目が覚めると、白い天井だった。消毒されきったような空間の中、視界の右側に誰かがいるのがわかった。ちらり、と眼球だけでそちらを見遣る。
「………」
 そこにいたのは、もう見慣れた顔だった。寝ているままというのも失礼だと思い体を起こそうとするとギシリ、とベッドが音を立てた。未だにうまく体が使えずに、筋肉が収縮して震える。無理をするな、と俺の背中に手をやって支えてくれた。温かかった。
「すみません、真田さん」
「ああ、かまわん」
 俺は一口、傍に置いたままにしていたペットボトルの水を飲む。残り四分の一程度になったそれを再び元の場所へと置き、いつからそこにいたのかわからない真田さんへ頭を下げる。
「いつからいました?俺、ずっと寝てたみたいで」
「案ずるな。さっき来たばかりだ。今日は体調もよさそうだな」
 ほんの少しだけ真田さんが笑う。最近ようやくこの人の表情の区別がわかるようになってきた。普段は厳しく怒ることも多いらしいが、今の俺に対してそんな顔をしたことはない。そもそも、記憶がなくなる前は日常的にかなり怒られていたらしいが。

 そうだ。俺は、記憶喪失になったらしい。一番古く覚えているのは、この病室で目が覚めたこと。その時はたくさんの人が俺のまわりにいて、医者からたくさんの質問を受けた。自分の名前さえわからずに自分自身で戸惑ったが、何よりも俺が所属していたらしいテニス部の人たちが悲しそうな顔をしていた。両親の話からも、よくテニスの話題が出てきた。俺は相当テニスに執着していたらしいと予想はついたが、白い頭の人に「お前さんのラケットじゃ」と言って渡されたラケットを握ってみても何も感じなかった。黒い塗装に白地でメーカー名の書いてあるそれは、かなり荒く使っていたのか綺麗ではなかった。
 前に一度、部長である幸村さんと、真田さん、あと糸目の柳さんの三人で見舞いに来てくれたことがあった。その時は、何か自分でも言い表せないような感情が胸の中にうずくのを感じたが、そのことを正直に話すと柳さんが考え込むようにして「お前は俺たち三人には特に闘志を燃やしていたからな」と教えてくれた。

「今日はお一人なんですね」
「む?ああ、すまないな。他の者も一緒のほうがよかったか?」
「ああ、いえ、そういう意味で言ったわけではなくて、」
 自分の発言に少しばかり反省する。見舞いに来てくれるテニス部の人たちは、みんな俺の発言に驚いたような顔をした。それが不思議で、先日丸井さんという赤い髪の人に尋ねてみたところ「お前は先輩にも遠慮なしな失礼なやつだったからな。今みたいに正しく敬語使ってると変な感じがするんだよ」と言っていた。
「真田さん、」
「なんだ」
 しっかりと目を見る。真田さんの視線はいつも鋭くて、黙って見ていると怒られそうな気がしてくる。
「俺って、どんな人間だったんですか」
 でもその瞳の奥には、鋭いだけではない、確固たるものが存在している。それは弱いものでも優しいものでもない、とても強いものだ。この人の立ち振る舞いのひとつひとつを見ていても、迷いが感じられないのはそのせいだろうか。
「む…そうだな。猪突猛進、思い立ったらすぐに行動するやつだった」
「そう…だったんですか」
「ああ。己の感情に素直だと言ったほうが適切かもしれないな。お前は感情がすべて顔や態度に出る。一見迷惑なタイプだが逆に扱いやすい。嘘をつかれることほど屈辱的なことはないからな」
 真田さんはそこまで言うと、そうだ、と何か思い出したように自分のバッグを漁りはじめた。そして一枚のファイルを取り出すと、その隙間から紙を引き抜いた。
「?」
「ほら、これを見てみろ」
 差し出されたその紙を受け取り、まじまじと見つめる。
「この文章を読んでみろ」
 そして指差された文章。それは紛れもない英語というやつで、一瞬頭が真っ白になった。
「えーっと……てる、みー、ほわい、ど…ゆー、らん?」
「ほう。読めるのか。その先も読んでみろ」
「ゆーせい、ゆあー、そー……あ…?」
「ashamedだ」
「あしぇいむど?」
「…ある程度読めるようだが、発音も何もあったものではないな」
 ふ、と息を漏らすように笑う。その笑い方は柳さんもよくするものだった。
「意味はわかるのか?」
「え?いや…すみません、さっぱりわかりません」
 へらり、と笑ってみせると、真田さんが俺の手から紙を取った。見据えて、その口が開く。
「Thought if I figured out the mess you made Then I'd leave.」
 すらすら、と、顔に似つかわしくないほどのスピードで読んでしまった真田さんを、目をパチパチさせながら見つめる。何と言ったのかわからないけどすごいなぁ、と思っていると、ふと目が合った。
「訳をすると…"あなたの混乱が解消されるまで私は傍を離れまいと思っていた"だ」
 訳さえもすらすらと述べてしまうことに感嘆の吐息を漏らしてしまう。真田さんの手ごとその紙を引き寄せてもう一度文章を確認してみるが、まったくわけがわからなかった。
「すごいですね真田さん。英語できちゃうんですね!」
 たぶん今の俺の目はきらきらと輝いているのではないだろうか。
「ふ…蓮二の言った通りだな。記憶が消えても、やはりお前は赤也だな」
 不意に俺の手から真田さんの手の感触が消える。あ、手を握ったままだったと思い腕をおろす。再びその紙はファイルに仕舞われ、そのファイルはバッグの中へと消えていった。
「赤也、お前は全科目の中でも英語が一番苦手だったのだ」
 バッグを覗いていた顔が再びあげられ、目を見据えられる。
「そうなんですか…」
 言われて、確かに自分の頭は英文を見たとたんに働きが鈍くなったように感じたのを思い出した。
「それで…れんじって、柳さんのことですよね?柳さんが何を言ってたんですか?」
「む?ああ…蓮二が"記憶と学習機能は関係ない。ともすればきっと今の赤也も英語が苦手なはずだ。何なら試してみろ、この文章など決して読めるはずがない"と…」
 前に幸村さんが言っていた。柳さんは立海一の頭脳派で、周囲からデータマンと位置づけされている、と。柳さんはテニス部メンバーの情報を知り尽くしていて、頭脳で彼に敵うものはない…(あ、でも仁王さんのペテンに関するデータは自信がないって言ってた)らしい。そんな柳さんが『決して読めるはずがない』と言っていたとなると…俺はそんなに英語ができないのだろうか。そう思うと少し恥ずかしくなった。
「俺ってけっこうダメな人間なんですね…」
 複雑な心境だ。
「そうでもあるまい。まぁ、俺にしてみれば決して立派な人間とも言えないが…」
「いえないが?」
「お前は向上心の高いやつだ。俺たちの予想を遥かに超えてお前は成長を続ける。そのことには毎回のごとく驚かされている」
 そしてまた、ふ、と笑う。丸井さんや仁王さん、ジャッカルさんたちがよく言っていた。『お前はいっつも真田に怒られてたんだぜ』『悪ガキじゃったからのう』『おい、お前らのおふざけに混ざってただけだろうが』その後ろで紳士な柳生さんが苦笑していたことからしても、俺が相当やんちゃだったことは事実らしかった。よく無茶をしては真田さんに見つかって怒られて、鉄拳制裁を喰らっていたらしい。そもそも記憶がなくなるほどに頭を強打したのも、三階の窓から身を乗り出していたところ、バランスを崩して外に落ちたのが原因だったそうだ。途中、木がクッション代わりになって全身強打はまぬかれたが打ち所悪く記憶が飛んでしまったのだ。実質は記憶が飛ぶほどの衝撃にも関わらず脳に損傷はなく、身体も麻痺などなく動かせるが。ただ目覚めるまで長く眠っていたせいで筋肉がうまく動かなくなっていた。
 まぁそうやって色んな人から俺の生活態度について話を聞かされるたびに、最終的に真田さんに怒られていたという結末になっていたので、最初のうちは真田さんは怖いひとなのではないだろうかと思っていた。滅多に笑わないし、口調もなんだか年齢に似つかわしくなくて、もしかして目の敵にされているのではないか、とか。でもこうして話しているうちに、そんなものはただの勘違いだったことに気づかされた。実際に真田さんはとても厳しい目をしているが、その奥に慈悲が含まれている。記憶のなくなった俺に怒鳴ることなど一度としてなかったし、今さっきの英文のやりとりの合間に、ふと安堵したような表情すら伺えた。表立った優しさではないけれど、見え隠れする慈悲を前に、俺はこの人を尊敬していたのではないだろうか、とすら思えた。
「…どうだ、赤也。もう一度テニスをする気はないか」
「え?」
「我が立海大テニス部のレギュラーともなれば、正直他校の者とはレベルが違う。かくして二年生にして唯一レギュラーだったお前だぞ。きっと素質というものは記憶が消えたとて拭えまい。願えるならばもう一度、お前にテニスをしてもらいたいのだが」
 とても真剣な目だった。
「まぁ、まだそれほど激しい運動は許可されていないだろう。今はラケットを握るだけで構わん。テニスに挑む気になったらいつでも言ってくれ。場所も確保してやろう」
 その目が不意にそらされる。目線の先はバッグで、その持ち手を掴んだところだった。衣擦れの音だけさせて、その長身が立ち上がる。
「では、そろそろ失礼させてもらう」
「あ、はい。いつも来てもらってすみません」
 俺が頭で少しだけ会釈をすると、俺が来たいから来ただけだ、と言って頭をぽん、と撫でられた。その表情は微笑んでいなかったが、優しい目をしていた。
「ああ、あとこれをひとつやろう」
 バッグからサッと取り出したのは黄色いテニスボールだった。
「え?」
「ラケットのみあってもテニスは出来ん。ボールを触っているうちに何か感覚を思い出すかもしれん」
 ではな、とそのまま背を向けて、引き戸を静かに開けて真田さんは去っていった。その戸を幾分か見つめたのち、渡されたボールを手に、もう片方の手で立てかけておいたラケットを取る。グリップ部分にはにわかに凹凸ができていて、そこに合わせて握るととても握りやすかった。以前の俺は強い握力で握り締めていたらしい。そのための凹凸だったようだ。ラケットヘッドは少しかすり傷がついている。ひきずったのだろうか。
 ちらり。ボールを見る。新品ではない。少し使いこまれたようなものだった。右手に持っていたラケットの面の上にぽん、と乗せてみる。するところころ、面の上をゆっくり転がって、フチで一度止まったが乗り上げて布団のうえにポス、と落ちた。それを再び左手で掴む。まじまじと見つめる。ダンロップ。いくら英語の苦手な俺でもメーカー名くらいは読める。それでも最初は『ドゥンロプ』と読んでしまったが…
 一瞬、静かな水面に一滴の水が落ちるのを想像した。なぜ、初めてダンロップ製のボールを握ったときのことを考えたのだろうか。そのボールを手にし、書いてあるメーカー名を睨みながら「ドゥン…ロプ、」と呟いて、そばにいた大人の人に「ダンロップっていうメーカーだよ」と教えられたのはいつの話だろうか。小学校に上がる前だったはずだ。その記憶が、なぜ、今。
「………」
 左手が、無意識に動く。俺は、このボールの握り方を知っている。爪を立て、あらゆる方向から圧力をかけることでボールが不規則な回転になり、このボールを打つことでバウンドした際に跳ねる方向が全く予測のつかない打球になる…俺は知っている。ナックルサーブだ。
 俺はまさに、ナックルサーブを打つときに握るように五本の爪を立てた握り方をしていた。すると音もなく、明確によみがえる全て。そういえばこの間の定期考査、英語の点数が一桁だった。せっかく隠してたのに仁王先輩が見つけてしまって真田副部長に報告されて、それから俺はこっぴどく怒られて、幸村部長が俺の答案用紙を見ながら爆笑してて、あー、で、それから丸井先輩と打ち合ってたら妙技に翻弄されてむかついて、目が充血してきて、そしたら柳先輩に連行されて目薬を差されて…

 ガバッと布団を剥がして起き上がった。窓にすがり付いて鍵を開ける。吹き込む風は弱く、カーテンをゆっくり揺らした。眼下に広がる外の世界。その中に、黒い帽子の学生を見つけた。何を思ったのか、その帽子の人物がタイミングよくこちらを見上げた。俺は空気をたくさん吸い込み、窓枠に手をかける。
「真田副部長ー!!俺、テニスやるッス!あんたを倒すまで、俺やめないッスから!!」
 するとそれを聞いた真田副部長が血相を変えて走り出した。その方向は、今まさに出てきたであろう入り口の方。俺は窓を閉めて鍵をかける。部屋を振り返って、布団から降りるときに放ったラケットをまた手に取る。そう、このラケットヘッドのかすり傷、コートの上で作ったんだ。試合中、相手の集中力を邪魔するためにコートにこすりつけた。
 ガラッと引き戸が開けられる。
「赤也!あのような大きな声を出すな!ここは病院だぞ!」
 そんなこと言ってる副部長もかなり大声ですよ、なんて言葉を言おうとしている俺の顔は、笑っているに違いない。



























***

記憶喪失中、真田が優しかったことを後にネタにしちゃうんでしょうね、赤也ってやつは。





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