「…弦一郎」
 部活の終わり際、幸村が何か真剣な顔で斜め下の地面を見ていた。一体どうしたのだろうか、夕日の当たり具合のせいかもしれないが、どこか気分が悪いようにも見える。
「どうした、幸村。具合が良くないのか」
 いつもの癖で腕を組んだまま、幸村の瞳をじっと見つめると、すぐに幸村が首を横に小さく振った。深い藍色の髪が揺れる。
「違うんだ。具合は悪くない。むしろ全然いいくらいだ…」
「だったら何だと言うのだ、突然俯くなどお前らしくもない」
 幸村の右手に握られたままのラケット。肩から羽織っているジャージ。確かにそのしっかりとした姿は具合が悪いようには見えない。しかしやはり顔色が悪いというか、どこかあまりよくない雰囲気を纏っているように思う。
「じゃあ…俺の言うことを、聞いてくれるかい?弦一郎…」
 ようやく上げた顔。合った視線。しかしどこかうるうるしているというか…一体なんだというのだ、なんだそのか弱い目線は。どこか幸村らしくない様子に俺は疑問を覚え始める。むむ、この感覚…以前にも…いや、何度か経験したぞ。
「…何が言いたい?幸村」
 いくら俺とて学習能力はある。そうだ、わかった。これは何か企んでいるとき、俺に何か突拍子もない頼み事をする直前の顔だ。わざとこういう顔をすることで俺を身構えさせ、その後に妙な思いつきを真面目な顔で口にするのだ。中学入学より以前、テニスクラブ時代からの付き合いだ。それくらい、もう俺にだってわかる。さぁ来い。お前は一体なにを言うつもりなのだ。
 その思考自体が身構えたものだと気づくのも遅く、次の瞬間には幸村がやはり真面目な顔をして口を開いていた。

「焼肉食べたい」

 …………。長い沈黙のように感じられた。俺の周囲だけ、掛け声やインパクト音、打球が空気を切る音、すべての聴覚がなくなったように感じた。む、これは幸村のテニス……ああいやいやいや、今はテニスをしているわけではない。部活中ではあるものの、ただ幸村と向き合って会話をしていただけではないか落ち着け弦一郎。
「……焼肉、だと?」
 一体何秒待たせたのか、一瞬感覚のなくなった俺にはわからなかったが、とにかく少し待たせてしまったようだ。今度は幸村が顔を笑わせて俺を見つめている。
「ふふ、焼肉だよ。焼肉。食べたいよな、焼肉。今日はこの後焼肉に行こう、みんなで」
 ラケットヘッドを下に向けてから腕を組む幸村の背景に、コート内で走り回る赤也の姿が見えた。ああ、そういえばレギュラーでない3年生と練習試合をしていたな、あいつは。そこでふと、焼肉に行くとなると毎回張り切る赤也の姿を思い出して眉間に皺が寄る。
「…唐突だな」
「仕方がないだろ。今思いついたんだから」
 相変わらずにこにこと笑みを絶やさない幸村。さきほどまで部員にゲキを飛ばしていた人物とは思えない。
「な、弦一郎も食べたいだろ、焼肉。よし、決まりだな」
 俺は肯定の返事をしていなかったが、幸村は勝手にうなずくとくるりと背を向けた。向こうのほうで他の部員の練習試合を見ていた仁王やジャッカルと目が合うなり手招きをして呼んでいる。それを見た仁王とジャッカルがこちらへ向かいだすのを確認してから、部員のデータを取っていた蓮二を呼ぼうとして振り返る。
「焼肉に行くのか?」
 するといつの間に来たのか、俺のすぐ側まで蓮二が来ていた。
「よくわかったな、蓮二」
「ああ。遠くてわかりづらかったが幸村が"焼肉食べたい"と言っているのが見えたんでな」
 どうやらお得意の読唇術らしかった。よく読み取れたものだと感心するのも束の間、仁王とジャッカルがそばまで来ていた。
「どうした?」
 仁王が何も言わない代わりか、ジャッカルが口を開く。
「この後、レギュラー全員で焼肉に行こうかと思うんだけど」
「焼肉?」
 幸村の焼肉、という言葉に即座に反応したのは仁王だった。片方の眉を吊り上げたような顔をして、いかにも何を言ってるんだ、という表情だったが「ワリカンなんじゃろ」と言う頃にはいつもの顔に戻った。
「当然ワリカンに決まってるじゃないか。俺たちはあくまでも中学生なんだから」
「そうは言っても、どうせまとめてレジで払うのは弦一郎の役目なんだろう、精市?」
「ふふ、だってそうしないと弦一郎のメンツが丸潰れじゃないか」
 一体何のことだかわからなかったが、確かに毎回、レギュラーのメンバーと飲食店に入ると割り勘なのだが俺がまとめてレジで会計をしていた。その理由を考えたことはなかったが、おおよそ皆面倒がっているだけなのだろうと思っていたのだが…メンツ?一体何のことだ。
「まぁそうだよな、普通そういうのって大人が払うもんだからな」
「ああ、真田よ。別にお前さんが老けとるき、お前さんが払うように見せんとお前さん自身がダメな大人に見えるとかいう意味じゃないぜよ。気にするなかれ」
 ジャッカルの呟きに補足を入れるように仁王が口を挟んだ。妙に早口だったが、一瞬俺に対して"老けている"と聞こえたのは気のせいだろうか。とにもかくにも気にするなと言われたので、とりあえずひと睨みしておくに留めた。
「あ、赤也の試合が終わったみたいだね」
 試合が終わり、相手と握手をしている赤也の姿に気がついた幸村が、赤也のほうを見て手をあげる。すると幸村と俺たちの視線を感じたのか、赤也がすぐにこちらに気がついた。キョロキョロと周りを見渡した後に人差し指で自分を指差して、俺?と呟いているのがわかる。幸村が手をこまねくと、赤也が小走りでこちらへ駆けだす。
「では俺は丸井と柳生を呼んでこよう」
 それを見ていた蓮二がぽつりと言ってから、踵を返して歩き出した。その方向は、まさに丸井と柳生が打ち合っているコートのほうだ。
「っはー、な、なんすか?」
 試合が終わったばかりの赤也が息を切らしている。ジャッカルがタオルを取ってやると、どもッス!と返事をしてから受け取った。そのタオルで顔をごしごし拭いてから軽く腕を拭き、あとはタオルを首にかけようとして、やめた。結局手に持っている。
「お疲れ赤也。いい試合だったね」
「…本当にちゃんと見てたんスか?俺に背中向けてましたよね?部長…」
「しっ!赤也黙っとれ。幸村の後ろに目がついとるのは秘密なんじゃき…」
 すかさず仁王がまた口を挟む。すると赤也が驚いたような顔をしてから、飛び上がるようにして幸村から一歩離れた。その様子さえ微笑んで見ていた幸村が仁王を見遣る。
「こら、仁王。嘘はそこまでにしな」
「なんじゃ、つまらんのう」
 こら、と言いつつあまり怒る気のない幸村のお叱りを受けて仁王がつまらなさそうにそっぽを向いた。どうにもこいつらは妙に子供っぽさが残っていることがある。まったく成長せんやつらだ。
「赤也、俺の背中の目がついてるなんて嘘、信じちゃいけないよ。とにかくこの後、みんなで焼肉に行くから。拒否権はないよ」
 そして相変わらず微笑みを持ったまま、赤也にその顔を向けると、赤也は多少引きつった顔で「は、はい」と返事をした。
「な、焼肉行くんだろぃ?焼肉」
「たまにはいいものですよね」
 するとぞろぞろと、丸井と柳生、その二人を呼びに行っていた蓮二が戻ってきた。丸井が早速赤也の脇腹をつつきながら「食いすぎんなよー?」とちょっかいをかけると、「丸井先輩に言われたくないッスよ!」と言って笑っていた。焼肉ひとつで盛り上がるのも、まぁたまには良しとするか。
「む、そろそろ時間だな。終わるか」
 ちらりと時計を見ると部活終了の時刻だったので幸村に声をかける。
「ああ、じゃあ終わろう。みんな!整列!」
 組んでいた腕を解いて手を2回叩くと、部員たちが小走りで集まってきて整列をはじめる。俺たちも出遅れることなく整列をする。もちろん俺と幸村、蓮二は部員たちと向き合う形で整列するのだが。
「今日は暑かったけど、大会はこんなものじゃない。自分たちの体調管理に十分に気をつけること。いいね」
 全員が揃ったのを目で確認した幸村が話し出す。さきほど解いた腕をまた組んだ幸村の言葉に、部員が威勢よく返事をする。その声を聞いてから幸村がまばたきで頷いた。
「それじゃ、今日はここまで。礼!」
 ありがとうございましたー!と響く人数分の声に、汗まみれにも関わらずどこかさわやかさを感じた。相変わらず地面からじりじりと熱気が迫っていたが、弱く吹き始めた風のおかげで少しだけ涼しさを感じたのも要因かもしれない。
「…っしゃあああ!!焼肉だあああ!!」
 すると突然、赤也が大声を上げて両手を突き上げた。いきなりのことで、周りにいた部員たちが何人が驚いて赤也を振り向いている。
「ふふふ、やっぱり若い俺たちには焼肉だよ。たんぱく質だよ。なぁ弦一郎?」
 その赤也の張り切りようを見て幸村が思わず微笑む。そして何故か俺に話が振られる。
「む?ああ、そうだな」
 このタイミングで話しかけられるとは思わなかったが、特に動じることもない。
「弦一郎も焼肉、好きだったよな。割り勘なんだから食べすぎないようにね」
「幸村…貴様、俺をからかっているのか?」
「ふふ、そうだよ。まったく弦一郎はからかい甲斐があるなぁ」
 思わずジロリと睨みつけると、それすら全く効果がないようで、幸村は何もなかったように肩に羽織ったジャージをひらりとさせて部室へ戻る足を踏み出した。まったくこいつは毎回のごとく俺の想像を遥かに超えるから掴めない。変わったやつだな、と呟くと、蓮二が聞き逃さずに、誰のことだ?と聞いてきたので、お前たち全員だ、と言っておいた。



























***

焼肉食べたいなぁ…




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