うわっ、空気わるっ。
 部室の扉を開けた途端にそう思った。部室内には仁王先輩がひとり、ロッカーから離れたところに置いてある椅子に座って、目の前の机に肘をついて頭をうなだれていた。その背中がなんとも不機嫌そうなオーラをむんむんと孕んでいて、こりゃ話しかけても返事くれないパターンだなと思いつつも、とりあえず「ちース」と挨拶だけしてみる。
「………」
 やっぱり返事はなく、ピクリとも動かない背中は尚も不機嫌そうに丸まっている。普段から飄々としている仁王先輩が不機嫌になるといえば、真田副部長に殴られたか、もしくはペテンを盛大に失敗したか、柳生先輩にグチグチと風紀に関する注意を受けたか…たぶんそのあたりだろうと思いながら、ここは関わらないほうが吉だぜ!と思ってひとまずロッカーと向き合って着替えを始める。ドサドサとバッグや荷物をテキトーにロッカーに放り込んでからワイシャツを脱ぎにかかる。じわりと汗をかいていることもあって少し脱ぎづらい。
 そうしてもたもたしていると、ガチャっと音がして誰かが部室に入ってきた。顔だけで振り返ってみればそこには柳生先輩がいて、先ほどと同じように「ちース」と声をかけると「おや切原くん。今日はお早いですね」といつも通りの微笑み面を見せた。それからチラリと仁王先輩に視線を向けると、そのまま声もかけずに通過してロッカーの前に立った。あれ、声かけねーんだ。やっぱ柳生先輩にグチグチ言われて機嫌悪くなってんのかな。そう思いながら、脱いだワイシャツをハンガーにもかけずにズボッとロッカーの中、バッグの上に放り投げる。ユニフォームを手に取ると、視界の横のほうで柳生先輩が同じく着替えるためにユニフォームを手に取ったのが見えた。
「………仁王くん」
 そして不意に、柳生先輩が手を止めて仁王先輩に声をかける。俺も横目で二人のやりとりを伺うと、柳生先輩の声にも仁王先輩は反応しない。俺が部室に入ってきたときと全く変わらない姿勢で、寝ているのかと思わせるような姿勢。しかしこの不機嫌なオーラのおかげで、寝ているわけではないことは俺にでもわかる。しかし返事を返さない仁王先輩に対し、柳生先輩は二度も呼びかけるようなこともせずにじっと眼鏡越しに視線を投げかけ続ける。
「………、」
 何秒かの後、その視線に気づいていたらしい仁王先輩が渋々といった様子で面倒くさそうに頭をあげて顔だけで振り返った。うわ、めっちゃ目ぇ死んでる。
「いつまでそうしているつもりですか」
 やっと顔をあげた仁王先輩のその目つきともども表情を見て、柳生先輩が小さく溜息をついてから呆れた声を出すと、仁王先輩が一瞬だけ眉間に皺を寄せて「うぜぇ」という顔をした。いつも思うが、仁王先輩は飄々としている代わりに、相手を挑発するつもりなのかニヤニヤしていたりすることが多い。だから視線や雰囲気で訴えるのではなく、こうやってあからさまに表情に出すことって正直あんまりない気がする。特に今みたいな顔。真田副部長に制裁くらう時だって、納得いかないっていう顔はしてるけど、説教が長くてウザイ時なんかは視線を遠くに投げて現実逃避してることが多い。そりゃもちろん、かえって「聞いているのか!」って更に怒られてるけど。でも、やっぱりこうして素顔をさらけ出せる相手が柳生先輩っていうのも、納得できるような、できないような…。よくよく考えたら不思議なんだよな、このペア。見た目もプレイも正反対のくせに、ダブルス組むと息ピッタリだし。まぁその分、部活以外でも練習とかしたんだろうから、信頼関係みたいなもんが出来てるってことかもしんねーけど。そう考えると、仁王先輩もすげーけど、柳生先輩ってすげーんだろうなって思う。
「………」
 柳生先輩に見せたであろうその「うぜぇ」っていう顔も、あっという間にまた同じ姿勢に戻って見えなくなる。その様子を着替える手を止めて見ていると、不意に柳生先輩と目が合って、柳生先輩は眉をあげてから首をちょっと傾げてみせた。ついでに肩を竦めて見せたところ、俺的に言えば「ダメだこりゃ」って感じのポーズだ。なんつーかなぁ…柳生先輩も、たまにこういう紳士とか模範生っぽくない、おどけた仕草をすることがあるんだよなぁ。仁王先輩に感化されちまったのかな。まぁガッチガチで冗談が通じない(=真田副部長)よりは全然いいけど。
 それからまた前に向き直って、着替えてる途中で腕を通した状態だったユニフォームに頭を通す。それからピッと裾を引っ張って、手早く制服のズボンを脱ぐ。それもロッカーに放り投げてから、ハーフパンツに足を通した。腰履きするためにウエストよりも下へハーフパンツを下げて位置を合わせているところで、また誰かが部室に入ってきた。
「うわぁ…お前まだバテてんのかよ」
 入ってきた途端、俺らよりも先に仁王先輩に目が行ったらしく、丸井先輩が苦い顔をしてズカズカと仁王先輩に近づいて行く。
「ちース、丸井先輩」
「おー、赤也に柳生。なぁ、こいついつからこの姿勢なわけ?」
 相変わらず膨らましたガムをそのままに喋る丸井先輩。右手で指を指す先には、やっぱりさっきと同じ姿勢の仁王先輩。俺が柳生先輩より先に来ましたけど、俺が来た時からそんな感じっスよ。そう伝えると、丸井先輩が「へぇ〜」と言ってバッグも肩にかけたままの状態で仁王先輩の尻尾のような毛束を掴んだ。
「おい、夏はまだまだこれからだぜぃ。このくらいでへばってちゃ、テニス部の名が廃るだろぃ」
 丸井先輩がその毛束を軽く2回ほど引っ張ってみれば、俯いた顔のほうから「やめれ」とくぐもった声が聞こえた。しかし、それよりも丸井先輩の言葉。夏?夏がどうしたんだよ。なんでこの状況で季節のことが出てくるのかがわからない俺。それと同時に、さっきまでの不機嫌な空気がいつの間にか溶けて別の空気に変わってることに気がついた。なんていうか…諦めモード的な空気だコレ。
「丸井先輩、夏がどうかしたんスか?え?」
 率直に聞いてみると、髪を引っ張るのをやめた丸井先輩が俺を振り返る。それからやる気のなさそーな目つきで俺を見据えると、「仁王の苦手なものはなーんだ」とクイズを出してきた。あ?仁王先輩の苦手なもの?えっと…よく屋上でサボる割には日差しが苦手なんだっけ。
「………え、暑さとか」
「ぽんぴーん。もうこいつさぁ、今日のこの暑さでバテてんの。6時間目に3Aと合同体育だったんだけどよ、もうこいつあちーだのだりーだのうるさくてよ〜」
 仁王先輩を指さしてケラケラ笑う丸井先輩の言葉に、そんな理由で不機嫌になってたら夏は大変じゃねーかと思った瞬間、仁王先輩がガバッと頭をあげた突然体ごと振り返った。
「俺は別に暑さにイラついたわけじゃないぜよ。そもそも今日という一日が不運の連続じゃったきに」
 その顔はもういつもの仁王先輩の表情だったものの、視界の端で着替え終わった柳生先輩が少し困ったような顔で仁王先輩を見ていた。
「朝から真田に捕まってズボンにシャツをインさせられて、パワーリストの鉛を増やされて、国語のハゲを騙そうかと思うとったのに見事に裏をかかれるし、おまけに昼休みは女子に殴られ、その帰り際に柳生に捕まって延々と説教…かと思えばこの暑さの中で炎天下の下、元気にサッカーじゃと?ふざけるのも大概にしんしゃい」
 ひとしきりベラベラと話した仁王先輩は息を乱すこともなくじっと俺を見つめてきた。不機嫌の要素でもあった柳生先輩と、暑さにバテたのを笑う丸井先輩、あとは同意してくれそうな人間といえば俺しかいない。味方につけようとしているのはなんとなくわかる。でもコレ、なんていうか残念すぎてかける言葉がない。ついでに言うと、いろいろ聞きたいところが多くて言葉がまとまらない。
「え、ていうかなんで昼休みに女子に殴られたんスか?」
 ひとまず一番聞きたかったことが勝手に口から出ていた。
「そりゃお前さん、濡れ衣を着せられて、こっちの言い分も聞かんといきなり平手打ちじゃ」
「いやいや、だからどういう濡れ衣を…」
「それはシークレットにしとくかのう。もっと想像力をつけんといかんな、赤也」
 あ、逃げたな、と思ったけど、不意に柳生先輩がふっと笑った気がしてそちらを向く。
「…それはそれは。あれは殴られた直後だったんですね。色々とお節介な話をしてしまいましたね」
 顔もいつも通り、声もいつも通り。言葉は申し訳なさそうなものを選んであるけど、まったく申し訳なく思っていなさそうな柳生先輩。その顔を見た仁王先輩が「まったくぜよ」とわざと拗ねたような表情をして見せた。
「頬を抑える俺に、虫歯ですか?まったくアナタは生活が乱れているからそんなことになるんです、甘いものをあまり食べないから、ちゃんと歯を磨いているからなどと言っていても、生活習慣が乱れているようでは話になりませんからね……、それから20分ほど続いたぜよ」
 思い出して遠い目をする仁王先輩がおかしくて、思わず吹き出すと、「笑うもんじゃないぜよ」とジロリと見られた。
「…っくく、お前ほんっと今日は散々だな!」
 今まで話を黙って聞いていたかと思っていたら、笑いをこらえるために黙っていただけらしかった。吹き出すのを耐えながら丸井先輩が仁王先輩に視線を向けると、お前の前でする話じゃなかった…と小さく言ってまた机に突っ伏した。

「……散々なところで悪いのだが」

「うわっ!柳先輩!」
「ちょ、いつの間に部室に入ったんだよ!」
 突然、柳先輩の声がして驚いて振り返ると、すっかりユニフォームに着替え終わった柳先輩がすらりと立っていた。本当にいつの間に入ってきて、あまつさえ着替えてたんだろう。
「丸井。早く着替えないとそろそろ弦一郎が来るぞ。制服姿のままでいれば早く着替えんかと怒鳴られる確率は10%だ」
「…えらく確率が低いのはなんでじゃ?」
「それよりも、ここでいつまでも談話しているところを見つかると、さっさと部室を出て自主練をしていろと怒鳴られる確率のほうが高い」
 そう言いながら、口元をニヤリと笑わせて柳先輩が部室を出ていく。それを見ていた柳生先輩が「真田くんの怒鳴り声は頭に響きますので、私もそろそろ行きます」と言って部室を出て行った。その背中を見送りもせずに、仁王先輩が椅子から立ち上がってロッカーへ向かう。同じように俺も焦ってロッカーを振り返る。さっさとラケットを掴んで部室の外に出なければ、ということで頭がいっぱいだった。
「やべぇやべぇやべぇ!」
 しかし俺らよりも、まったく着替えていない丸井先輩が焦りすぎてもたついている。それを横目に見ながら、正直このまま焦る丸井先輩の行く末を見て爆笑したかったが、俺まで巻き添えを食らうのはごめんだと、いつものラケットを掴んで扉へ向かう。すると、掴んだはずの取っ手が軽く回り、あれ?と思った瞬間、その扉が開く。ちょ、俺、ノブ掴んでね……、
「…ほう。先生に呼ばれて少し時間を食った俺と鉢合わせるとは、お前たちはずいぶん悠長に支度をするんだな」
 真正面を向いたままの俺の視線の先には、ちょうど口元があって。ゆっくりと見上げてみれば、もちろんそこには鋭い目つきで丸井先輩を、その横でまさにラケットを掴んだ状態でフリーズしている仁王先輩を、そして最後に俺を、ジロリと見下ろす副部長のおっかない顔があった。
「さ、真田副部長……」
 うげ、と声にすると余計怒られると思ったので、ひとまず「へ、へへ、」と誤魔化すように笑ってみると「いい度胸だな赤也」と更に逆効果を与えてしまった。
「さ、真田、これには深〜いワケってやつが……」
「そうぜよ、ついでに言うなら俺はむしろ巻き込まれた側で…」
「な、なに言ってんだよ!もともとお前がここで…!」
「バカ、丸井言いなさんな!墓穴どころじゃなくなるぜよ!」
 真田副部長に出口を塞がれた俺は、後ろで騒ぐ先輩たちの様子に更に悪いオーラを増してくる副部長の眉間にどんどん皺が増えていくのを見た。そして副部長が小さく息を吸う。次の瞬間、その口が大きく開くのを確認した途端、俺はギュッと目を瞑った。

 ちなみに、部活開始から30分ほど遅れて来たジャッカル先輩は、先生に教材運びの手伝いを頼まれていたらしく、しかも事前に柳先輩へ伝言済みだったために難を逃れていた。いつもなら俺らと一緒に怒られるくせに…と真横にいた丸井先輩が言った声が遠くに聞こえるほど、副部長の怒鳴り声は俺の耳に堪えていた。この感覚も、慣れたもんだけどな……。





























***

強制終了。笑
途中で柳生が空気になってしまったことを後悔している。


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