお前はガキか。あぁ…今はガキだったな」

ったく、と笠松はため息を吐き、ぎゅうぎゅうと抱き締めてくる黄瀬の背中をあやすようにポンポンと叩く。

「電話の相手はお前だよ」

「俺…?」

「そうだ。よく覚えておけ。今が苦しくて辛くてもお前は一人じゃない」

「………」

「未来で俺が待ってる」

もちろん俺だけじゃなく、この先出会うお前のチームメイト、クラスメイト、新しい友達。

「大丈夫だ。お前は今疲れて弱気になってるだけだ。何も心配いらねぇよ」

だから、

「今は少しだけ何も考えずに休め」

ポンポンと背中を一定のリズムで叩かれ、空いた片手で緩く笠松に抱き締め返される。途端に強い睡魔が振り返してきて、黄瀬の意識が遠くなる。

「ねぇ、かさ、まつ…サン」

「ん?」

「おれ、…アンタのこと、ほんと…は、嫌いじゃ…ない、ス…」

「うん」

「ほんと…は……」

くたりと黄瀬の身体から力が抜け、黄瀬は寝息を立て始める。完全に身を預けてきた黄瀬に笠松は口許を綻ばせる。背中に置いていた右手で黄色い頭をくしゃりと撫でて、笠松は小さく口を動かした。

「そんなの知ってるよ」

起こさぬ様にゆっくりと黄瀬をソファに寝かせ、笠松は黄瀬から離れる。ブランケットを取りに笠松は一度自室に戻った。
そしてリビングに戻った時には黄瀬の姿はソファの上から消えていた。

「戻ったのかアイツ…」

ソファの上には微かに人がいた温もりが残されていた。







「あ…」

ゆっくりと重い瞼を持ち上げれば、ぼんやりと誰かの顔と目映い蛍光灯の光が目に入る。

「気がついたか?大丈夫か?」

やがてはっきりしてきた視界と共に思考も戻ってくる。
俺は確か、モデルの仕事が終わって電車で家に帰ろうとして、駅の階段で人にぶつかった。それで足を踏み外して−−。
そこから意識が途切れているということは、俺は階段から落ちて気を失ったんだろうか。

「おい、どっか痛い所とかあるか?」

前後の記憶を思い返していると顔を覗き込まれて話しかけられる。

「あっ、スイマセン。大丈夫っス」

それに慌てて黄瀬は答え、心配そうに顔を覗き込んできた人の顔をしっかりと捉える。そして、自分でも気付かぬ内に勝手に口から言葉が溢れていた。

「アンタ…どっかで会ったことないっスか?」

「はぁ?何言ってんだ。初対面だ。お前、森山みたいなこと言うなよ。ナンパか」

「もりやま…って、誰っスか?」

「いや、こっちの話だ」

そう言って離れた人に、黄瀬も横になっていた身体を起こす。
周囲を見回せば、どうやらここは駅のホームらしい。黄瀬はベンチの上に寝かされていたようだった。

「頭は打ってねぇから、大丈夫だろ」

いきなりお前が上から落っこちてきたから慌てて受け止めたんだと、その人は言った。お前にぶつかった人物には逃げられたとその人は柄悪く舌打ちをして告げた。

「助けてもらっただけで十分っス」

「そうか?」

「はい。ありがとうございました」

余所行きの笑顔を張り付けて礼を言う。さっさと話を切り上げ、ちょうどホームに入ってきた電車に乗って家に帰ろうと足を踏み出した黄瀬の背に「それよりお前」と僅かに低められた声がかかる。

「見たところ中学生か。身長の割りに軽すぎだろ。ちゃんと飯食ってんのか?」

「別にそんなのアンタには関係……」

「ねぇかもしんねぇけど、目の前でいきなり意識失われたら誰だって心配になるだろ。ちゃんと飯食ってよく寝ろよ。目の下のクマもひでぇぞ」

じゃぁな、それだけだと、一方的に話をぶったぎられてその人は電車に乗り込む。
言い逃げされた形で一人ホームに残された黄瀬はムッとした顔でその背中を睨み付けた。

「何なんスか、あの人…」

けれども不思議と嫌な気はしない。
だが、着ていた制服にはまったく見覚えがないし、右肩に掛けられていた白と青のエナメルのバックも黄瀬の記憶にはない。真実、初対面だ。なのに何故か初めて会った気がしなかった。

その違和感に黄瀬は首を傾げながらも別の車両に乗り込み、その後何事もなく家へと帰った。

数週間後にはすっかり黄瀬はこの日の出来事を忘れてしまっていた。







それからさらに半年後、
黄瀬 涼太は海常高校に入学し、紆余曲折しながらバスケ部で自他共に認められるエースへと成長していく。
悔しさが残るインターハイを終え、肌寒むくなってきたとある秋の日。

「なんか、どっかで海常高校って名前聞いたんスよね…」

だから、海常高校に進学することを決めた。幸いモデルの仕事にもOKが出たしと、黄瀬は部室で着替えながら首を傾げて語った。
その話を聞いた笠松は何故か笑って黄瀬の背中をポンポンと軽く二度叩いた。

「なんスか?」

「いや、お前がうちに来てくれて良かったなって」

ほら、俺達は未来で出会った。
これから先は俺がお前の隣にいる。

泣きたい時は思い切り泣いて、頑張って疲れたなら…俺の隣で休めばいい。また明日、心から笑えるように。

「センパイ、俺もね、海常に来て良かったって思うっス。だって、笠松センパイに会えたから」

今、ふわりと花が開くように笠松の隣できらきらとした綺麗な笑顔が零れた。



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