宣告された内容は、必ずしも明確なものではなかった。難病のギラン・バレー症候群に酷似したものだと、たったそれだけのものだった。俺もテレビの特集なんかで聞いたことがある、その難病。身体を動かすことが困難になる病気。それによく似た、免疫系の原因不明の病…だと?背中が強張るように、身体が硬直してしまった。母親が大丈夫かと声をかけてきたけど、ろくに返事もできずに医師をにらみつけていたのを、覚えている。

「幸村」
 ベッドに座り目を閉じてぼんやりとしていると、扉が開けられる、かすかな音が聞こえた。そしてすぐに、聞き覚えのある深い声。ゆっくりと目を開けて白い部屋を確認、それからゆっくり振り向くと真田が扉を閉めているところだった。
「やぁ、また来たのかい」
 少し微笑んで言うと、肩から鞄を降ろすために前かがみになっていた真田がちらりとこちらを見上げた。
「迷惑だったか」
「いいや、そんなことはないさ。わざわざ来てもらえて嬉しいよ」
 そばの椅子に腰掛けた真田。相変わらずピンと伸びた背筋。いつだってこの男は、真っ直ぐだ。紆余曲折などしない、妥協などしない、困難に出くわそうとも、きっとその真っ向な精神で打ち破るだろう。
「容態は安定しているようだな」
「そうだね、前よりは全然いいよ」
「うむ…その、やはり発症した頃は、つらかったのか」
 以前…そう、ちょうど発症から2週間が経つ頃だった。医師の説明にもあったとおり、症状がピークを迎え、一時は呼吸すらままならなくなりかけた。意識はあるのに身体がまったく動かせず、ただ心臓が不気味なリズムで動いているのを感じた。呼吸が乱れて、吸い込む酸素が二酸化炭素と交換できずに苦しかった。あまりの苦しさに目を閉じると、医師や看護師さんが酸素マスクを取り付けてくれた。それは感触からわかった。まったくおかしな話だよな。感触はあるのに、自ら動かすことが出来ないなんて。全身がしびれたような感覚。もう俺、死んじゃうのかなって、直感的に思ったほどだった。
「…ああ、とてもじゃないけど、人に見せられる姿じゃなかったよ」
 前のことをあまり思い出したくなくて視線を窓の外にそらすと、真田は黙った。普段はたまに空気の読めない発言をすることもあったが、こういう時の真田は柳並みに理解が速い。それだけ、今の俺に気を遣ってる。
「…今日は真田だけなんだね」
 視線を真田に戻して声をかける。
「む?ああ、そうだが。蓮二に声をかけようかと思ったが赤也に試合をせがまれていたのでやめておいた」
「ふふ、相変わらずだね、赤也は」
「……その、なんだ。俺一人というのは、話しづらいか?」
 その表情、眉ひとつ動かさずに声音だけが困惑したようなものになる。その様子が少々おかしく思えてつい小さく噴出すと真田は「なんだ」と更に困惑した声をあげた。
「ふふふ…おかしいなぁ、真田は」
「…なにがだ」
「大丈夫だよ、真田一人でも全然かまわない」
「…ならば、よいのだが」
 ほんの少し、衣擦れの音をさせて真田が腕を組む。
「なぁ、真田」
「なんだ」
「…たまに、思い出すんだ」
「なにをだ?」
「俺が初めて、お前に殴られた時のこと」
「……ああ」
「痛かったな」
「…それは、すまなかった」
「ふふ、冗談だよ。痛かったけど、おかげで俺は自覚が持てた」

 あれは忘れもしない、1年生の頃のこと。俺と真田と柳は、先輩を押しのけてレギュラーとして全国大会に出た。そこであっさり優勝した俺たちだったけど、俺は単純にそのことを喜んだ。心がわくわくして浮き足立って、気持ちが舞い上がっていたのかもしれない。別に試合に勝つこと、そして大会で優勝すること自体はそれまでも何度も経験していた。でもどこか、俺はただ単純に、勝ったら喜んで、負けたら悔しがる、そんなテニスをしていた。
 だけど、この真田弦一郎は違った。
 全国大会のあと、俺は真田に声をかけた。試合をしないかい、って。真田はちらりと俺を見て、よかろう、と返事をした。中学に入って同じ学校に通うようになってから試合をするのは初めてだったけど、小学生の時は地区大会なんかで何度か試合をしていたし、プレイスタイルや技なんかも把握していた。それまでも毎回俺が勝っていたし、今回も勝つだろうと思って臨んだ試合。俺の予測は次々とはずれ、いつの間にそんな力をつけたのか、真田はすごい速さで進化していた。そのことに驚きつつ試合を進めていたけど、結局は俺が6−3で負けてしまったんだ。
『ふふ、すごいね真田くん。負けちゃったよ。いつの間にそんな力を…』
 試合終了の握手をしようとネットに近づいていた。ラケットを左手にかかえて、右手を出していた俺だったけど、真田は俺の手を握らなかった。どうしたんだろう、と思って見つめてみれば、真田は眉間に皺を寄せて斜め下の地面を見ていた。
『…歯を食いしばらんか』
『え?』
『歯を食いしばらんかっ!』
 突如、顔をあげた真田の目。ものすごく鋭くて一瞬びっくりした。でも次の瞬間、俺は真田から鉄拳を喰らっていた。真田の拳と、俺の頬骨がぶつかる鈍い音がしたのが聞こえて、まったく予想外の出来事に俺の足は踏ん張りきれず、ふらついて倒れた。地面に手をつきながら、反射的に真田のほうを見ると、殴ったほうとは逆の左手をぎゅっと握り締めてわなわなと震えていた。
『なんだ貴様のテニスは!ぬるい、ぬるすぎるではないか!この立海大付属中テニス部に入ったからには、俺たちには王者としての誇りが付きまとうのだぞ。近年では多少衰退していた勢いを、俺たちは取り戻したのだ。王者奪還、次なるは王者持続。負けることは許されないのだ!もっと勝ちにこだわらんか!』
 まだ発達途中のくせに、その声は周辺に響き渡って木霊した。突然殴られ怒声をあびた俺は、呆気にとられて動けずに、ただ真田を見つめることしかできなかった。直後は怒声で痛みを忘れていた頬が、だんだんと痺れて熱くなり、じりじりと痛み始めていた。
『勝ちに、こだわ…っつ、』
 言葉を発して気がつく。口の中が切れていた。思わず痛みに呻くと、真田がハッとした様子で慌ててネットを迂回して来た。
『…すまない、俺としたことが』
『いや、いいんだ…きっと殴らずにはいられないほど、俺のテニスが気に入らなかったんだろう?』
『気に入るどうこうという話ではない。お前は勝ちへの執着が薄いと言っているのだ』
『勝ちへの執着…?』
『そうだ。お前のプレイからは、ここで俺に負けても構わないという類の心が見えたのだ』
 確かに俺は、あまりに進化していた真田に驚いたと同時に、負けるかもしれないなと感じていた。中学に入学してからの数ヶ月間、この間にこの真田という男がどれほどの鍛錬を積んだのだろうかと内心興味が湧いて、ほんの少し試合に集中できていなかったかもしれない。
『負けたくはないけど、負けるかもしれないと、そう思ってしまったことは認める』
『俺はそのことを言っている。負けるかもしれない、など…そういった疑心を抱くことこそが一番の要因なのだ。いいか、俺達は王者としての誇りを持たねばならん。全国優勝の常連校であるこのテニス部の掟として、勝ちにこだわらなければならんのだ』

「あの時真田に説教されてなかったら、俺はちゃらんぽらんな選手だったかも知れないね」
「む、それは困るな。テニス部主将として、いい加減な態度をとってもらっては…部員たちに示しが」
「さーなだ。わかってるって。それとも俺はそんなにいい加減なことをしそうに見えるのかな?」
「そ、そのようなことはない」
「ふふっ、面白いね、真田は」
 俺が笑うと、真田の表情がほんの少しだけ和らいだような気がする。こんなにも気を遣わせているのかと思うと、本当に自分が情けない。
「ところで、幸村」
「なんだい?」
「…お前の、病のことなのだが」
「……ああ」
「俺は、病についてあまり詳しくない。尋ねたところで、俺にできることは少ないだろうと思っている。しかし…」
「うん」
「お前は、再びコートに立つのだろう」
 真田の視線が、相変わらずに真っ直ぐ、俺の目を見ていた。きっと俺の病気の症状なんかはもうとっくに理解しているはずだし、原因が不明である限り、いつ復帰できるのかもわからない状態ということも、理解しているはずだ。でもこの男は、いや、テニス部の部員達は、俺の復帰を待ってくれている。もしかしたら、再びラケットを手に取るのに半年、いや1年、もしかしたら数年かかるかもしれない。きっと誰しもが先行きの見えない未来に、戸惑っているはずだった。でもこの真田という男は、真っ直ぐに俺を見て、復帰するのだろう、と。そう、言ったのだ。
「…テニス、また出来るかな」
 医師からは、自己の判断で勝手にベッドを降りることを許されていない。用事があるときはナースセンターに連絡を取るようにと言いつけられている。テニスラケットなどは、側に置いておくと手に取ってしまうだろうという理由で病室には持ち込んでいなかった。
「まさかやめるつもりではあるまい」
 一度、真田のテニスバッグを見てから再び視線を戻す。その表情はやはり少しも変わっていない。あくまでも真剣な真田の目。やめるつもりではあるまい、と言い切った顔。いつもの、厳しい顔。老けていると言われる顔。その顔を見ていると、もういっそ、笑ってしまいたかった。嘘でも、笑ってしまいたい気持ちになった。
「…そう、だね」
 返事が、思わず鈍くなる。テニスがしたい。俺からテニスを取ったら何も残らない。それほどに、今までテニスに熱中してきた。ここで原因不明の病に倒れ、そのまま床に伏し続けることは、王者立海の部長として許されない。病に倒れてから、俺はずっと考えてきた。テニスをしたいと願う気持ちと、この原因不明の病に打ち勝つことが出来るのだろうかという不安な気持ち。そのふたつの気持ちの狭間で揺れていたこの俺を、真田という男のひとことが、決めつけたのだ。やめることなど、ないと。お前はもう一度コートに立つんだろう、と。
「……幸村?」
「…っく、すまない、真田…今日はもう帰ってくれないか…」
 不意に涙がこみあげてきて下を向いた。声をかけてくれた真田に帰ってくれと頼むと、「ああ、」と一言、返事が聞こえた。そしてすぐに椅子から立ち上がる足が見えて、鞄を抱える衣擦れの音、そして静かに扉へと向かっていく足音。早く、早く出て行ってくれ。こんな弱い俺の姿なんか、誰にも見せたくない。
「また来るぞ、幸村。ではな」
 最後にひとこえ聞こえて、扉の開閉する音。パタン、と聞こえて顔をあげる。そこにはもちろん誰もいなくて、部屋から遠ざかっていく足音がかすかに聞こえていた。
「………っ、」
 涙が、耐え切れずに流れだした。そうだ、俺は頷くことができなかったんだ。またテニスをやる気なのか?という問いかけに、頷けなかった。もちろんテニスをやめる気なんかない。でも、やめる気がなくともやめなくてはならないかもしれない。その可能性がある限り、俺はその問いに頷くことはできなかったんだ。だけど真田は、俺がまたテニスをすると、さも当たり前に言ってのけたんだ。やめることなどないと言い切った。なんて、どこまでも真っ直ぐな男。その真っ直ぐな精神は、俺の迷いを払拭するには十分だった。きっと俺は心のどこかで願っていたんだ。誰かが決めつけてくれることを。俺が再びラケットを握ることを、義務化して欲しかったんだ。いつまでも迷っている俺を、誰かの指示で、導いて欲しかった。
 いつだってそうだった。あの時だってそうだったんだ。真田の言葉で、俺は勝ちへの執着を、王者としての自覚を持った。負けることは許されない。そうだ、俺達は王者なんだから。2年生の全国大会で優勝したことによってその精神は更に俺の中で根を張り、3連覇に向けて走り出したところを、原因不明の病に襲われたのだ。
 知れず、握っていた拳を開いた。強く握りすぎて、手のひらに爪の痕がついていた。それを眺めていると、涙がそこへ落ちた。もう一度拳を握る。先日、医師が言っていた言葉が、頭の中で薄れていくのを想像した。テニスなんて、もう無理だろう。その言葉を、俺は水に浸けて、溶かしていく。いずれその言葉は薄れて、水の色を変えていくんだ。濃い墨色は、立海のユニフォームの黒いラインを思い出させた。
 もう、迷いはない。俺は、テニスを捨てることはない。この病の原因が不明ということは、何かを改善して治せるものではないということ。それを逆手に取って、俺はこの病に打ち勝つ。動かないのならば、動くまで待つのではなく、無理をしてでも動かしてみせるしかない。どんなに無茶だと言われようと、この病に打ち勝ち、再びコートに立つ。関東大会には顔を見せることすら出来ないけど、全国大会までには必ず戻り、3連覇を成し遂げる。それが、俺の役目。立海大付属中テニス部の主将としての務め。なにも恐れることなど、ないのだ。


























***

伝説の幸村への鉄拳説。想像する人によって諸説あると思うけども、真田の鉄拳で幸村が王者としての自覚を持つというのもアリなのではなかろうかと。約束は人を強くする、って話を書いたけども、それの真田バージョンですな。なんか代わり映えしなくて申し訳ない。





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