違和感を感じたのは、3ヶ月ほど前のことだった。全国大会も終わり、テニス部の3年生も引退を迎えていた。しかし実際は名義的に抜けたのみで、そのまま立海大附属高校に入学し、再びテニス部に入る予定のある者はもちろんのこと、他校へ進学しようともテニスを続ける者など、引退しても尚、部活へ顔を出し共に練習に励む者が多かった。ただ、本来が月に4日程度しか休日がなかったので、今のようにほとんど自由参加状態になってから、まず仁王が週に2〜3日、来ないことがあった。気分が乗らない日は顔を出さないらしかった。続いて丸井も、弟の世話やら何やらで来ないこともあった。あとはジャッカルが家の手伝いをするとかなんとかで早めに帰宅するくらいだろうか。結局引退前と変わらずにほぼ毎日練習に来るのは俺と蓮二、幸村、柳生のみだった。
 そんな中、ある日蓮二がデータノートを家に置いてきたと言い出したのだ。
『いつもどこに隠してあるのか知らんが、肌身離さず持っていたではないか』
 俺が調子を狂わされたように言うと、蓮二が眉尻を下げて困ったような顔をした。
『俺もなぜ家に置いてきたのかはわからない。自室の机の上に置いたことは覚えている。しかしなぜそこに置いてしまったのか、理由がわからないんだ』
 しかしその時は、ただ単に物忘れをしただけなのだと、蓮二もやはり人の子だな、と言って笑ったような記憶がある。だが今思えば、それが始まりだったことは明白だ。まさか、このようなことになるとは。

 蓮二が入院することになった。その知らせを聞いたのは、幸村からだった。ここ何日か練習にも来ず、校内でも顔を見ていないなと思ってはいたが、まさか入院するほど体調が悪かったのか。
『俺にもよくわからないんだ。ただ今朝、先生たちが話しているのをちょっと聞いただけで…神奈川医学総合病院に昨日から入院してるらしいから、行ってみないか?』
 幸村の入院していた病院よりは遥かに近いところだったが、それでも結構大きな病院だった。少しの体調不良であるならば、そのような大きな病院に入院する必要はないはずだ。そう思うと余計に心配になってきて、その日幸村と共に病院を訪ねることにしたのだ。
『関東大会、シングルスで負けてから柳のやつ、奮起してたみたいだしね』
『そうだな…昔の馴染みとやらに、感情的になってしまったことを悔いていたようだしな』
『だから全国のときに苗字で呼んでたんだね…』
『ああ。私情を挟みすぎないための策だったようだ。しかし全国大会も終わり、安心して気が抜けたのかも知れんな』
 広い病院の一室、一人部屋に蓮二はいた。音も静かに開く引き戸。開けてみれば、蓮二がベッドに座っていた。その腰から脚にかけて布団がかけられており、その上に両手を行儀よく置いていた。
『蓮二、大丈夫か』
 蓮二が振り向いて少し驚いたような顔をしたところ、いてもたってもいられずに声をかけた。幸村とふたりで蓮二に近寄ると、蓮二の顔がふわりと笑って『二人とも情報が早いな』と言った。
『一体なにがあったというのだ』
『まぁ、そう急かすのはよくないよ。とりあえず座ろう、弦一郎』
 幸村が丸椅子を引っ張ってきて、誘導されるがまま床に鞄を置くと丸椅子に座った。その様子ですら蓮二が微笑んだまま見ていたが、見る限りでは特に変わりなく、具合が悪そうな印象はまったくなかった。いつもの涼しい顔そのものだ。
『それで、入院したと聞いたが…どのくらいかかるのだ』
 俺が尋ねると、蓮二が少しだけ切ない顔をしたような気がした。窓の外は風もなく、通りの車の音だけがガラス越しに聞こえていた。
『…わからん。今のところ退院の見通しがたっていない』
 ふと、車の走る音が途切れた瞬間に、蓮二がぽつりと呟いた。空気が一瞬凍りつくような気配すら感じる。
『………それは、どういう、こと、かな?』
 蓮二の言葉を飲み込むと、幸村の発声が途端に悪くなる。自分の時のことを思い出しているのか、みるみるうちに目線が鋭くなって、もはや蓮二を睨み付けん勢いで危うい雰囲気を持ち始めた。同時に俺にも意味がよくわからずに、言葉が発せずに黙りこんでしまった。退院の見通しがたたない、とは、一体どういうことなのだろうか。
『俺に起こる症状の原因が何であるのかがまったくわからず、どう対処していいのかわからない、ということだろう』
 しかしそんな俺達にも構わず平然と答えてしまう蓮二に、俺は唖然とした。
『ど、どういうことなのだ?どこかが痛むというわけではないのか?』
『そうだよ、痛いところがないということは…身体機能的なものではないのかい?』
 まったく元気そうな蓮二の様子から、幸村が目ざとく突き止める。すると蓮二の顔が一度小さく縦に頷かれて、ぽつりと声をもらした。
『…記憶が消えていくんだ』
 その瞬間のことは俺もよく覚えていない。ただショックを受けてフリーズした状態になったのは、幸村と同じだった。蓮二が、ふ、と笑って、自嘲気味に話し出した内容に、俺と幸村は反応ができなかった。
『1週間前、筆箱に入っているにも関わらず、いつも使用しているペンが見つけられなかった。どのペンだったのか覚えていなかったんだ。6日前、今度は消しゴムがどれだかわからなくなった。5日前、データノートを古紙回収に出してしまいそうになった。4日前、新聞の読み方がわからなくなった。どの方向から文字を追えばいいのかわからなかった。3日前、季節感がなくなり半そでのものを着て出かけそうになった。2日前には、姉の名前が思い出せなかった。そして昨日、俺は自分が誰であるか、わからなくなってしまったんだ』
 困ったものだな。と、なお笑ったままの蓮二の顔を、俺は穴が開くのではないかというほど見つめた。それがどれだけの時間だったかも、今では覚えていない。ただ視界の端で、幸村の握られた拳が小さく震え始めているのを見た。
『それは…原因がわからない…って』
『まぁ平たく言えば若年性アルツハイマーのようなものだろう。記憶がなくなり、物の認識や知識が入り乱れて何が何だかわからなくなってくる』
『…しかし蓮二、お前は…自分が誰であるかも、わからなくなってしまったというのか…?』
『ああ、そのことなら心配はない。自分の名前を忘れてしまっただけで、俺は俺が柳蓮二という名前であるかどうか判断ができなかっただけだ。今ではもう一度理解したから問題はない』
 けろりとした表情は今だ崩れることはない。それをじっと見ていた幸村が、突如椅子から立ち上がった。
『問題はない、だと…?バカにしてるのか!!』
『お、落ち着かんか幸村…!』
 突然大声をあげた幸村に、蓮二よりも俺のほうが驚いてしまい、とりあえずなだめようと腕を掴む。しかし俺の手は振り払われ、椅子を倒しながら一歩後退した幸村が尚も蓮二を睨みつけた。
『なんなんだよ…俺が戻ってきたっていうのに、今度は柳がいなくなるのか…?なんでだよ、どうしてだよ、あんなに記憶力のあった柳が…、どうしてこんなことになっちゃうんだよ…自分の名前も忘れたって?ふざけるな!じゃあ今度は俺のことも忘れるのか?弦一郎のことも?他の皆のことも、学校も、テニスも、読書の仕方もラケットの握り方も忘れるっていうのか!?』
『幸村!!!!』
 止まらない幸村の叫びに、負けじと声を張り上げた。すると幸村がハッとして俺を見た。その瞳は見開かれ、涙が浮かんで光を反射している。そして徐々に、震えで揺れ始めるその光を、俺はただ見つめ返すしかできなかった。
『……すまない』
 すると、ぽつり、と蓮二が呟いた。視線を自分の足元に落とし、拳を握り締めていた。
『…だって…おかしいだろ……柳の、記憶が…なくなってくなんて…』
『幸村、もうよいだろう』
『よくない、よくないよ弦一郎。おかしいじゃないか』
『しかし喚いたとて解決する問題ではない』
『そうだけど、信じられるかい?俺は信じないよ、どうせみんなでドッキリでも仕組んでるんだろう?そうなんだろ?なぁ、弦一郎、だからお前は冷静でいられるんだろ?』
『…幸村、』
 震える幸村の声が、弱弱しく響いていたのはよく覚えている。自分が床に伏していたときには決して見せまいとしていた弱さだったが、自分の仲間の場合は感情が抑えられないらしかった。こんなにもヒステリックになる幸村を、俺も、そして蓮二も、想像できていなかったはずだ。
『………ごめん、柳。俺だめだ。頭冷やさなきゃ。またくる』
 言って、幸村は自分の鞄をひったくるようにして掴んで足早に病室を出て行った。反射的に追いかけようとして俺も椅子から立ち上がる。ガタン、とその椅子が音を立てて、咄嗟に蓮二のほうを振り向くと、じっと俺を見上げたまま、静かに一度だけ頷いた。
『また、見舞いにくる』
 それを見た俺も自分の鞄をひったくって、すぐに幸村のあとを追った。

 あれからというもの。柳が入院した理由は公表されず、記憶が消えていくという事実を知っていたのは俺と幸村のみだった。あとのメンバーには何も告げられず、ただ風邪をこじらせて肺炎、ということになっていた。あまりにも咳き込むために蓮二本人が面会を拒否しているということで不自然さを取り払っていたが、やはり柳生あたりは『肺炎も侮れませんが、しかしあのような大きな病院に長く入院するものなのでしょうかねぇ』などと言っていた。
 俺と幸村は度々蓮二のところを訪れて様子を見ていた。しかし俺たちが心配するほど、蓮二は記憶を喪失してはいなかった。毎度会うたびに覚えていることを証明するため俺たちの名前を呼び、赤也は元気にしているだろうかと呟き、あまつさえ赤也のテニススタイルについて細々と御託を並べた挙句に部長としてやっていくためにどうしたらよいかを語ったりした。その中で出てくる単語はテニス用語であったし、話す内容の組み立て方もまさしく蓮二そのものだった。記憶が消えていくのだと告白を受けてからしばらくはずっとそのような調子だったから、俺も幸村も安心していた。思っている以上に、蓮二はどうにかなっていると。
 しかし謎の病魔が蓮二を蝕んでいるのは確実で、3日ほど面会に行けなかったあとに訪れた病室。戸を開けて幸村と室内を覗き込むと、いつもの通りに蓮二がベッドに座っていた。しかしいつもならば、俺たちに気づくと微笑んでくれるのにその日はぼんやりとした顔をしていた。
『精市、弦一郎…』
 ぽつりと名前を呼ばれ、俺たちが誰であるかは覚えているようだったが、なんとも不可解な雰囲気を持っている蓮二にどこか嫌な予感がして俺は蓮二に駆け寄った。
『蓮二、どうした』
 身をかがめるようにして問いかけてみれば、蓮二は俺を見て、呟いたのだ。
『なぜ俺はこんなところにいるんだ』
 俺は一瞬頭の中が真っ白になった。俺の後ろ、戸のところに立ったままの幸村がどのような表情をしていたのかはわからない。だが、ただ唖然として、空気が凍りついたのは体感的に知った。しばらく安定した様子を見せていた頃の突然の出来事で、俺も幸村もうまく対応できずに戸惑ったのは言うまでもない。蓮二は忘れていたのだ。自分がなぜ、入院しているのかについて。
 それから俺は毎日面会に向かっていたのだが、次第に幸村が一緒に来ることは少なくなっていた。見舞いに行くぞと声をかけても、ただ静かに首を横に振って目を伏せた。理由は『柳に会うのが怖い』というものだった。行ったところで忘れられていたらどうしよう、そう思って恐れているであろうことは容易にわかった。幸村はなにかつらいことがあったとき、その物事から少し逃げる傾向にあることは、幸村が難病に冒されていたときの経験から知っていた。あのときは忘れられもしないはずなのにテニスというものを自分から切り離そうとしていた。俺も相当な態度で当たられたものだが、それでも最終的に幸村は病気と、そして再びテニスと向き合った。今は柳に会うことが怖いと言っていても、きっとそのうち考え直して再び向かい合うだろうと、俺にはわかっていた。だから無理矢理連れてくることはしなかったのだ。
 同時に俺はずっと考えていた。柳蓮二という男について。奴は頭の回転が早く、分析能力が極めて高くい。それは人間についても物事についても、瞬時に答えを出してしまうものだから驚いたものだ。しかし本人はそれを逆手に取って俺たちにちょっかいを仕掛けることも多々あり、そのたびに俺は少し憤慨したりもしていたのだが、結局のところ蓮二には敵わなかった。幸村がいつだか言っていた。『柳は脳に四次元ポケットがあって、そこに知識が全部詰まってるんじゃないかな』と。四次元ポケットというのは、国民的アニメに出てくる猫型ロボットの腹についているものらしいが、とにかくそのロボットは自分の腹についたポケットから様々に道具を繰り出すらしかった。そのポケットの中身は宇宙のようになっていると聞いたことがあるが、幸村からすれば蓮二の脳内はまるで宇宙、まさにそのポケットのようだと。
 しかしそのように言われてきた蓮二の、記憶がなくなっていくということ。この事実は、俺にも幸村にも大きな衝撃を与えた。読書が好きで知識が豊富だった蓮二が、次々に物事を忘れていく。幸村の足が病院へ向かなくなった原因のあの日、自分がなぜ病院にいるのかという問いかけを蓮二がしたあと、再び医師による宣告が行われて蓮二は入院の理由について再確認したらしかった。翌日に会ったときは、申し訳なさそうに眉を下げながら『すまなかった』と謝られた。その後も、面会の回数を重ねるたびに少しずつ、本当に些細だが確実に記憶は消えていた。俺が確認できた範囲ではまず自分が3年何組なのかを覚えていなかった。クラスメイトの名前は半数以上答えられず、またテニス部員ですら1、2年生の部員を数名覚えていなかった。少しずつ、少しずつ、しかし確実に消えていく記憶。俺は毎日確認するのも恐ろしく、質問をするたびに蓮二がどう答えるのか、喉が詰まりそうな思いで見ていた。

 日付が静かに過ぎていく。俺が毎日通う、この病院までの道順。今すれ違った男性は真っ直ぐ前を見据えていたが、彼はきっとこの道順を忘れることなどない。俺とて忘れることなどないし、万が一忘れてしまったとしてもすぐにまた思い出せる自信がある。歩くたびに自身が起こす風。空気が頬を撫でるのが冷たく、去年の今頃も幸村の見舞いで病院に通ったものだと思い出した。今日も幸村は首を横に振り、ただ寒いといけないからと言って淡く落ち着いた橙色のブランケットを蓮二に渡すようにと頼まれた。右手に提げた紙袋の中にそれは入っている。ちらりと見れば、ビニールに包まれたそれ。これを幸村から受け取るとき、幸村は『明日、また行くんだろう。明日は俺も行くよ。そろそろ行かないと、本当に忘れられてしまいそうな気がする』と言っていた。
 エントランスの自動ドアが開いて、俺は歩みを止めることなく進む。すれ違う看護師さんに頭を下げ、エレベーターを使わずに階段で登っていく。入院患者はもちろん、面会者なども皆エレベーターを使うため階段は誰もおらずに蛍光灯が寂しげに光を放っていた。目的の病室は廊下を少し歩く。一番端ではないものの、それでも人があまり通らない場所の病室だった。その戸の前へ立つと、なにも持っていない左手でノックをした。
「はい」
 短く、蓮二の声で返事が聞こえた。取っ手に手をかけて戸を開く。一歩中へ入って、手を離した戸が静かに閉まる音を聞きながら、俺は蓮二の顔を見た。いつも通り、行儀よく両手を布団の上へ出して読書をしていたであろう蓮二が、本から顔をあげた状態でこちらを見ていた。すると少しばかりじっと俺を見たのちに、眉を困らせたようにして口元を笑わせた。いつもならば、覚えている証拠としてすぐに名前を呼んでくれるはずなのに、蓮二の口はそれ以上動く様子を見せなかった。
 ただ静かに、その事実は俺の脳の中で炸裂する。突然心臓の奥が締め付けられるような感覚に襲われながら、俺はただ微笑んでごまかそうとした。ごまかすなど、この真田弦一郎がやることではない。しかし右手に提げた紙袋の軽さが、空虚を増大させて目頭を熱くさせる。
「すまない」
 小さく呟かれた言葉に、俺はただしゃがみ込んで顔を伏せるしかできなかった。

























***

うん。気がついた。私は病院が好きらしいですよ。てか記憶喪失ネタが好きなのかな、もしかして。




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