キィ…と、静かに戸の開けられる音がした。着替える手を休めることなく横目で見ると、色素の薄い髪が覗いて、部長が入ってきた。なにか真剣な顔つきで、そのままスタスタと歩いて自分のロッカーの前を通過。そして奥に置いてある机と椅子のところまで行くと、肩にかけてあるテニスバッグも置かないまま倒れるように椅子に座り、そのまま腕を机に乗せて突っ伏した。
「ああああぁぁぁぁぁぁ……」
 そして長い声付きの溜め息。やかましいっすわ、の意味を込めて思いっきり睨みつけるも、部長は机に顔をつけたまま動かない。そうしていると、静かに少しずつ傾いていたテニスバッグが、やがて肩からずり落ちてドサッと床につく。持ち手が腕に引っかかって引っ張られた状態になったのを嫌がってか、すぐに片腕が下に向けられて、持ち手を振り払うようにした。腕に引っかかっていた持ち手が取れ、とうとうテニスバッグは横倒しになってしまった。しかし振り払ったその腕はもとの位置に戻り、再び机にすがりつくような姿勢になった。なんて情けない姿だろうか。ジメジメした雰囲気が尚更うざさを増している。
「先輩、今日は一段とうざいっすわ」
「うざい言うな」
 ぽつりと呟いた俺の声を拾うあたりはいつもと変わらないのだが。
「なんなんすか、そのまま練習始めたって気が散るだけっすわ」
「……わかっとるわい」
 再びしーんと静まり返る中、俺はいそいそと着替え終わって、あとはリストバンドを腕に装着するだけだった。ひとつを腕に通し、右手でぎゅっと押さえつけながらもう一度ちらりと視線をやってみるものの、先程と少しも変わらない。…部活せぇへんつもりですか?
「おい白石…ってなんやお前、まだへこんでんのか」
 すると突然、戸が開いてケンヤ先輩が現れる。どうやら部長を呼びに来たらしかったが、その部長のうなだれている姿を見て眉を上げた。
「へこむって…そんな簡単なもんとちゃうんやで!」
 そしてケンヤ先輩の声に反応して顔をあげた部長。想像通りだがやはり情けない顔をしていた。
「お、なんねケンヤ。入り口で立っとったら通れんばい」
 するとまた人が増えた。まぁ部活前ですわ、当然のことっすわな。ケンヤ先輩の後ろに千歳先輩が立っているが、頭がひとつ丸々抜け出ている。
「おお、すまん」
「よかよ」
 ひょいとケンヤ先輩が場所を退けると、千歳先輩が入ってくる。自分のロッカーの前まで来ると荷物を置いてから着替え始めた。その様子を、相変わらず情けない顔でじっと見ていた部長の視線に気づいたのか、千歳先輩が部長に「白石もはよ着替えんば部活にならんばい」と声をかけた。
「ああ…せやな。今日も俺は部長として部のために働かなアカン。せや、俺はバイブルやから………バイブル…やから……」
 しかし立ち上がる気力がないのか、ぼんやりとバイブルバイブルと自らの異名を連呼しはじめた。自分の手元の机を見下ろした視線が、瞬きが少なくて目が乾燥しそうだ。
「…財前、なんねアレ?白石どがんしたと?」
「俺も知らんっすわ。ケンヤ先輩、なんなんすかアレ」
 怪訝な様子で白石を横目に見ながら千歳先輩が声を小さくして俺に尋ねてきた。しかし俺も理由は知らないので、いまだに戸の近くに立っているケンヤ先輩に声をかける。まだへこんでんのか、と言っていたということは何か知っているはずだ。あーでも、ケンヤ先輩の今の顔もちょっとおもろい。笑いたいくせに無理矢理口閉じてるからおかしいっすわ。
「…あんな、聞いとけ。白石な……、」
「なにがバイブルやぁぁぁぁぁぁ!!!!」
 今まさにケンヤ先輩が話し始めようとしたところ、突然部長が思いっきり叫びだした。普段あまり取り乱すことがない部長の珍しい姿ではあったが、正直うざいのひとことに尽きる。
「うわっなんや白石!いきなり叫ぶな!鼓膜がビビるっちゅーねん!」
「やかましいでケンヤ!鼓膜だけやなくお前自体がいつでもビビってんのやろ!ヘタレのくせに生意気や!」
「お、落ち着かんね白石」
「やっぱ先輩うざいっすわ」
 なだめる千歳先輩と突き放す俺。ちらっと視線をよこしてから、叫んだ時に立ち上がった身体を再び椅子に預けた。
「はぁぁぁ……すまんケンヤ、八つ当たりしてもうた」
 前髪をくしゃりと乱すような仕草をして、そのまま机に肘をついた。悩ましげなポーズが妙にハマってて気色悪い。
「ええわ、別に…。それでな、今日なんで白石がこんなにへこんでんのかって言うとやな…こいつ、怒られてんねんで」
「怒られはったんですか先輩。誰に?」
 今にも笑い出しそうなケンヤ先輩。いったい誰に怒られてこんなにへこんでいるのか…。普段もやれ完璧だの、やれバイブルだの言われている部長が怒られたなんて話は聞いたことがない。冗談がつまらんっていうのは色んなところで小耳に挟むが。とりあえずテニスだけやなく日常から完璧にこだわっとるんやとばかり思っていた。しかしそんな部長が怒られる?誰に?そんな威力を持つ人間なんて……。
「…彼女さん、か?」
 今まさに俺が行き着いた答えを千歳先輩が口にした。そう、最近付き合いだしたという部長の彼女。だいたい無駄を嫌う部長が、この大事な時に彼女という無駄の塊みたいなものを作ること自体、頭がおかしくなったんやろかと疑っていたところだった。
「それがな、ちゃうねん。彼女の友達に怒られてんねん」
 しかしケンヤ先輩の言葉に、俺と千歳先輩はハテナマークを浮かべる。
「彼女の友達ですか?」
「なんて言うて怒られたと?」
「それがな…"あんた付き合い始めて2ヶ月でまだ手も繋いでないやて!?笑わすな!あの子は手ぇ繋いでくれんのを待ってるんやで!このヘタレが!"って」
 ケンヤ先輩の女子のモノマネ風な言い方が妙に苛立たしく感じたが、とりあえず内容に唖然とする。千歳先輩も若干ぽかーんとしてしまっているのは空気でわかる。
「あああぁぁ、恋愛にバイブルなんてものは存在せぇへんのや…」
 するとそれを黙って聞いていた部長がまた深く溜め息をつく。この男、どうしようもないダメ男やったわ。こんなんでよく部長やってられるわ。
「…ぷっ、」
「こら千歳ぇ!笑うなや!俺はあくまでも真剣なんやで!」
 思わず千歳先輩が顔をそむけて笑う。そのことに素早く反応を示した部長が再び顔をあげる。
「すまんって…ばってん白石、意外と奥手ったいね」
 小さく肩を揺らしながら千歳先輩が言う。
「ほんまっすわ。エクスタシーやのなんのって恥ずかしげもなく言いはるくせに」
「ていうかアレやな、これで俺のことヘタレなんて言えへんくなったな!白石も十分ヘタレやさかいな!」
 俺らが言いたい放題言うと、尚更深い溜め息をついて一度頭をうなだれる。それから振り切るように顔をあげて、勢いよく椅子から立ち上がる。
「やかましいわお前ら。もうええねん、こういうんは女に聞いたほうが早いわ」
 腰に手を当ててうんうんと頷く部長。
「女?彼女に直接聞くんか?」
「アホかケンヤ。俺がヘタレかどうかはさておき、俺はお前ほどアホちゃうわ」
「なんやてぇ!?」
「でも女って誰に相談するつもりね?白石」
 部長が、横倒しにしたままだったバッグを拾い上げる。そのまま自分のロッカーの前まで移動すると、いつものように扉を開けて着替える準備をはじめた。
「…ゆかりに聞いてみる」
 そしてぽつりと出てきた名前。ゆかり?あー、部長の妹の。あのなんか無駄に元気いいやつ。
「なんや、ゆかりちゃんかいな。なんかいいアドバイスもらえそうやな。…って白石、そういえば」
「なんやケンヤ」
「こないだゆかりちゃん、小春と仲良う喋っとったで」
「……は?」
「せやから、俺見たんや。なんや仲良さげに喋っとってな、しかもなぜかその時の小春がちょっと男前な感じしたんや。狙われてんのとちゃうか?」
 ケンヤ先輩の話に、部長の眉がひそめられていく。そしてなぜか着替えるスピードが速くなってきた。おお、ボタン外すん速い。指もつれそうっすわ。
「小春が?いや、小春は男子ハンターなんやろ、おかしいで、それはないで…うちのゆかりを?いやいやありえへんって」
 なにやらボソボソと独り言が口から漏れてる。川が出来そうなくらい。それを聞いて、また千歳先輩が小さく吹き出した。しかし今度は部長がそのことに食いつくこともなく、ササッと着替え終わってしまってからラケットを掴み取った。
「待ってろ小春…」
 そして足早に部室を出て行ってしまった。残された俺と千歳先輩とケンヤ先輩。一瞬呆然とお互いの顔を見合ったが、先輩たちが吹き出す。俺も俺でアホらしくて笑う気すらせぇへん。しっかし部長、最早自分の悩みを半分忘れてはったみたいやし……やっぱ先輩アホっすわ。いそいそと二個目のリストバンドを手に通しながら、小さく溜め息をついた。



























***

実はヘタレな白石とか。ていうか財前くんが掴めないオワタ!




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