※社会人


 寝ている二人を起こさないようにと、気をつけながら支度をする。また陽が明けかけているこの時間、窓から空を見上げれば遠くが白んできていた。その空のこちら側は、未だずっと深い藍色のまま。視界で確認できるほんの何センチかのうちに、色濃いグラデーションができている。
 水を飲むためにレバーを上げる。取り付けられている浄水器を通った水が出てきて、それを透明のコップに受け止める。半分ほど注いだところでレバーを下げて水を止め、静かにそれを飲み干した。空になったコップをシンクに置くと、コン、とわずかに音を立てた。寝室で寝ている二人にはその音が聞こえるはずもない。
 首にかけたままだったネクタイを締めようと鏡の前に立つと、髪に少し寝癖がついているのが見えた。液体の整髪剤を手に取ってから髪につける。何度か撫で付けてからごまかすように手ぐしでとかすと、どうにかまとまってくれたようだったので手を洗い直してからネクタイを締めにかかった。

「嫌や。みんなでテニスができへんようになるなんて、ワイ嫌や」
 16にもなって相変わらずの金ちゃんが、目に涙を浮かべていた。3年前は150くらいしかなかった身長も、今では俺に追いつかんばかりの勢いで大きくなって、最早目線が近い位置にある。ただのゴンタクレやった金ちゃんも、ほんの少し大人になってきて。ただ嫌や嫌やとだだをこねるだけだった時代が嘘のように、今ではほんの少しやけど現実を正しく理解することを覚えてた。
「嫌やろうけど、仕方ないねん。中学、高校のうちは自由な時間が多い。せやけど働き出したり、大学に行ったりしてしまえば自由な時間は限られてくる。でもな金ちゃん、完全に会えなくなるわけやないんやで?」
「わかってる。わかってるけど。でも寂しいやんか。ワイ、ずっとみんなと一緒にテニスしてたい。ワイな、白石も、謙也も、千歳もユウジも小春も銀も光も、オサムちゃんやってみーんな好きなんや」
「ははは、オサムちゃんは中学ん時の顧問やんか」
「今でもオサムちゃん、近くのパチンコ屋に来るんやもん」
「相変わらずやな」
「うん……」
 まだ冷たい風。日差しは暖かいはずやけど、その日は生憎の曇り空。雨は降りそうにもないけど、太陽が覗くことはなさそうなくらい厚い雲。その雲が、ずっと向こうまで続いてる。いっそのこと、大雨でも降らせてすべて隠してくれたらええのにと、そう思ってしまう自分が嫌になった。
「みーんな、バラバラになってまうんやな」
 金ちゃんが、寂しそうに呟いて視線をそらした。泣きそうな顔。でも泣かないと誓っているのか、涙は流さない。ただひたすら、その右手が拳を作ってわずかに震えていたのが見えていた。

 ネクタイを締め終えて、もう一度髪を気にする。少し触ってみたものの、再びハネてくる様子はなかったので良しとする。リビングへ向かい、壁にかけてある時計を確認する。そしてそのまま再び外へ視線をやれば、もう空はかなり明るくなっていた。夜明けというものは、本当に早い。
 ジャケットのポケット部分を触る。ハンカチ持った。携帯もある。財布は鞄の中に入れた。大丈夫。一通り確認してから、今度は寝室へ向かう。音を立てないように気をつけながらそっとドアを開けて、二人の寝顔を確認する。それから掠れて聞こえないほどの声で「いってくるで」と呟いてから、気を張ったままドアを閉める。
 玄関で靴を履き、靴箱の戸についてる鏡でもう一度おかしなところがないかチェックをする。再度大丈夫であることを確認してから、取っ手に手をかけてドアを開けた。

「嫌や!絶対嫌や!」
「金ちゃん、」
「嫌や!ワイは嫌やで!」
「金ちゃん落ち着きや、静かにせんと駅員さん来るで」
「駅員さんがなんや!駅員でも警察でもなんでも来たらええやんか!」
「金ちゃん!」
 謙也が電車に乗り込むまでにどれくらい時間がかかったやろう。電車が到着してからやから、何分と時間はかかっとらんはずや。せやけどこのゴンタクレが暴れ出すもんやから、それを押さえるんが大変やった。千歳がおったからなんとか押さえつけることが出来たけど、これがもし俺や財前だけやったら難しかったやろうと思う。
「金ちゃん、言うとくけど俺は関西から出るつもりはないで。いつでも会える距離やんか。そない心配せんでもええで」
 電車に乗り込んだ謙也がそう声をかけると、とうとう金ちゃんの目から涙が溢れ出す。
「せやけど謙也…ワイ寂しい…銀さんや小春も府外に出て行くって言うし…みんな違うとこ行くやんか…」
「金ちゃん。金ちゃんももう高校生やからわかるやろ?大人になるっちゅーんは、そういうもんやろ」
 俺が落ち着かせるように顔を覗きこんで言うと、睨みつけることもなくチラリと目を合わせた金ちゃんが俯く。その目には、溢れんばかりの涙が溜まってる。せやけど俺は、その涙を拭ってやることができひん。
「うー…千歳ぇー…」
 後ろから羽交い絞めにするような形で金ちゃんを押さえていた千歳のほうへ、金ちゃんがくるりと振り返って泣きついた。謙也を見れば、謙也も困った顔で笑うてる。でもその笑顔は、金ちゃん同様に寂しさで泣き出しそうな笑顔やった。
「千歳、金ちゃん頼むな」
「ん。ほら、金ちゃん。もう電車出るばい。ちゃんと謙也の方ば向かんね」
「………」
 昔から何故か千歳の言うことを聞く傾向にある金ちゃんが、泣きじゃくった顔のまま再び謙也のほうを向いた。正直、金ちゃんが泣いてるとこなんて見たこともなかった。でも俺らが一人ずつ巣立って行くたびに、本当に悲しそうに金ちゃんは泣いた。
「謙也、」
「なんや?」
「…またな、って。別れの言葉なんかやないで。またすぐ会うんやから」
「…ははは、せやな。さようならーなんて、おかしいもんな」
 電車の扉が閉まります、とアナウンスが流れ、直後に謙也が「またな」と言うた。それを聞いた金ちゃんが、小さく頷いてみせた。ドアが閉まり、ゆっくりと電車が動き出す。金ちゃん自身は何も言わないまま、その電車をただ見つめて、それから俯いて泣いた。

 外の空気は、予想していたよりも冷たくはなかった。ふわりと吹く風が、わずかに空気を揺らしている。今出てきたドアの鍵をかけてから不意にまた空を見上げれば、少し雲が出てきて朝陽が滲んでいた。薄い、膜のような雲。その奥に強い光を隠し持った太陽。柔らかく、その太陽が放つあたたかさを、肌に感じる。
 今でも明確に思い出す、仲間の姿。暑い、暑い、夏の日。俺らはひたすら勝ち進んで、優勝旗を手にするためにただ日差しの下を駆け巡った。自分の使命感を忘れたことはない。部長として、確実に勝つために基本に忠実なテニスをしていたこと。そしてその最中、現れたスーパールーキーによって俺の意識が変わったこと。ただもやもやと、自分の好きなようにプレイしたい気持ちを抑え込んでいただけだった俺が、そのルーキーに…金ちゃんに、思いを託したこと。俺は四天宝寺のために、確実に勝利を勝ち取るためのテニスをやることが使命、せやけど金ちゃんには、ただ自分の好きなように、めいっぱいプレイしてほしい。俺の分までな。なんて。そう、思うようになった。

 社会に出て、大人になって。俺が本当にやりたかったことは何なのか、目標がわからなくなったこともあった。叶えたかった夢、それはとうとう叶えることもできないまま、歳だけを取ってここまできた。なにか、もっと大切なことがあった気はする。でも俺は、今の俺は。きっと今こうしてなにかに囚われることなく生きている自由さを、愛している。ある程度の地位と名誉、生活。不満足なことなど、何もあらへんはずや。
 俺らがあの夏に憬れた夢は、誰が手にしたんやろう。俺らが叶えることができなかったということは、必ず誰かが手にしているということでもある。毎年、誰かが思いをはせて、誰かが涙を流す。結果がすべてや、そう思うけど。でも結果を追い求めていった末に、たくさんの思い出が出来てしもうてて。流しそうめんやのなんやのって、いつ思い出してもけったいな日常やった。毎朝校門でアホみたいにコケては笑うてもろうて。みんなボケてばっかりで練習にならん日やって何度もあった。ああでも、楽しかったなと思う。あの日々を、仲間を、日常を、今の生活に負けへんくらい、俺は愛していたんやなと思う。

 最後に金ちゃんに会うたのはいつやったやろ。もう、覚えてないほど会うてへん。今しがたドアを閉めた鍵を鞄に入れる左手。包帯をしなくなったのも、いつ頃からやったか覚えてへん。今はもう、ずっと守っていくべき大切な人がいて、今日も俺の帰りを待ってくれる。ここが今の、俺の正しく帰る場所や。
「けどな、あの時の気持ちは本物やってん」
 あの日、金ちゃんが寂しそうな顔をした。震える右手が、力を込めすぎて白くなってた。金ちゃんはたぶん、気づいてへんかったと思う。あの時、俺の拳も震えてたこと。幸せすぎた日常が、終わりを告げるという現実を、受け入れきれずにいたこと。

 一度目を閉じてから、現実に還るように目を開く。右足から歩き出せば、空は薄く膜の張るような雲から太陽が覗いて。まるであの時の曇り空とは正反対だと見せ付けるように、俺を、街を照らした。

























***

社会人になって、包帯をしなくなった白石。というテーマで書きはじめましたが…。イメージソングはSMAPの「夏日憂歌」で。妻子あり設定です。
触れませんでしたが一応、銀さん、小春は大阪を出て就職、謙也は府内ですが遠くの大学、ユウジは専門学校、千歳はとりあえず近くの大学、白石は就職。のつもりで。すっきりしない終わり方になってしまった。反省。


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