『小十郎』
 低く響く声が、私の名前を呼んだ。顔を伏せた姿勢のまま『はっ』と短く返事をして二の句を待てば、少し沈黙が流れた。不思議に思って顔を上げ主君の表情を仰げば、その顔は少し影を持った眼差しをしていた。重い空気の中、その口が薄く開くのが見えた。
『お前に、梵天丸の守役を命ずる』
 言われ、すぐに一人の顔が目に浮かんだ。右目を病にて失明し、その荷物と化した眼球を腫らした痛々しいお姿だ。今になっては、実の母親である義姫様さえ傍に行かぬという。幼名を梵天丸様と申す。伊達家の長男としてお生まれになったが故、もちろん家督を継ぐ予定である。しかし病に犯された右目のせいで見目が悪いためか、片目では何もできますまい、などと陰で言われていることは私も知っている。
『はい。そのお役目、存分に果たさせていただきます』
 しかし私には守役を断る理由もなければ、次なる主君とともに成長が出来るならばと思い、快活な返事とともに深々と頭を下げた。それから顔を上げると、嫌がる素振りの全くない私に、主君である輝宗様は大層安心されたような表情をしていた。

「梵天丸様」
 その日も寒く、手足が凍るような思いがしていた。しかしながら、この十も年下の次なる主君はその未だ小さな背中をこちらに向け、ただしんしんと降る雪の中に立っておられた。さくさくと雪を踏みしめながら歩み寄ると、ほんの一寸ほど顔を動かされた。すぐ横にそびえ立っている松ノ木が、雪の重みでキシキシと異音を立てている。
「…小十郎か」
 その声はか細くはない。しかし覇気のないものだ。
「このようなところにおられたのですか。お身体を冷やします。屋敷へ戻りましょう」
 すぐ後ろまで行き、それから膝まづいて視線を合わせようとした。しかし梵天丸様は振り向きもせず、頷きもせず、ただじっと佇まれた。茶色い髪にうっすらと雪が積もっていることから、長らくここにおられたことは明白である。
「…小十郎はいつも俺の居場所を見つける」
「ええ。お姿を見つけるまでは、心が休まりませぬ。それに梵天丸様のお姿をいち早く見つけるのは、守役の務めだと思うておりますゆえ」
 再び少しの沈黙が訪れる。その間にも雪はしんしんと降り続き、更に白さを増していく視界。相変わらず振り向きもしない梵天丸様だったが、小さく「守役…」と呟いてから、ゆっくりとした動作で体ごとこちらを向いた。ようやくその左目と己の目が合う。
「守役は、いつも側におるのじゃな」
「ええ。近侍よりもお側にいられるよう、心がけております」
 じっと見つめてくる目を負けじと見つめ返すが、同時にその視線の冷たさに内心で驚く。悟ったような、疲れきったような、瞳に映るものすべてに色が付かぬとでも言うような。そんな暗い眼差しを、わずか九歳の子どもが携えている。絶望が伝染りそうだと思った瞬間、その目線が斜めへとずらされる。
「…母上も、もうわしの傍には来られぬ」
「………」
「片目では何もできまいと、皆申すのじゃ」
 あくまでも淡々と語るその姿に、胸が締め付けられそうになる。陰口は本人の耳にも届いている。義姫様が我が子である梵天丸様を忌み嫌い、突き放したことも理解している。この少年はこの年にして、すでに多くの負を知っていた。まだ早すぎる。そう切に感じ、キリキリと痛む胸を鎮めるために左手で己の胸をなでおろした。
「…いつか、小十郎もいなくなるのか」
 ぽつりと呟かれた言葉。同時に再び視線が合う。気を張っていなければ聞き逃してしまいそうなほど、その言葉は淡々としており、疑問符などまるでついていなかった。独り言のように呟かれたそれを私は拾い上げる。
「いいえ。今こそ梵天丸様の守役ではございますが、この小十郎、この身が果てるまでお傍におるつもりです」
 真っ白な視界の中、梵天丸様が再び私の目を見つめ続ける。そこに言葉はなく、ただ松ノ木の枝が歪む音だけが耳に届いていた。なんと静かで悲しい沈黙であろうか。
「………梵天丸様、雪で着物が湿っております。屋敷に戻って着替えましょう」
「…ああ、そうだな」
 既に梵天丸様の頭は雪で真っ白に染まっていた。きっと私の頭にも雪は降り積もっているはずだ。
 そっと手を差し伸べると、視線を地面に落とした梵天丸様が感情の乗らぬ声で返事を返し、ようやく足を踏み出された。私の手を取った梵天丸様の手が氷のように冷たく、そしてとても小さく、思わずぎゅっと握り締めた。



 見目が悪くなってから覇気を失っていた梵天丸様は沈みゆく底を知らぬように、相変わらずゆっくりと降下していくように生気を失っていった。最近では近侍の言うことも聞かず、口に合わぬものは食べず、気に入らぬことがあると暴れるようになっていた。九歳、ものの分からぬ年ではない。しかし梵天丸様は感情をぶつける宛をなくした獣のように暴れた。近侍たちの手にも負えず、私も力づくで押さえ込んだことが幾度かあった。無理に床に押さえつけていると、しばらく抵抗して暴れているがそのうち疲れ果てて張り詰めた糸が切れたかのように眠るのだ。優しくしても、厳しくしても、何をしてもすべてが逆効果のように思えて絶望に暮れてしまいそうだった。
 しかしある日、梵天丸様が近侍や小姓を集めた。何か怒鳴り散らし暴れる気なのではないかと思い、いっそう緊張した状態で部屋へ入る。並べられた面々の中でも、梵天丸様に一番近いところに私は座った。
「…わしから、願い…いや、命がある」
 全員が揃ってから部屋に入ってきた梵天丸様だったが、座ったきり黙したままだった。そしてようやく口を開いたかと思えば、命があると仰せになる。これだけの人数を集めての命とは一体何事だろうかとその場にいるものの空気が揺らいだ。部屋の中には、近侍や小姓の数から成る威圧感と、それに反するように外からのさわやかな雀の鳴き声のみが行き交っていた。外界の日常的な光景と、内での異常な光景。その二つに呆気に取られ、尚且つ打ちのめされそうな気さえしてくる。この部屋にいる者すべてが、逃れられるものならば今すぐにでも逃れたいと思っていることは明白だった。
 そのような空気の中で、相変わらず暗闇を模した視線を携えた梵天丸様が口を開く。

「よいか、誰でもよい……、この右目を斬れ」

 一瞬、雀の声も、皆が息を飲む音も、自分の呼吸の音さえも、聞こえうるはずのすべての音が耳を通らなくなった。今、なんと申されたか?
 しかし周りの者も同じく一瞬では理解できなかったようで、皆時が止まったかのように動きを止めていた。しかし皆が梵天丸様の言葉を理解してざわめくより早く、梵天丸様が指を指した。
「お前、この右目を斬れ」
 指を指されたのは梵天丸様と二つしか年の違わぬ小姓だった。小姓は顔を青ざめさせ、拒絶することも受け入れることも出来ずにただガクガクと震え始めた。しかし梵天丸様はそんな小姓の様子を見遣ると、素早く別の者を指差した。
「ではお前が斬れ」
 次に指された近侍も同じような反応を示し、「そ、それは…」と思わず声を震わすと梵天丸様がすかさず「ごちゃごちゃ申すな!」と怒鳴りつけて立ち上がった。そのまま近侍に斬りかかってしまいそうな梵天丸様の前に、己の右腕を伸ばしていた。
「…なんじゃ小十郎」
 もはや感情を絶望と憤怒の二つしか持ち合わせていない梵天丸様の目を、座った姿勢から見上げる。その左目は血走り、殺気をもって睨み返してきた。その目と視線を合わせてから、腫れぼったく突出した右目を見遣った。何度見てもおぞましい、異物と化した眼球。実の母でさえ嫌ったというこの見目、そして見目のせいで本来の姿を忘れて暴君になりつつある次期当主。すべてはこの見目のせい…この、右目が病を得たために。
 ―――我が片倉家はずっと伊達家とともにある。膝の上の握りこぶしの熱さとは裏腹に、胸の奥、肝がすっと冷えるような感覚を覚えた。
「その恐ろしい右目を斬り取るお役目でございますね。ならば私が」
 言って、梵天丸様の返事も待たずに脇差しを抜く。外からの日射を鋭く反射したその刃物に、ほんの一瞬だが梵天丸様が息を飲んだ。そして一気にざわめく近侍や小姓たちが、今にも悲鳴をあげそうな情けない表情を晒しているのを視界の端にとらえた。
「っ……!!!!」
 次の瞬間には、左手で眼球を掴んでいた。眼窩から引きずり出し、尾を引く神経の束を脇差しで切り離す。その動作は可能な限り素早く行った。そうでなければ梵天丸様に苦痛を長く与えることになるためだ。
 しかし梵天丸様は声にもならぬ声をあげ、次の瞬間にはガクリと膝を折って倒れ込んだ。斬り取る瞬間思わず悲鳴をあげた近侍や小姓たちが我に返って梵天丸様を囲む。うつ伏せに倒れたそのお体を仰向けにすれば、梵天丸様はあまりの激痛に意識を飛ばしておられた。みるみるうちにその右の眼窩から血が溢れ出す。その姿を見ながら脇差しを鞘に収めて立ち上がった。
「…この程度の痛みで失神するなど、なんと情けないお方でしょうか」
 吐き捨てるように言葉を紡いだ私に、近侍や小姓たちが恐怖を含んだ眼差しを向けた。しかし私はその視線に気づいていない素振りをして部屋を出た。この状況では、真っ先に侍医を呼ばなければならない。あまりの出来事に他の者が動けずにいる中、私がやらずして誰がやるというのだろう。命とは言え、主君に刃を向けたことに対しての制裁は死に値するだろう。しかしそれで、梵天丸様の未来が変わるなら。評価が変わるなら。私の死など惜しくはないのだ。左手に掴んだままの眼球を潰さぬよう、侍医の元へと急いだ。



 それから数日、私は毎日死装束を着て自室にこもった。討ち首は免れぬであろうためだ。右目を斬り取ってから一日半ほど梵天丸様は目覚めなかったという。しかしようやく目を覚まし、今では食事も取れるほどに回復しているという。若さゆえの順応さかとも思ったが、本来の梵天丸様らしさを感じて胸の奥が暖かくなった。
 きっと大丈夫であろう。この数日、毎日考えていた。右目を斬り取ったことで右の眼窩に瞳はなくなってしまったが、それでも眼帯などを用いれば見目は悪くなくなるだろう。ただ隻眼というだけで軽く見られてしまうこともこの先あるやもしれない。しかし本来の梵天丸様であれば、そのような扱いは身をもって払拭しにかかるであろう。何も問題はない。梵天丸様が伊達家の次期当主として健やかに強く成長されるのであれば―――
「小十郎!」
 大きな足音と共に、遠くから私を呼ぶ声がした。
「小十郎!おるのであろう!」
 私の返事も待たずに苛立った声を上げて近づいてくる人物。聞き覚えのある声は聞き間違うはずもなく。
 次の瞬間、バターン!と乱暴に襖が開けられる。そこに立っていたのはもちろん梵天丸様で、右目を隠すよう頭に包帯を巻かれた状態で仁王立ちしていた。左目は鋭く私を睨んでいたが、その目は暗く沈む深海のようなものではなかった。ただ、純粋な、怒り。
「梵天丸様、直々に来ていただかなくても、私が参りますのに」
 瞑想をしていた姿のまま、いきり立つ左目と視線を合わせると、梵天丸様が再び口を開いた。
「馬鹿め!お前はわしの守役であろう!何を勝手に休んでおる!」
 数日前のように、私は一瞬動きを止める。それから何か問おうと口を開くものの、梵天丸様が畳み掛けるように声を荒げた。
「一切の仕事を他の者に預けるなど笑止!よもや、わしの右目を斬り取ったことで腹でも切ろうとしていたのではあるまいな!」
「…いくら命とは言え、主君に刃を向けた罪は重うございます」
「馬鹿が…わしが自ら命じたこと。そして小十郎は、誰もが恐れてやらぬ中を自ら買って出たではないか」
「梵天丸様の今後のためを思えば、この命など惜しくありません」
「……だから馬鹿だと言うておる。見ろ、小十郎。わしは今、醜いか?」
 梵天丸様の斜め後ろに、侍医が心配そうな視線で立っている。しかし梵天丸様はまったく気にも留めず、頭に巻かれた包帯を外し始めた。はらり、最後のひと巻きが取れるまでの沈黙が一瞬のように早く、しかしとてもゆっくりと感じられた。
 さらりと現れた梵天丸様のお顔。少し髪を切られたらしく、目にかかる前髪が以前より短い。そしてそこに存在していた禍々しくおぞましい突出した右目はもうない。忌々しかったあの眼球はそこにはなく、ただ閉じきれていないまぶたの内側は暗闇を孕んでいるだけだった。
「…醜くなど、ありません」
「そうであろう。お前が斬り取ってくれたおかげじゃ。……感謝しておる」
 最後だけ声を小さくして、視線さえも合わせずに呟かれた梵天丸様は今までとは別人であるかの如く見えた。
「…何か言わぬか、馬鹿め」
 しおらしく感謝の意を下さった梵天丸様がいやにいとおしく、緩む頬もそのままで見つめているとしびれを切らしたように視線を合わせてきた。何度も確認する。もうその瞳に、視線に、暗闇が宿っていないということを。
「…この小十郎、この身が果てるまで側にあることをお許しいただけるのでしょうか」
「当たり前じゃ。お前のような者を失うて得るものなど何もない。死ぬときは老衰しか認めぬ」
 ようやく、春の色が見えた気がした。長い長い、この東北の冬。雪深く歩行も困難なこの道を、ようやく照らす陽の光が現れたようだ。あとは雪が溶けるのを待つのみだ。溶けた雪は清らかな水となり、自然を潤し、再生し、人々を豊かにする。そして、木の幹のように強く、枝をどこまでも伸ばすことができる本来のこの主君を、私は土となって支えるのだ。生涯、仕えることを許された。それだけで、私はすべて救われる。
「非礼の段、お許しください」
「小十郎、しつこいぞ。お前はこれからもわしのために働けばそれでよいのじゃ」
「ありがたき幸せにございます」
 死装束のまま、頭を垂れる。すると梵天丸様が侍医に声をかけた。斜め後ろに待っていた侍医が一度梵天丸様に頭を下げてからおずおずと部屋に入ってきて、私に着物を寄越した。
「その格好のままでは仕事にならぬであろう。さっさと着ろ、立派になった松ノ木を見に行くぞ」
 言って、私が着物を着込むのをじっと見つめている梵天丸様。主君を待たせるなど言語道断として急いで着終えると、私は梵天丸様に手を差し伸べた。
「………」
 すると梵天丸様は、一度私のその手を見つめてから、そっと手を取ってくれた。
「…小十郎の手は、あの日と変わらずに暖かいのだな」
 ぽつりと呟いてからふわりと笑ってくださったその顔に思わず見とれてしまう。あの雪の日に、すべてを悟りきった暗闇を含んでいた目はもうない。この小さな身体を蝕む忌々しいものは、もうないのだ。
「ええ、梵天丸様のため、いつでも暖めておりますゆえ。さ、松ノ木のもとへ参りましょう」
 梵天丸様のややぬるい手を握り、縁側を歩く。目指すのは、あの雪の日に軋んでいた松ノ木。今その根元には梵天丸様の右目が眠っている。私も梵天丸様の右目となり、いつまでも支え続けていけるよう、精進いたしましょう。


























***
あれ?うまく終わんなかった…(´・ω・`)



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