真っ白な毛布に埋もれるようにして、ただ静かに呼吸していた。真夜中の一人部屋にすら、その音は少しも聞こえなくて。目を閉じればまるで自分が自分ではないように、闇夜に溶けて消えてしまうような気さえする。いっそのこと、このままふわりと消えてしまいたい。一瞬そう考えた自分を振り払うために、更に毛布に埋もれるように身を縮めた。
『テニスなんてもう無理だろうなぁ…』
 医師と看護師の会話。難病に似た病気だと診断結果を聞かされたときには、一言も言われなかったこと。身体が動かなくなる病、なにもかもが不明確なものだと言われ、治るのかどうなのか、治るとしてもどれくらい時間がかかるのか。そういった時系列的な話はまったくなかった。あまりにも先の見えない状況。その中で、俺に面と向かってではなく、あくまでも医師と看護師という内輪での会話の中で出てきた『テニスなんてもう無理だろう』という一文。その時俺は直前まで寝ていて、二人が部屋に入ってきたことにすぐに気がつかなかった。慣れないベッドのせいか、寝つきも悪ければ目覚めも悪く、意識が薄く覚醒してきたところで二人の存在に気がついたんだ。そして悪夢のような、聞きたくもなかったその一文が、医師の口からこぼれたのを聞いてしまった。
 ハッとした。思わず目を開いた。意識なんて即覚醒して、点滴や器具の付け替えを終えた二人が部屋を去って行く背中を見た。そのドアが音もなく閉まって、また俺ひとり取り残されても尚動けずに、ただ横になったまま目だけを見開いて薄く呼吸していた。消毒された空気がいやいやしく香っていたのを、忘れたいくせに今でも覚えている。

 テニスが出来ない。そんなこと考えたこともなかった。幼い頃からテニスを続けてきて、俺は自分のテニスについて自信だってある。中学に入ってすぐレギュラー入りもして、今では部長だって務めている。俺は自分でも、強いと思っている。でも強くなるからには、それなりの努力がある。しかし『それなりの努力』と言うには、あまりにも時間をかけている。俺には、もうずっとテニスしかなかった。
 園芸や美術が趣味でもあった。だけど、そんなものはただの趣味でしかない。花を植えることもある、世話だってする、絵だって描けば美術展にだって行く。けれど、あくまでも下手の横好きに過ぎない。
 俺からテニスを取ったら、何も残らないじゃないか。

 遠く、窓の向こうから、かすかに雨の音が聞こえてくる。昼間ならば通りに車が行き来する音が聞こえてくるが、真夜中の病院はひどく寒さすら感じた。暖房も入れてもらってるし、一人部屋だから他人に気を遣って疲れることもない。心細さは感じなかったけど、ただ、もしかしたらこの世に俺ひとりだけなんじゃないだろうかなんて、バカみたいなことを考えたりしてしまうことがあった。
 顔を埋めた布団の中、思わず眉間に皺が寄る。ぐっと握り締めた手の平に、短い爪が刺さっている感覚に気がついて薄く目を開けた。ぼんやりと黒くかすむ視界には、何も見ることはできない。遠い雨の音は止む気配を見せなくて、まるで俺の心の中にまで浸水してくるようだ。じわりと、冷たく広がっていく。
「テニスなんて…か」
 ほとんど空気が抜けるだけのような、掠れた声が喉から這い出てきた。口にした瞬間、心臓に薄く膜が張るように、もぞもぞとまとわりつくような心地の悪さを感じた。テニスが、できない。俺が一番得意にしていたこと、それが、できなくなる。俺の不注意でもない、誰かの仕業でもない、ただ、わけのわからない病気によって。やり場のない怒りにも似ていて、でもそれほど放射的に爆発するものでもなく。ただ、喉の奥、脊髄から突き上げてくるような激情。もう、思い出したくもない。ラケットも、ボールも、ネットも。テニスという単語すら、見たくない聞きたくもない。でもどうしてだ、思い出すのはすべてコートの上のこと。俺にはもっとたくさんの思い出があったはずだ。例えば、小学生の頃、学校を代表して美術展に絵を飾ってもらえたこと。丹精込めて育てた花を、道行く人に褒めてもらったこと。それだけじゃない。家族と過ごした誕生日とか、友達と魚釣りに出かけたり、お爺さんの家で木彫りを教えてもらったり…。これまでの人生、すべての時間をテニスに捧げているわけじゃない。もっと、色んな思い出がある。でも、目を閉じてまず浮かんでくるのは、去年の大会で優勝した時に、先輩たちが俺たちにトロフィーや賞状を持たせてくれたこと。そして今の、レギュラーのみんなの顔。別に同じ部活だっていうだけで、普段はそこまで交流があるわけじゃない。でも、みんな大切な仲間なんだ。

 今の俺は、なんて女々しいんだろう。本当はわかってる。止まない雨はない。今、降り続いている雨だっていつかは止む。濡れた地面はいつか乾く。太陽と月が交互に姿を現すように、きっと何事も不定期に再生と消失を繰り返している。それが自然の摂理、決められた事象。
 だけど俺はこの病を運命だとか宿命だとは思っていない。今は何もわかっていない。また発作が起こるかもしれないし、良い方向へ向かうかもしれないし、発症直後よりも悪化する可能性だって否定できない。でも俺はこのままで終わらせるつもりはない。このまま、未練を残したまま、様々なものをやりきっていないままというのは、絶対に嫌だ。俺にはまだやるべきことが山ほどある。全国3連覇、成し遂げないといけない。これまで積み上げてきたものを、ここで俺抜きでやるわけにはいかないんだ。
 掲げる希望と、それよりも遥かに大きな不安。影に消されそうな希望の光を揺らす、俺の心。わかってる。聞こえてる。このままでは終わらせない決意と、それを揺るがす現実。まるで太陽と月がせめぎあう光景のようだ。

 俺は決して後ろ向きではない。後ろ向きではないけれど、前を向くために、少しだけ後ろを向いてもいいだろうか。この気持ちが治まったら、前を向くように努力するから。また希望へと向かって、視線をそらさないから。だから、今だけは。今だけは後ろを向くのを許してほしい。不安に押しつぶされてしまいそうなこの心を、ただじっと鎮めることに集中させてほしい。テニスなんて、もう出来ないかもしれない。希望なんて、ないのかもしれない。高く飛び立つために、一度深く沈みこむように。今はただ、雨の降る真夜中の静寂に、飲まれていたいんだ。


























***

不安な気持ちを文章にしてみたかったんですが…。
明日からまた笑うから、今日だけは泣かせて。っていう感じで。うーん、難しい。



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