バクバクと、嫌な予感がするほど鼓動が速く、重くなっていた。腹の真ん中から胃を押し上げて心臓の裏側を通っていくような、この嫌悪感はなんだ。嫌だ、嫌だ嫌だ。わけもわからずに、混乱して暴れ回りたくなるような感覚がする。今すぐここから逃げたい、何もかもを壊して無かったことにしてしまいたい、でもその目標となる出来事が、見当たらない。なにが、どうなってんだ。何を見ているわけでもなく、ただ赤黒い視界の中に、ふっと影が揺れ、た、
「うあぁっ!!!!」
 デカイ声が、出た。まずそのことに自分で驚いた。腹の底から出た声は大きくて、視界に見える白い天井に響いたのがわかる。頭が真っ白というよりも、頭の中が空っぽのような感覚に陥った状態で、相変わらず速く重い鼓動の振動を胸や背中、腹に感じた。
「大丈夫か、赤也」
 シャッ、と音がして、軽いカーテンが開かれる。その瞬間、やっと自分がどこにいるのかがわかった。保健室の、ベッドの上だ。
「や、なぎせんぱい」
「……瞳孔が開いているな。充血はしていないが、興奮状態にあるようだ。もうしばらく寝ていろ」
 カーテンを開けた柳先輩の顔を見ても尚、安心することなく鼓動が慌ただしく動く。なんで俺、保健室にいるんだっけ。ていうか今何時だ、俺はいつからここにいんだよ。少し開けたカーテンの隙間から柳先輩が入ってきて、目を剥いたままの俺の体に毛布をかけ直す。聞きたいことはたくさんあるのに、何故か何ひとつ言葉にはならない。気管を通ってきてるのに喉でつっかえて、胸にぐるぐる渦巻く言葉。なんでさっきから、こう胸くそ悪いんだろう。
「柳先輩、」
「なんだ」
「な、なんか俺変ッスよね」
「……そうだな。突然倒れたことにも驚いたのだが、どうにも興奮状態にあるようだな。何か変な夢でも見たのか?」
「ゆめ?夢…は…見て、ないッス。あ、いや、見たかも知れな…い…、それより、俺、倒れたんスか?」
 さりげない動作で傍の丸椅子に腰掛けた柳先輩の顔をじっと見ながら問うと、柳先輩は俺の途切れ途切れで不確かな返事に何か思ったのか、上体だけくるりと後ろのほうを向いて「精市、氷枕を持って来てくれ」と言った。さきほど柳先輩が少し開けたのみで、あとはカーテンに囲まれているのでわからなかったが、どうやら幸村部長も室内にいるらしい。わかった、と向こう側から返事が聞こえ、それから柳先輩がまたこちらへ顔を向ける。
「ああ。部活を開始してすぐ、突然倒れたんだ。今日は日差しもそんなに強くはない…疲れが溜まっているのかも知れないな」
「そ、そうスか……俺、どのくらい寝てました?」
「そうだな、俺の体感的な時間で言えば13分きっかり、といったところだ」
「13分……ッスか」
「ああ」
 柳先輩が「あまり長くは寝ていないな」と言うのを聞きながら、何かぼんやりと頭に13分という数字が張り付いたように忘れられなくなる。テニスの試合でスピード勝負にこだわる俺は、13分を目安にしているところがある。だからだろうか、妙にその数字が頭に残るのは。しかし何か、どこかに繋がるようなこの感じ。やっと静まり始鼓動が再稼働しそうになる、この感覚。本当めただろうかというに胸くそ悪い。
「柳、氷枕ってこれで良かった?」
 すると不意に、カーテンの隙間から幸村部長が現れた。右手にはタオルにくるまれた氷枕、左手は開きかけのカーテンに添えられている。その部分がやんわりと揺れるのを見た。
「ああ、ちゃんとタオルに包んでくれたのか。助かる」
 柳先輩が幸村部長から氷枕を受け取り、幸村部長は左手で少しカーテンを押し開けながら入ってきた。柳先輩が氷枕を俺の頭に敷こうとしていたので「すんません」と言って頭を少し持ち上げた。枕と頭の間に置かれたそれに頭を預けると、冷えかけたタオルがじわりと冷たさを伝えてきた。気持ちがいい。
「赤也、さっきすごい声だったけど大丈夫かい?嫌な夢でも見たのかな」
「あ、いや…夢は、見た、かも……覚えてないっぽいんスけど」
「…ひどく曖昧な返事だな」
「なんていうか、こう…思い出せそうで、思い出せないっつーか……なんか、あんまり良い夢じゃなかったのは、なんとなく覚えてるんですけど」
 幸村部長が心配そうな顔で俺の顔を見つめる。本当にこの人は、コートを出ると威圧感がなくなるから不思議だ。そんな幸村部長が、不意にカーテンの方を向く。藍色の髪がしなやかに動いた。
「真田、赤也が目覚めてるよ」
 そして後ろ手にカーテンをゆっくり引っ張って開けつつ声をかけると、そこにいたらしい副部長が「む、わかっている」と返事をしたのが聞こえた。物音がしなかったので気づかなかったものの、副部長も揃って保健室にいたらしい。なんだか今日は過保護だ。
「……、」
 しかし途端に、また忙しくなりだす鼓動。ドクドクと、血がすごい勢いで押し出されるのがわかる。振動で、胃が、内蔵が揺れる。自分の血流の音とは別に、真田副部長が歩み寄ってくる足音が聞こえる。頭の片隅で、副部長の登場を拒否するような感覚がじわりと流れ出た。しかし俺にはどうすることもできずに、その瞬間を迎える。
「どうだ、赤也。調子のほうは」
 ふ、と、現れた副部長。胃が一度飛び跳ねるように、上体がガクッと揺れた。驚いた時の感覚に似ている。
「っ!」
「どうした?赤也」
 そんな俺の異変に気がついた柳先輩が、俺の顔を見る。
 三人、揃った。俺の目の前に三人が揃った瞬間、思い出した。さっきから感じてるこの胸くそ悪い感覚、そして異常な鼓動、嫌な予感。一瞬にして蘇った、俺が眠っていた13分間のうちに見た夢。きっと今、真田副部長が現れることに対して嫌だと感じたのは、その夢を思い出してしまうのをどこかでわかっていたからだ。
「そ…うだ、俺、変な…夢、見て」
「…変な夢?」
「先輩たちと、試合するんスけど、俺、あっさり三人に勝っちまって、」
「ほう」
「……でも、なんでだろう。なんでかわかんないッスけど……それが、すげー嫌で」
 夢の中で、俺は三人と次々に試合をすることになった。普段は試合したくてもさせてもらえないことも多く、こんな機会は滅多になかったけど夢の中の俺は全然嬉しそうじゃなくて、ただ呆然と三人を見ていた。まず、柳先輩。次に、真田副部長。そして幸村部長。シングルスで3試合、すべて俺の圧勝だった。
「なんか、三人ともおかしいくらいすげー弱くて、俺は俺で、ただ黙々とプレイしてて…全然楽しくもなくて」
 試合が終わっても、先輩たちは俺に何を言うわけでもなく、ただ幸村部長が微笑んでいた。俺も、ただそんな三人を見つめていた。でも心の中では、ぞわぞわと嫌な感覚が増大していた。こんなの、俺の知ってる人たちじゃない。夢の中ながら、そのことだけは明確に意識に紛れ込んだ。
「だって柳先輩も副部長も、幸村部長も……みんな俺に負けたってのに笑ってっし。俺が倒したいのは、そんな弱いやつらじゃない。バケモンみてーに強い人たちだからこそ、俺は倒したいと思ったのに」
 バクバクと、鼓動が止まない。三人の視線が俺に集中してるのはわかってるけど、俺は誰とも目を合わせることができずにただ違う場所を見つめた。白い天井をじっと見つめると、幸村部長が最後に言った言葉を思い出した。
『これで満足なのかい』
 どういう意味だか、わからなかった。ただいつもの顔で『これで満足しているのか』と尋ねてきたのだ。満足?してるわけねーだろ。こんなの、俺の知ってるバケモンじゃない。ただの弱いやつらだ。俺の知ってる柳先輩は、副部長は、幸村部長は…俺がどうあがいたって勝てねーんじゃねーかってくらい強い。こんなにあっさり、俺に負けるような人たちじゃない。胸の奥に、ここから逃げ出してしまいたい気持ちが湧き上がった。顔や姿は知っているものなのに、でも全然違う人。側にいることさえ、嫌気を感じた。ちょうど、さっきから感じてるこの胸くそ悪い感覚。この原因は、まさに夢の中でのものだった。
「卒業しちまう前にアンタたち倒さなきゃ、俺はこの学校ですらナンバーワンになれない……そんで、来年の全国で優勝しない限り、俺は本当のナンバーワンにはなれない。だけどただ弱いアンタらを倒したって意味はない。強いアンタたちじゃないと、俺はアンタたちを超える意味がない」
 不意に目を閉じる。言葉に変えていくたびに、少しずつ胸くそ悪い感覚が薄れていくような気がした。
「…俺たちがお前にあっさり負けてしまうほど弱かった…というのは、たとえ夢であろうと腑に落ちんが…」
 静かに、副部長が言葉を発する。目を閉じたままその声を聞いていると、フッ、と柳先輩の笑った声が聞こえた。それに反応して俺も目を開けた。
「赤也の決意は生半可なものではないようだな」
「ふふっ。これだから赤也には期待しちゃうんだよな」
 続けて幸村部長が笑みをこぼした。俺にはその意味がよくわからなくて「え?」と声を上げてその顔を見つめることしかできない。しかし幸村部長と柳先輩が顔を見合わせて静かに笑った。副部長も二人の言わんとしていることがわかっているのか、二人をチラリと見遣る程度に留めた。
「……さて、俺はそろそろ部活に戻るよ。柳、赤也を頼んでもいいかな」
「ああ、大丈夫だ。弦一郎も戻ったらどうだ」
「うむ…破天荒な赤也だが、その勢いを1年にも教えてやるべきだな。俺が直接指導してやろう」
 幸村部長が「今日はもう帰っていいよ」と言ってから、両手を腰に当てたポーズで「真田が厳しくするから1年がついてこないんだよ?」と視線を渡すと「何を言うか!指導とは厳しさあってのものだろう!」と副部長が騒ぎ始めたものの、幸村部長は軽く流しながら二人して去って行ってしまった。相変わらずそこに座っている柳先輩が、またフッと笑みをこぼした。
「あ、あの…柳先輩。先輩たちの言ってる意味が、俺よくわかんなかったんスけど」
「…ああ、あまり気にする必要はない。親の心子知らず、そして子の心は親も確信には至らない、そういうことだ」
「…余計わかんないッスよ」
「気にするな」
 わけのわからない柳先輩の言葉に、なんとなく拗ねてしまった俺はもう一度目を閉じた。忙しなく動いていた鼓動は、やっと正常に戻りつつある。さっきからずっと感じてた胸くそ悪い気持ちが、水蒸気として空気に放たれるように消えていく。あれほど嫌気を感じていた心は、いつも通りの生意気な俺に戻って。結局先輩たちが原因の胸くそ悪さは、先輩たちでないと解決できないんだろうなぁ、とか思った。静かに、ゆっくりと空気を吸い込むと、保健室らしい匂いが肺に取り込まれる。

 俺では全然歯が立たない先輩たち。俺が三人を超えるには、俺がもっと強くならないといけない。先輩たちが引退したら、この立海を率いるのは俺。最初は、先輩たちが引退しちゃえば必然的に俺がナンバーワンじゃん、なんて考えたこともあった。でも違う。この人たちを倒さなきゃ、俺はナンバーワンにはなれない。この人たちがいるうちに超えないと、意味がない。むしろ、この人たちを超えること自体に意味があるとすら思う。だから、夢に見たような弱い先輩たちじゃ意味がないんだ。俺の知ってる柳先輩はもっとしなやかで、俺の打つ打球の先にいつも構えてる。俺の知ってる真田副部長はもっと力強くて、真っ向から立ち向かってくる。俺の知ってる幸村部長は、もっと素早く無駄の少ない動きですべての打球を捉えて返球してくる。そんな最強な先輩たちを、俺は倒したい。
 そしてきっと俺はその先を想像する時、満足しないんだろうなと予測する。三人を倒して終わりじゃない。今年、準優勝に終わったことで立海はナンバーワンじゃなくなった。だから、また王者としての地位を奪還しなければならない。そうした時、やっと俺の願いは叶う。ナンバーワンの学校で、ナンバーワンになる。ずっと前からの野望だった。
 俺は絶対強くなる。強くなって、先輩たちを倒すんだ。だから、先輩たちにはいつまでも強いままでいてほしい。そうじゃねぇと、俺が倒す意味がなくなるからな。ザコには興味ねぇ。今、新人戦で当たった日吉とかいうやつの気持ちがわかる。下剋上だ。これしかない。

「もう少しだけ寝てから帰るか?」
 ぽつりと言った柳先輩の声に返事を返すこともしないまま、俺は目を閉じた赤い闇に身を預けた。





























***

三人は赤也に自分たちを超えて欲しい気持ちがありつつ、しかしそう簡単には超えてもらいたくないっていう気持ちがあるのではないかと。そして赤也も、この三人を超えたいけど、あっさりと超えてしまうのは嫌だと、あくまでも最強の三人でなければ超える意味がないと感じている。そういうある種での相互関係が成り立ってるんじゃないでしょうか……っていうのは、ここで解説しないと伝わらないんですよね(笑)
文章力を磨くにはどうしたらいいんでしょうかね…



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