赤也が顔を伏せていた。どうしたんだろうと思って近付いてみると、その肩が震えていることに気がつく。その場所は床も天井も壁もなにもなくて、浮いているように見えるけど足は何かの上に立っている感触がしていて。周りは真っ白。まるで雲の中にいるような感覚。それともこれは深い霧なのか。とにかく何もない白い空間に、俺と赤也が二人きり。赤也にも耳はついているし、俺にも耳はついているはず。でも音なんて全く聞こえなくて、ただ無音で、それでもひたすら赤也の肩が震え続けていて。きっと嗚咽をもらしているであろうその肩に、右手を優しく置いてみた。ユニフォーム越しだけど、赤也の体温なんてまるで感じられなかった。
「   」
 呼んだ。でも赤也は俺に気づいていないみたい。ずっと肩を震わせて、手で必死に涙を拭ってる。一体どうしたっていうんだろう、なにがそんなに悲しいんだい?問いたくても何故か俺の口は動かなくて、ただ置いた右手から伝わってくるはずの赤也の震えが感じられなくて。気味が悪くなってきて一度手を肩から離した。なんだっていうんだ、どうしてこの世界には音がない。どうして感触がない。どうして俺の声は伝わらない。
 目の前の赤也は、ずっともぞもぞと手で涙を拭っている。たまに濡れた手を自分のユニフォームで拭いてる。…あれ、赤也。ユニフォーム綺麗だね。クリーニングに出したんだろうか…いや、違うな。これは明らかに新品。新しいのを買ったのかい?
『もうよれよれになっちまったんで、買ったんスよ!』
 赤也のユニフォームを見ていると不意に一瞬、赤也の笑った顔がフラッシュバックした。ああ、そういえばそうだ。赤也が自分で言っていたんだ。もうすぐ2年生になるわけだし、よれよれのユニフォームのまま試合に出るのはみっともないって、真田や柳生に言われたんだって。赤也は無茶なプレーが多いからすぐに汚すし、扱いも悪いから今までユニフォームを何度買い直したかわからないよね。ふふ、まったくヤンチャだよなぁ…柳や柳生なんていつも新品みたいにしてるのに。…あれ、でもおかしいな。それっていつ頃の話だっけ。わからないな…。それよりも今はいつなんだろう。温度も感じない空間では、季節さえわからない。出口もない、時計もない、窓もない。なにもない空間には、やっぱり俺と赤也だけ。なぁいつまで泣いてるんだい。男だろう?めそめそするのはよくないな。
「   、」
 もう一度呼んでみる。でもやっぱり赤也は俺に気づいてはくれない。すぐ目の前にいるのに、触れることも出来るのに。でも赤也には俺が見えていない。どうしてだろう。まさか俺が幽霊になったわけじゃあるまいし…。
『テニスなんて、もう無理だろうなぁ』
 白い空間で、今度は音声がフラッシュバックする。この声は誰だろう。知っているけど、知らない人の声。テニスなんてもう無理?なんの話だ。どうしてそんな話をしてるんだ。お前は一体誰だ。どうしてテニスなんてできないって、決めつけるんだ?
 何故だかわからないけど、その声に対して俺はひどく不快感を覚えた。なぜだろう、ただひたすら、なんでそんなことを言うのかと、妙に腹立たしい気持ちさえする。
 俺は自分の肩にかけてあるジャージの襟を正した。そしてやっと違和感に気がつく。これはなんだろう。なぜ俺は、シンプルなパジャマなんて着てるんだ。若草色の柔らかい生地が俺の全身を包んでいて、腕を伸ばしてみると少し短かった。足元へ視線を落としてみれば裸足だ。どうして俺はこんな姿をしている?
「あかや」
 三度目、また名前を呼んでみた。とにかく顔をあげてほしいのと、なぜ俺がこんな格好をしているのかを聞きたかった。すると俺の声に反応するように赤也の肩の震えがピタリと止まり、ゆっくりと顔をあげ始めた。俺はこの声が赤也に届いたことに安堵すると同時に、驚いたような赤也の表情になぜか恐怖感を抱いた。ああ、だめだ、視界が歪む。脳に水滴が流れるように、素早い速度で景色が変わっていく。まるで夢から覚めるときのような、そんな感覚だ。
「部長っ!!」
 瞬間、激痛が走った。身体はまったく痛くないけど、とにかく肺が痛い。呼吸がしづらくて苦しい。それでも必死に目を開けてみれば、赤也が俺の顔を覗き込んでる。ガタガタと揺れる感覚、以前にも経験がある……これは担架だ。キャスターのついてる担架が、ガラガラと廊下を滑る音がする。さきほどの無音の空間から一転、静寂という騒音が壁に反響して響いていた。
「あか、」
 もう呼べやしなかった。声を出そうとした瞬間、また肺に激痛が走って言葉を詰まらせた。ああ、そうだ俺、ちょっと体調が良くなったからって学校に出てみたら、突然症状が悪化して倒れたんだ。また迷惑をかけてしまったな。真田は苦労ばかりして、更に老けてしまうんじゃないだろうか。申し訳ないな。ふふ、赤也、いつまでついてくるんだい。もうそろそろ緊急処置室に入ることになるよ。大人しく待ってなきゃだめだろう。
 息が上がる。でも俺の吐き出した空気は酸素マスクの中に隔離され、その内側を曇らせるだけだった。肺から喉にかけて、空気が通るたびにズキズキと痛む。でも身体は痛くない。ああ、本当に腹立たしい。どうして俺の身体は俺の言うことを聞かないんだろう。動け動けと命令してるのに。なんで俺なんだ、なんで俺が…。
 視界の中で、どこかの扉を通るのがわかった。赤いランプがついていたのが見えたけど、横になってる俺には文字までは見えなかった。不意に視線をやれば、ついてきていたはずの赤也の頭だけが、かすかに見えていたけどだんだん離れていく。ああ、立ち止まったんだね赤也。そうか、処置室に入ったんだ、俺。処置が済めばきっと原因の追究が始まって、またリハビリだらけのつらい毎日が訪れることになるんだろうなぁ。こんな調子で、間に合うんだろうか。県大会は無理だろう。できれば関東大会に間に合わせたいところだけど…それでも無理だというのなら、せめて全国大会に間に合うことさえできれば…。

 ゆっくりと息を吸い込みながら目を閉じると、ふわりと意識が飛んだ。

























***

よくわからん話だ。




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