部活が終わっても制服に着替えず、ユニフォーム姿のまま誰もいないコートに戻ってきていた。ふらふらしているわけじゃない。俺の足はちゃんと地面を踏んでいる。でもどこか地面の感触はいつもと違っていて、まるで地面と俺の靴底の間にスポンジでも挟んでいるように奇妙な足取りだった。一歩ずつ確かに踏み出すのに、地面を踏みしめているのに、確かな感触が鈍く感じられて。右手に持ったままのラケット。だらりと下ろした腕にぶらさがるそれ。ヘッド部分が地面につきそうだ。
「………」
 耳を澄ます。すると誰かの足音がかすかに聞こえて、遠くの場所で立ち止まる。そちらを見れば、薄暗い影の中に人影が黒く浮かび上がっていた。俺がその足音に気づいたくらいなんだから、きっと向こうの相手はとっくの昔に俺の存在に気づいているはずだ。その見覚えのあるシルエット。いつもなら、その姿を認識すると同時に逃げ出すことだってあった。でも今は、その帽子をかぶっているお馴染みの姿が、ひどく切なささえ感じさせた。
 弱く、冷たい風が俺の腕に当たる。寒い。
『真田よ…残念ながら俺には通用せん』
 不意に俺の耳に、仁王先輩の声がよみがえる。思い出したくもないような台詞だ。その言葉を聞いたと同時に、俺の心にも何かが突き刺さったようだった。思い出すと、えぐられるようにして痛む胸が苦しい。思わず左手で、ユニフォームの黒いラインの中央を掴んだ。こぶしを握り締める音が、かすかにした。
『…俺は誰にだってなれる。誰にだってなれるということは、誰にだって対応できる』
 くるりと振り返って、左手首をこまねくようにラケットヘッドを副部長に向けた仁王先輩。その姿はただのペテン師そのもので、いつも俺をからかって遊んでる仁王先輩でも、柳生先輩になりきって遊んでる仁王先輩でもなかった。その表情は、俺も見たことがないような顔で。黒い闇から這い上がってきた無表情の目が、鋭く光を反射しているような印象だった。冷たくて、感情が感じられなくて、でもどこか圧倒的な雰囲気を持っていて。一瞬にしてそのコートが凍りついたかのように思えた。幸村部長が押し黙ったことで、更に暗雲強くなった瞬間、俺は心臓の底が冷えるような感覚がしたのを覚えている。
『なんならもう一度試してみんしゃい。風林火陰山雷、すべて完璧に返しちゃるき』
 にやり、と口元を笑わせた仁王先輩の目は、試合中の幸村部長の目と似ていた。暗闇を含んだ、相手を地獄へと突き落とす目つき。俺は、震えだした手を握り締めてただ見ていることしかできなかった。
 薄暗い影の中、シルエットが動き出す。右手に持っているのはラケット。側まで引っ張ってきたカゴからボールを掴むと、壁打ちを始めた。簡単なサーブから、徐々に力を込めて段階的に威力を増していくそれは、シルエットの動き方と、響く壁の音から判断できる。次第に強くなる、壁にボールがぶつかる音。豪速で返ってくるその球を、副部長は取りこぼすことなくすべて打ち返す。きっとその打球を、今日の練習試合の時と重ねて見ているに違いない。だってそうだ、あの構えは…。
「疾きこと、風の如し…」
 俺の口から、ぽつりとこぼれた。その声はとてつもなく小さくて、夜の冷えた空気に打ち消されるようにして消えていった。

 そう、あの打球。あの『風』の打球を、打ち合いの中で仁王先輩は難なく返したのだ。もともと疾い『風』に追いつくんだから、俺には一瞬の出来事すぎて何が起こったのかが正直わからなかった。しかしその返ってきた打球を拾った副部長を嘲笑うかのように、仁王先輩はロブにして高く打ちあげた。『風』はネット際ではなく、サービスラインに近いところで発動されることが多いから、副部長にとっては動かざるとも絶好のチャンスボールとなるはずだった。そして真っ向勝負を信条としている副部長は、そのチャンスが相手からのよからぬプレゼントであろうことをわかっていても、迷うことなく『火』を打った。俺が攻めても攻めても捻じ伏せられた『火』の打球。恐ろしいほどのパワーのそのグランドスマッシュ。誰もがラケットを弾かれた鋭い『火』の、その着地点の少し後方まで、まるで予測していたかのように下がっていた仁王先輩は、明らかにバウンド際を狙っていた。でもバウンドしたところで威力があまり低下しない打球であることくらい、仁王先輩だって嫌というほどわかっているはずだと思っていた。
『ちょろいなり』
 小さく声が聞こえた瞬間、仁王先輩はライジングで打球をまた高く打ち上げた。あれは、いつだか柳先輩が言ってた…青学の不二の弟がやってたスーパーライジング。跳ね際のボールをいなして、威力を上方向に開放させることで無効化してしまったのだ。同時に横で柳生先輩が『うまくいなしたからと言って、あれだけの威力ではネットを越えないのでは』と言ったのが聞こえたけど、そのボールはちょうどネットのほうに向かって下降してきた。あれは越えない打球だと思ったが、その次に見えた光景に目を剥いた。
『あれは…!』
 それまでしゃがんで見ていた丸井先輩が立ち上がる。その目線はもちろんその打球だったが、その打球がある場所はネットの上だった。ポス、と小さく音を立ててそこに乗ったボールは、ころころとネットの上を渡って、やがて静かに副部長側のコートに落ちたのだ。
『………』
 誰もが声を失った。あれだけの威力の『火』をいなした挙句の『綱渡り』。『風』からのロブでの『火』を放った副部長はサービスライン上に立っていて、咄嗟に『雷』を使うことも思いつかないまま、その場所で足を止めていた。帽子の影で目が隠れていたが、口を真一文字に結んでいるのが見えて俺は違和感を覚えた。いつもならば自信から上目線で他人を見がちな副部長のこと、ちょっと得意技を返されたからといってそうそう黙る人ではない。むしろここで声をあげて笑った挙句に「俺を攻略したつもりか?微温いわ!」と怒鳴り飛ばしてもおかしくはないはずだった。しかしその時俺から見えた副部長は、ただ口を結んでじっと構えていた。

「……風林火陰山雷…全部、返されちまった……」
 壁にボールがぶつかる音が、轟音と化していた。激しいほどの壁打ちに、俺はただ立ち尽くして見ていることしかできなかった。今思い返せば、きっと最初に『風』と『火』を返された時点で副部長は覚悟していたのかもしれない。何かを感じ取っていたのは間違いない。ただ探るように、そして仁王先輩にうまく誘導されるままにすべての技を使った。そしてそのすべての技は、見事に、完璧なまでに返球されてしまったのだ。
「風は超スピードで返球、林はパワーボールで打ち破り、火はスーパーライジングでいなして、陰は陰返し、山はペテンとスピードボール、雷には蜉蝣包み…」
 もともとすべての技が高度なもの。それを打ち破るほどのテクニックが、仁王先輩の中にあったなんて。しかも返球するときにオマケがついていたことが余裕を感じさせていた。あの『火』をいなした時に『綱渡り』を見せたように。
 目を閉じると、思い出す技の数々。副部長の技はすべて見たことがあったけど、仁王先輩の動きは本当に予測がつかなかった。超人的な身体能力を今まで隠していたのか、どこまでもボールを拾っては返球しまくっていた。幸村部長が『まるで無我の境地だ…』とつぶやいたけど、あれは無我の境地ではなかった。すべて"素"でやっていた。口元は始終楽しそうに笑っていて、俺には悪魔のように見えた。
「……副部長、」
 呼びかけようと思って呼んだわけではなかった。ただひたすらに壁を壊さんほどにボールを打ち続ける副部長が、汗にまみれた顔を手の甲で拭ったのが見えた。薄暗がりの中で、一瞬だけ副部長の目がどこかの光を反射してギラリと光った。俺には副部長が何を考えているのかなんて、想像もつかない。ただ、部活終了の時間がきて、ハッキリとした決着もつかずに終わった試合。その後から、副部長は押し黙ったままだった。悲しんでいるわけでも、憤慨しているわけでもない。ただ何かを決断したような、ひとつの物事だけを考えている顔をしていた。俺もろくに声をかけられずにいたが、仁王先輩はいつものように飄々とした様子で俺に近付いてきて、ただニヤニヤしながら俺の頭を撫でてから部室を去って行った。
 目を開ける。そこには、相変わらず壁にボールを打ち込み続ける黒いシルエットがあった。繰り返される轟音を、うるさいと感じることはなかった。ただただ、その音が俺の胸に染み付いていく。胸元で握ったままの拳が、開き方を忘れたようにいつまでもその場所から離せなかった。
「…強くなりてぇ、」
 不意に目頭が熱くなる。なぜ涙が溢れてくるのか、理由はよくわからなかったがただ感情が高ぶって視界が滲んだ。きっと俺はどこか、副部長を絶対のものだと思っていたのかもしれない。幸村部長と、真田副部長と、柳先輩に手も足も出なかったあの時の対戦。どこまでも圧倒的に強くて、いつか超えると心に誓っていたけど。でもそれって、相手の強さを認めていないと、超えたいとは思えないはずだ。きっとどこか、この人たちの強さを認めすぎていたのかもしれない。俺の中で、副部長という絶対が、破られてしまったのだ。それはまるで大事にしていたものを不意に壊されてしまったかのような、そんな感覚とひどく類似している。
 いつもいつも怒られてばかりで、俺は副部長の格下なんだって必然的に思っていた。だからこそ副部長が絶対的であったし、だからこそ超えると意気込んでいた。しかしそれが、仁王先輩という一人の人間に、完全にとは行かずとも、あっさりとやってのけられてしまったのだ。するとどうだろう。なぜだか、俺の心にまでその衝撃は染み込んできて。
 少しずつ、少しずつ溢れてくる涙を拭うと、暗がりの中で動き回る副部長の影が落とす光の粒。それが汗だなんてことはわかっていたけど、どうしても俺には涙が混ざっているように思えた。すると俺の感情は更に高ぶって、ラケットを取り落として両手で顔を覆った。俺のラケットがコートに落ちて、その音に反応してボールを打つのをやめた副部長。打ち返されずに跳ねたままのボールがやがて小さくバウンドしていく音が、ただ静かに夜に吸い込まれていった。



























***

赤也にとって3強は絶対的だけど超えたい存在すぎて、他人に入られると驚いて戸惑ってしまうかもしれない。っていう話。いや本当は真田がテニスしてるとこを書きたかっただけなんだゴメン。←


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