昨日、真田たちが見舞いに来てくれた。何回目だろうか、数えたことはないけれど、こんな離れた病院によく足を運んでくれるものだ。交通費も時間もかかるだろうから無理して来る必要はないんだよ、と一度だけ言ったことがあるけど、それでも長く期間を空けずに訪れてくれることに俺は嬉しさや安らぎを感じていた。
 みんなが病院に来るときは人数的にはバラバラだ。誰かがひとりで来ることもあれば数人で来ることもあるし、昨日のようにほぼ全員揃った状態で来ることもある。こうちょくちょく来られると話すこともほとんど限られてきて、その日の身体の具合はどうだとかどんな検査をしただとか、最近のレギュラーメンバーの様子や練習試合の結果とか。大きな変化は特にない日常の会話だけど、それでも俺は必ず尋ねることがある。
『赤也はどうしてる?』
 俺が倒れてから一度も赤也は見舞いに来てくれたことはなかった。あれこれ理由をつけて逃げ回っているらしい。それに関して俺はなんとも思わないし、赤也らしいような気もしなくもない。でも正直なところ、やっぱり顔を見たい。これだけ他のメンバーが来てくれていると、余計に気になってきてどうしようもない。柳に聞いても真田に聞いても、ショックを受けているようだ、とだけ言われることが、逆に会いたい気持ちを強くする。俺が倒れてすごくショックを受けたのはわかったけど、つらいことからただ逃げて回るというのは何か違うんじゃないかと思うから。赤也には、そういったものを乗り越えての本当の強さを身につけてほしい。
 俺はふと窓の外を見た。どんよりとした厚い雲は雨を降らすわけでもなく空を覆っている。圧迫された空気は窓ガラスで遮られ、吸い込む空気はとても冷たく乾燥していた。歩道を歩く人の片手に傘があって、夜から雨が降るのかもしれないと思うと自分の腰から脚にかけてある布団を引き寄せた。そのときだ。
 カツ、と、軽い音がした。俺はこの音をよく知っている。もう随分と聞きなれてしまった、引きドアの埋め込み式の取っ手は金属でできていて、手をかけると爪とぶつかって軽い音がする。しかし大抵の人…看護師さんや真田や柳に柳生であるなら、まずノックをするはずだ。仁王や丸井は予告なくドアを開けることが多い。ジャッカルにおいては、前に一度だけひとりで来たことがあるがその時はとても控えめなノックをしてくれたような気がする。でも今まさにドアの前にいる人間は、取っ手に手をかけたにも関わらず一向にドアを開ける様子がない。
「赤也」
 俺は声をかけてみる。その名前を呼んだのは直感であったし、もしくは願望だったかもしれない。すると数秒空けてから、ゆっくりとドアが開けられた。
「…よく来たね」
 そして現れた、記憶と合致するウェーブのかかった髪。あまり伸びていないような気がする。その頭に触れたくなって、俺は両手を布団の上に出して待ち構えた。
「……」
 しかし赤也はドアを開けたままの姿勢から動こうとしない。視線は床に落ちていて、いつもの赤也とは違うオーラを纏っているようだ。なんとも複雑そうな顔は、自分の中でなにか格闘しているような印象すら与える。
「いつまでそこに立ってるつもりだい?こっちへ来なよ」
 とりあえずいつまでもドアを開けたままのポーズでいられると他の人に迷惑がかかるので声をかけた。するとゆっくりと後ろ手にドアを閉めてから、やはり視線は合わせないまま荷物を肩からおろして、横にあった丸椅子に座った。
「赤也」
 すっかり黙る赤也の髪に触る。いつもなら即座に嫌がるが、今日はそんな余裕すらないらしい。おとなしく髪を触られた赤也は、自分の両膝に置いた拳を見つめている。俺もそんな赤也を見つめてみたが、言葉を発する様子は微塵も伺えなかったので諦めて天井を仰ぎ見た。白い天井に埋め込まれている蛍光灯の光は淡く、見ていると眩しく思えてきて静かに目を閉じた。
「…ここのところ少し体調がいいんだ。昨日は朝から院内を少し散歩したんだよ。そしたら車椅子に乗ってた年配の女性に話しかけられてさ。あなたの髪はきれいねって言われちゃったよ。俺のこと女だと思ったみたい」
 薄く目を開けて、俺は自分の手のひらを広げてみた。長くテニスをしていないけれど、未だに残る痕。以前より少し薄くなっている気がする。またラケットを握ることができたら、血マメだらけになるんだろうなぁ。
「まぁ俺も結構痩せたからね、女に見えるのも仕方ない気はするよ。入院したばかりのときなんて一人で歩けないことだってあったんだよ?情けなくてたまらなかった。終いには食事中にスプーン落とすしね。あの時はまだ検査中で、正しい薬が判断できなかったときだったから」
 今でも思い出す。箸がうまく扱えなくて、スプーンを渡されたけど上手くつかめずに落としてしまったんだ。右手にも左手にも力がうまく入らなくて、笑おうとしても全開の笑顔にはなれなくて、体中の筋肉が鈍ったような感覚。動け動けって命令してるのに、まるでストライキでも起こしたようにどの筋肉もうまく働いてくれなかった。
「だけど今はちゃんと箸を使って食事ができるし、少し歩くくらいなら心配いらないって言われてる。あと一回手術があるんだけど、それがうまくいけばリハビリ次第でかなり動けるようになるらしいよ」
 俺は一度も赤也を見ないまま、深く深呼吸をした。また目を閉じてみる。そこには赤い闇が広がっていた。
「…俺、もう一度テニスがしたい」
 それだけ、ひとこと。はっきりと言うと赤也が顔をあげたような気がして目を開けた。
「俺はやるよ。引きとめられようと、必ずまたテニスコートに立つ」
 言葉の最後に赤也を見る。するとその大きな瞳と目が合った。俺がそれを確認してから、やっと目が合ったね、と少し笑ってみたら赤也の瞳に涙が溢れてきた。
「幸村部長…」
 そしてまた顔を伏せて、目元を一生懸命手で拭う。肩は小さく震えだしている。俺は雨の日に道端に捨てられている子犬を想像した。
「俺、すごく驚いたんッス。詳しいことはわからないッスけど、とにかく身体が動かなくなるって聞いて…まさかと思ったんスよ。ギランなんとかって難病によく似た病気だっていうから…なんていうか…どうしようとか、なんでだろうとか、そういう気持ちでいっぱいになって…そしたら幸村部長に会うのが怖くなってきて、」
 嗚咽混じりに話す赤也の頭をぽんぽんと軽く撫でる。ゆっくりでいいよ、と諭すように。
「真田副部長たちの話を聞いて元気だって知ってたんスけど、でも俺が見舞いに行った時にすごく弱ってたらどうしようとか考えて…俺はまだまだ未熟ッス。こういうとき、どうしたらいいかわかんないんッス…ただ俺の中で気持ちがぐるぐる回るだけで、どうしようもないんッスよ…」
 涙声が病室に響く。嗚咽が混じって、壁に反射した声よりも先に俺の耳に届く。赤也の髪を触るのをやめて、両手を揃えて布団の上に置いた。
「どうしたらいいのかわからない…か」
 赤也の嗚咽の合間にぽつりと呟く。一生懸命に涙を拭っていた手を止めて赤也が顔をあげる。俺と再び目が合うと、その目は驚いたように少しだけ開いた。
「……部長、」
 不意にそれが気になって、赤也の目から視線を外して窓のほうを振り向く。そこにうっすら映る自分の顔は、悲しい顔をしていた。ああ、情けないな。男のくせに、こんな顔をして。
「俺もどうしたらいいかわからないんだ」
 そして出た声も、震えはしなかったが囁くように小さかった。
「……」
「でも赤也。俺もわからないけど、今日赤也が見舞いに来てくれたおかげで赤也の…赤也たちのやるべきことはわかったよ」
 俺は自分の情けない姿を振り払うように、少しだけ空元気にまた赤也のほうを振り向く。しかし赤也の心配そうな表情は解けなかった。
「俺たちのやるべきことッスか」
「ああ、そうだ。赤也たちのやるべきこと」
 言って、赤也の膝の上に置いてあるその左手を掴んだ。俺は身長の割りに手が華奢で、赤也は身長の割りに少し手が大きかった。だから大きさ的に対して変わらないような手だったけど、赤也の手はとても温かかった。
「俺のいない間も、無敗を守ってくれ」
 ぎゅ、と。思いがすべて伝わるように、確かに握った。拳を上から握るだけだったが、赤也も力強く頷いてくれた。
「じゃあ、幸村部長、約束しましょうよ」
「約束?」
「はい。必ず戻ってきてくれるんでしょ。約束してくださいよ」
「ふふ…いいよ。約束する」
 そしてその瞬間、俺の中の迷いがすべて消えた気がした。死を感じたこともあったし絶望もした。テニスも仲間も何もかも捨ててしまいたいとすら思ったこともあった。思い通りに動かない自分の体に苛立ちを覚えても、暴れて怒りを表現することすら許されなかった。しかしそれでも、やはりテニスがしたいという思いが深く根を張り、絶望と希望に揺れていたこの心。今、約束をしたことで、俺には義務が生まれたのだ。生きて、またテニスをするという義務が。どうしたらいいのかなんて、迷うことはもうない。俺は約束をしたのだから。
 さっきと打って変わって笑顔の赤也を見ながら、俺も嬉しくなって笑みをこぼした。






























***

私の尊敬する人も、難病を宣告されました。とても軽度でしたがそれを知った時の絶望感といったら…うん。なかなか書き表せるモンじゃないんすよ。




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