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エルヴィンさんがあたしを名前で呼んでくれるようになった。何故名前を呼んでくれるようになったのかはわからないけど、ただそれだけの事が、すごく嬉しかった。あの後、年甲斐もなく喜んでしまって、エルヴィンさんが若干引いていた事は、悲しかった。

だけど、あたしが元居た場所に帰りたいのは変わらない。ここにあたしの知っている彼の過去の姿がある事だけが、唯一の募る不安を安心に変えてくれる事実だった。もし知っている人も居なくて、今している教官という役割がなければ、あたしはここに居る意味すらないのではないだろうか。


どうして此処に居るのだろう。




「これじゃ駄目です。腰が引き過ぎ。その所為で抉るのが浅過ぎる。死にたいんですか?そのままだと、巨人の餌食ですね。まあ死にたいなら返ってその方が良いと思いますけど。」
「…はい」


ナマエは立体機動訓練の指導にも携わる。巨人を模した張りぼてを狙撃する訓練中、バッサリと訓練兵達に言葉を突き付ける。座学の時とは違い、彼女がこの訓練で笑顔を見せる事は滅多に無い。ナマエの訓練は他の教官と同じか、それ以上に厳しいとさっそくの話題にもなっていた。それがナマエのけじめでもあった。命に関わるだけではない。いつしかこの場に居るほとんどは巨人と対峙する事になるからだ。


「ナマエさん厳し過ぎだよな…俺、別に調査兵団に入りたい訳でもないし、巨人と戦う事なんて無いんだからある程度立体起動装置を扱えてたら良いと思わないか?」
「おい、もう少し小さな声で言えよ…一応訓練中だぞ。でもあの人すごい立体機動上手いと思う…」
「そこォ!!喋ってる暇があるんですか!?次はどうすべきなのか考えて!」
「はっ…!!すみません!!」
「チッ…平和ボケか」

自分も壁外に出る前はそうだったか、と思い出し、苛立ちを収める。ナマエは訓練兵達と同じようにアンカーを飛ばし、移動しながら訓練兵達に叫んだ。100年近く巨人の襲撃を受けていないこの時代では、皆、巨人と対立する事にあまりにも現実味を感じていない。だから、訓練の厳しさ故に陰口を叩かれるのは多々ある事だった。しかし、ナマエに同じように立体機動し、うなじを抉る模範を見せられた時には、誰も文句は言えなかったのである。



これが平和ボケか、と思っていたのはナマエだけではなかった。


「はあ…」
「お疲れですか、エルヴィンさん?」
「ナマエさん…いえ、疲れた訳では」
「本当ですか?どっちにしろしっかり休憩してくださいね、って厳しくしといて何ですけど。」

立体機動訓練を終え、珍しく溜め息を吐くエルヴィンを見て、ナマエは彼に声を掛ける。疲れているのだと思い、自分の所為であるとはわかっていつつも、労わりの言葉を送ると、彼から出てきたのは意外な言葉だった。


「いや、皆、平和ボケしてると思って。何の覚悟もないのだと。」
「…エルヴィンさんでもそんなブラックな事言うんですね。」

素直に辛辣な言葉を口にするエルヴィンをナマエは初めて見たので目を見開いた。訓練中に他の訓練兵を見て、そう感じたのだろう。彼は真面目だから。

「俺達は実際に巨人を見た事もないから、仕方がない事だとは思いますが。」
「そうですね。あたしは初めて壁の外に出た時、一度は決めたその覚悟も崩れ去りましたしね。」
「…それでも、俺は敵に勝ちたいです。勝つのは、人類だ。だから、いつだって死ぬ気でいなければ」
「エルヴィンさんなら…大丈夫です。きっと将来いろんな部下に囲まれて、勇ましく戦ってますよ。だから死んでは駄目です。」
「そんな未来の事…わからないじゃないですか。」
「えっと…なんとなくですよ、なんとなく!」

そう言って彼女は訓練中に封印していた笑顔を見せた。
こうやってへらへらと笑う彼女と、立体機動を扱っている彼女の姿が同じものであるとは信じ難いと、エルヴィンは思った。それと同時に、どうして調査兵団を選んだのか、と。


「…もし、エルヴィンさんが危ない目に合っても、あたしが守ります。」


ナマエは無意識に出た言葉にはっとした。もし、もしもエルヴィンが死ぬような事があったら…?でも、彼女が生きている時代には彼も存在した。だから今死ぬような事はないのだ。ナマエはそう自分に言い聞かせた。しかし無意識に出た言葉も本心である。



自分が今、此処に居る理由は、きっと、彼の為なのかもしれない。


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