貞治に何も告げずに引っ越して行った俺は、新しい土地で新しい春を迎えた。成長を見込んで選んだ大きいサイズの学生服。真新しいブレザーは何の匂いもしなかった。
「柳蓮二です。よろしく」
 もちろんテニスを辞めるつもりはなく、俺は立海大付属中学の強豪テニス部の門を叩いた。俺と同じくテニス部に入部した新入生はたくさんいた。もともとテニスの出来る者から、これから強くなるんだと意気込んでいる者まで、それはとても興味深い人間ばかりがいた。いいデータが採れそうだと内心は微笑んでいたが、俺の表情は打って変わってとてつもなく無表情だった。
「お前の髪はテニスに支障はないのか?」
 入部してすぐ、未だラケットも握れないうちから、その人物は俺に話しかけてきた。その日の部活が終わり、制服に着替えている途中だった俺は、白いシャツを腕に通し終えてから視線を向けた。身長は俺と同じくらいの、筋肉のしっかりした身体をしている。もちろん俺がこいつを知らないわけがない。真田弦一郎。テニスの腕前は確かで、新入生ということで部活の間はラケットこそ握れないが相当の実力を持っていることは既に知っていた。あとどれくらいでラケットを握れるようになるかはわからないが、きっとその時がきたら今いる先輩たちを押しのけてレギュラーになれるだろう。
「いいや、特に支障はない」
 俺の前髪は短かったが横から後ろにかけては少し長かったので、弦一郎はそれが気になったらしかった。
「そうか。見たところとても滑らかな毛髪だからな。目に入ったりはしないのだろうかと気になったのだ」
 そう言う弦一郎は、さわやかな短髪だ。長すぎず短すぎず、眼力には似合わないほどに少々若者らしく決まっている。確かに俺も、小さなときから母親などによく頭をなでられては「きれいな髪ね」と言われたものだ。しかし弦一郎も俺と似たような漆黒の毛髪で、男っ気に似合わず綺麗な髪だった。またこいつのデータが増えたな、と思いながらじろじろと見ていると、「お前は細目だからどこを見ているのか分かりづらいな」と言われた。
 それからというもの、弦一郎は俺に話しかけることがあった。俺のデータによると、弦一郎が他人に話しかける人物としては36%が俺だった。高い数値のようにも見えるが、もともと他人に話しかけることが少ないためだ。残りの64%は主に教師への質問、部活内での先輩への質問や意見、そんなところだった。しかし俺との接触する数値が高い理由も薄々はわかっていた。見渡したところ、俺のデータと併せてみても弦一郎と話の合いそうな人間は俺しかいなかったからだ。雰囲気が似ているのだろうか。専ら和風な生活環境という点での話だが。
 しかし弦一郎に話しかけられれば話しかけられるほど、俺は弦一郎との明らかな違いを自分の中に見出していた。いつからだろうか。他人のデータを採り始めたのは。かなり幼い頃から他人の行動や言動、思考パターンなどについて興味を持って観察していたのは覚えている。しかしその頃はもちろんデータとして数値化するという考えはなく、ただ興味や好奇心に任せて観察していたにすぎない。そのうちにテニスを始め、ダブルスを組んでいた貞治にデータテニスを伝授してやれるほど、俺のデータ収集は力強い戦力となっていた。しかし同時に、データを集める中で、俺はそのデータを客観的に見ていない幼い自分を見つけることがあった。データとは常に客観的なものでなければ意味がない。そこに私情を挟んでしまっては、正しいデータではなくなってしまうのだ。それなのに俺は時として、拾い集めたデータを見直してはあーでもないこーでもないと、思ってしまうことがあったのだ。それは一種の幼い悩み、人間が一生をかけて考えても明確に答えの出ないもの。自分は孤独であるという思い込みの類だった。多種多様な人物達のデータを見ては、こいつも俺の心を理解できまいと声もなく呟くのだ。誰にもこの心は理解してもらえない。だとするならば、他人と馴れ合うのは馬鹿らしいことなのだ。そう思っていた。だから、話しかけてくる弦一郎を、俺は無下にした。
 醒めたような口ぶりで物を言えば弦一郎は腹を立てた。そっぽを向けば腕を強く掴まれ、放せと声をあげて振りほどけば、なぜだと言って困惑した。弦一郎が俺に近づけば近づくほど、俺は弦一郎についての新たなデータを次々と収集してしまい、そしてそのデータについて俺はまた主観的なものの見方をしてしまうのだ。俺の気持ちがわかるはずがない。その想いの中で見つけた自分の心…そのとても素直な心は、俺を強張らせ、こんな俺のことなど知らない人物に対してすべてを打ち明けるなどできるものかと自分に腹を立てた。
「なにをそんなに気に病んでいるのだ」
 部活の終わった頃。弦一郎はまた俺のところに来た。責めるわけでもなく、問い詰めるわけでもなく、心配しているような口ぶりが俺の心を揺らした。が、なにごともないように自分に言い聞かせた。
「なんでもない」
 あまり目線が合わないよう、さりげなく首を傾ける。
「なんでもないのなら、なぜお前は笑わんのだ」
 しかしわかる、弦一郎はじっと俺を見据えている。
「笑わないのはお前も同じだろう。仏頂面はお互い様だ」
「…俺が言っているのはそういうことではない。お前は物事に対して心から挑むという気持ちがないと、俺は言っているのだ」
「だったらなんだ」
「お前の表情は、どこかいつも諦めているように見える。挑むことを辞めてしまったら、人間は前には進めん。決めつけてしまったらそこで終わりだ」
 まるで刺されたように、弦一郎の言葉は俺の心を刺激した。ズキズキと傷むような感覚がしていた。尚も俺の目をじっと見据えて真っ向から対話をしようとする弦一郎の姿に、俺は奥歯をかみ締めた。
「…なぜだ」
「なんだ」
「なぜお前は俺の前に現れる?俺に声をかけても気のない返事しか返ってこないことなど、もう容易く予測できるだろう?頭が弱いのか?」
「……」
「俺がどれだけ冷たく接しても、お前はいつだって俺に声をかける。話がしたいのなら他の人間に声をかければいいものを!俺はお前に話すことなど何もない。お前に何がわかるというんだ!俺のことを理解してくれる人間などこの世には―――」
 まるで壊れかけていた俺を、弦一郎の拳が止めた。それが、俺が初めて受けた鉄拳制裁だった。弦一郎の固い右手の甲に叩かれた右頬は、夕日とは違う温度で熱くなっていった。
「―――…っつ、」
 痛かった。誰かに殴られたことは今まで一度もなかった。男児に生まれてきて恥ずかしい話だが、これまで掴み合いの喧嘩をしたことがなかった。初めて殴られたこと、痛み、そしてなぜかこれまで悩んでいたことすべてが閃光のように脳裏をかすめて俺を震わせ、頭に血を昇らせた。
 そして周辺に響き渡る、先ほどとは違う高く乾いた音。俺は勢いに任せて弦一郎に平手打ちを食らわせていた。
「……、」
 しかし弦一郎は、俺の手が飛んでくるのがわかっていたかのように耐えた。弦一郎が奥歯を噛み締めていたのは叩く瞬間にわかった。そして叩かれたあとも、静かに右を向いた顔をもとに戻すと何も言わずに俺を見据えた。
「すまない」
 俺は小さな声で謝った。俺自身、叩くつもりはなかったのだが自分を抑えることが出来なかった。自分をコントロールできなくなるなんて経験は初めてだった。もう何が何だか、俺は気が狂ってしまいそうだった。
「構わん。……むしろ望んでいたところだ」
 しかし弦一郎の言葉はおかしなものだった。望んでいたとはどういうことだ。
「お前が俺を殴ったことによって、俺は本当のお前を理解していける為の道が拓けたと思っている。自分を押さえ込むな。感情に素直になれ。耐えようのない思いは俺にぶつけてくれてもいい」
 だからもう、そんな悲しい顔をするな。お前はテニスが好きなのだろう。その好きなテニスの時間でさえそんな顔をしていては、元も子もあるまい。言われ、俺はハッとした。これまで俺は他人ばかりを見ていた。しかし俺が誰かを見ていたように、俺も誰かに見られていた。弦一郎という人物に、俺は見られていた。思い返す必要などないくらい、弦一郎は俺を気にかけて声をかけてくれていた。俺は自分が情けなく思えてきて、視界が滲むのを自覚した。

 そのあと俺は弦一郎と話しながら帰路を歩いた。今まで俺が抱いていた想いを。そして弦一郎に対して思っていたことを。弦一郎のその素直さが返って俺の惨めさを浮き彫りにするようで怖かった反面、弦一郎ならば俺を理解してくれるかもしれないと希望を抱いてしまったこと。しかしそれすら露見するのを恐れて弦一郎に冷たく接してしまったこと。俺は自分が愚かな人間であることを恥じているが、これからは堂々と恥じることができるな。俺が次々に口にする言葉に、弦一郎は確かに頷いてくれた。途中、寄り道した公園のブランコが冷たかったのを覚えている。
「なにを見ているのだ」
 部活が終わり、制服に着替え終わったあとも俺は帰宅せずに部室にいた。コート等のチェックをしてから部室に戻ってきた弦一郎が、俺の手元にあるものを凝視した。いつも俺の持ち歩いているノートとは違い、硬い表紙のもの。アルバムだ。
「見ろ、懐かしいな」
 近寄ってきた弦一郎に広げて見せてやる。そこには俺と弦一郎と幸村の3人で移っている写真があった。
「この頃の蓮二は髪が長かったな」
 写真の中でそっぽを向いている自分については興味もないらしく、大して面白くもない反応を返してきた。
「そうだな。しかし俺はこの頃の自分を打破するためにも髪を切って気合を示したのだ」
「しかしその時は幸村がうるさかったな。失恋したのかと」
 弦一郎の言葉に、女子でもあるまいしな、と笑いながらアルバムを閉じる。自分のロッカーにそれを仕舞い込むと、制服に着替える弦一郎に声をかけた。
「久しぶりに公園にでも行こうか」
「なぜだ」
「感情に理由など要るものか。行きたくなったから提案した」
「ふん、」
 その横顔はあの頃よりも歳をいくつも重ねたようなものだったが、俺はそんな弦一郎の横顔にすら心を落ち着けることができるようになっていた。ある程度、互いの感情が読み取れる関係がとても心地よかった。人間はひとりでなど生きていけない。誰かがいてこそ、笑えることもあるし悲しくなることもある。俺にとってその誰かが弦一郎であることを、嬉しく思う。

























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参謀はあれだ、頭おかしくなったら言っちゃいけないようなこと言っちゃう子だと思う。頭弱いのか?って\(^O^)/





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