DAYBREAK(2)
その日、某国は上から下まで混乱に満ちていた。上層部の混乱はしかし細部まで一般兵のところまで届いておらず、今日は何だか忙しないなぁという感想があちらこちらで漏れている。
「なぁ、この騒ぎは何なんだよ?」
「俺も良く知らねぇよ。ただ、小間使いの女たちが、何やら重要な客が来たとかでその支度にてんやわんやだって愚痴ってたぜ」
「来賓だったのか? 潜入している隠密部隊の連絡途絶えたって、軍略課の奴らが慌ててたけど」
「はあ? それが本当だったらまずくないか?」
城壁警備をしていた兵士たちは、そんなこと囁き合う。彼らは一層騒がしい音が聞こえると、丸めていた背を伸ばして姿勢を正した。遠くから、来賓が到着したと高らかに告げる声が、聞こえてくる。

「お初にお目にかかります。私、ニチデの国の外交担当、トラゾーと申します」
屈強な数名の護衛を連れた、同じく体格の良い男は、目を隠すほどに深くかぶった白い帽子の下から唯一見える口元をニコリと動かした。某国の外交担当である男も名乗って頭を下げながら、トラゾーと名乗った男の一挙手一投足を見つめる。勧められたソファに腰を下ろしながら、トラゾーは小さく肩を竦めた。
「この帽子については、ご無礼をお許しください。昔の傷が残っていまして」
「ああ、いえ……こちらも不躾でした」
男は慌てて言葉を重ね、自身もソファへと腰を下ろした。
「突然の訪問も申し訳ありません。火急の用事でしたので」
「……まぁ我が国も時間があるわけではありませんので、手短にしていただければ……」
男の言葉が終わらぬうちに、トラゾーは紙の束を机に落とした。チラリと男が視線を上げると、紙を手に取るようトラゾーは手を動かして示す。コホンと咳払いを一つ、男は眼鏡を正しながら紙の束を取り上げた。
一頁二頁紙を捲り、そこに綴られた文字を目で追うごとに、男の顔が白く色を失くしていく。遂には手が震え、しっかり束ねていなかった紙が数枚、机に散らばった。
「これは……どういう……」
丁寧に紙を拾って男の方へ差し出しながら、トラゾーは口元をニヤリと歪める。
「楽しい愉しい、外交のお話を始めましょうか」


まずいことになった。手引きした隠密部隊は、全て捕えられたと衛兵が話しているのを聞いた。慌てて本国へ連絡を入れたが、どうも通信機の調子が悪い。早くこちらの劣勢を伝え、対策を講じないと――
「あ、やっぱり君か」
影で必死に通信機を操作していたから、辺りへの注意が散漫になっていた。いや、それでなくても『彼』の気配を探ることは、並の兵士では難しい。それほど彼は気配が希薄で、足音も静か――薄暗がりからこちらを覗く瞳孔まで細く、まるで猫のよう。
「対象をここ最近採用した人に絞って正解だったな。……まぁ、それでなくても、君には消しきれていない『臭い』があったから、遅かれ早かれ目をつけていたとは思うけど」
ガクガクと顎が震える。ギュッと両手を握りしめて、汗の浮かんだ手の平に通信機を押し付ける。動きやすさを重視した召使服をすっかり床につけた状態で、その場から動けなかった。
独特なフードがついた上着を羽織った男は、確か隠密班を統率する幹部だった筈。名前と、普段よりフードをしっかりかぶっていること、その服装や言動から他の幹部たちに猫扱いされていることくらいしか、この小間使いは探ることができていなかった。
クロノアは上着のポケットに手を入れたまま、緩やかな足取りで座り込む小間使いに歩み寄る。そのポケットから何を取り出すのか分からず、彼女はカタカタと震え出した。
「クロノアさーん、見つけたー?」
「ぺいんと」
クロノアの背後から、呑気な声が聞こえる。照明の当たる位置から顔をのぞかせたのは、暖色の髪をした男だ。確か、軍略班を束ねる幹部だ。クロノアよりよっぽど実践経験が少なく、デスクワーク派だと公言する男。幹部たちの中では医療班班長のしにがみと並んで、戦闘力が低いと一般兵でも知っている。
クロノアがぺいんとの方へ視線を向ける。その一瞬の隙をついて、小間使いは地面を蹴った。ピクリと本物の耳のようにクロノアのフードが動く様子を目の端で捉えながら、小間使いは長身の彼の脇を潜り抜け、ぺいんとの背後へと回る。やはり反応速度はクロノアよりも遅い。ぺいんとの首へ腕を回すと、少し身長差があった彼の身体を引き倒し、膝をつかせる。グッと息の詰まった喉へ、スカートの裾に隠していたナイフを突きつけた。
「動くな!」
振り返ったクロノアが、動かしかけた足を止める。彼が両手を肩まで上げたことを確認して、小間使いはぺいんとの襟首を引き上げた。
「ぐ……すみません、クロノアさん……」
「気にしないで。ちょっと不注意だったとは思うけど」
「無駄話をするな!」
「……君の目的は、ここからの生還かな? この国に潜り込んでいた仲間は、全員捕えたから」
小間使いは歯噛みをしながら、クロノアを睨みつける。このままただ国へ帰ったとて、仲間を失い任務失敗した自分に待っているのは死のみ。ならば少しでも国へ報いるために、幹部の首の一つを持って帰るべきである。
「……この男の首と胴体を切り離されたくなければ、その場に膝をついてもらおうか」
クロノアは表情を変えず、その場に膝をつく。続いて手を地面へつけるよう言うと、それも大人しく従った。「クロノアさん……っ」焦ったように喋り出すぺいんとの口元へナイフの刃先を近付け、引きずるようにしながらクロノアの方へ歩み寄る。
手をつくことでフードの影が顔に落ち、そこから翡翠色の瞳がこちらをじっと見上げてくる。恐怖や憐憫など微塵もない、無機質な色に恐れよりも不気味さが先だった。
「っ!!」
思わず、小間使いはクロノアへ向けてナイフを振り上げていた。ザシュ――銀の一閃が煌めき、ついでパタパタと赤い雫が床を汚していく。
小間使いは、目を見開いた。
ナイフが切り裂いたのは、クロノアの右頬から前髪にかけて。頬に赤い線が入り、翡翠の目が僅かに細められる。パサリと、ナイフがフードの端を切った衝撃で外れ、クロノアの背中の方へ落ちていく。
唇を震わせる小間使いの目の前で、乱れた髪を正すように数度首を振ったクロノアは静かな瞳で再び彼女を見やった。
「……なんだ、お前、それ……っ!」
小間使いは震える瞳で、彼の頭上――銀に近い白髪から伸びる三角の耳を見つめた。
そちらに気を取られた一瞬、彼女は強く襟首を引かれて背中から床に叩きつけられた。小間使いの腹へさらに膝を乗せた行動を制限させたのは、つい先ほどまでナイフを突きつけられていたぺいんとだ。
「すんません、隙をつくつもりが、悠長にし過ぎました」
「気にしないで。俺も油断してたし」
クロノアはフードをかぶり直す。視界に入る範囲に切れ込みがあることを見つけると、少々残念そうに眉を下げた。
「お気に入りだったのになぁ」
「それくらい、簡単に繕えるでしょ……トラゾーとかが」
軽口を叩きながらも、ぺいんとの膝は腹を、手は首元をきつく締めあげる。呼吸がし辛くて、小間使いはヒクリと痙攣した。
「ばけ……もの……」
「……そうしたのは、お前らだろ」
それは、どちらの声だったのか。酸欠によって霞んでいく瞳では、こちらを冷たく見下ろす琥珀色だけを捉えることができた。
「……トラゾーには、しっかりお灸をすえてもらわないとね……」


「クロノアさーん、ぺいんとさーん?」
「あ、しにがみー」
「ここにいたんですねー……って、クロノアさん、どうしたんですか?!」
ヒョイと顔を覗かせたしにがみは、クロノアの頬から流れる血と切れこみの入ったフードを見てぎょっと目を見張った。クロノアは今思い出したと言うように「あ」と声を漏らして、自分の右頬へ触れる。しにがみが袖を引くと、彼に傷口が見えるよう腰を屈めた。
「うわ〜結構大きいですね」
「縫う?」
「スパッと表面切っているので微妙なところですけど……テープでいけるかな? 傷跡は残らないと思います」
取敢えず応急処置だと言って、しにがみは腰に下げていたポーチからガーゼを取り出すと、丁寧に傷口を覆った。
「一般兵たちはこの辺りに近づかないように、なんて指示して何しているのかと思えば……って、その人誰ですか?」
しにがみは眉を吊り上げながらぺいんとの方を見やり、そこで彼の足元に転がる小間使いの姿に気が付いて目を瞬かせた。ピクリとも動かない身体を放置して、ぺいんとは凝った肩を解すように回しながら立ち上がる。
「ほら、地下水脈にちょっかいかけようとしていた隠密部隊を手引きした、スパイだよ」
しにがみはますます目を丸くした。「彼女の捕縛のために、人払いしていたんだ」とクロノアが付け加えると、グルンと首を回して彼を見やる。思わずクロノアがビクリと肩を飛び上がらせると、今度はぺいんとの方へグルンと首を回す。痛いところのあるぺいんとは、ギクリと身体を強張らせて「な、なんだよ……」と言葉を詰まらせた。
「まぁた無茶して! クロノアさんの頬に傷がついているってどういうことですか! しかもフードまで切れているし!」
「それに対しては、すまん……そこのスパイ、独房に放り込んでおいて」
「え、ただの手引き役ですよね? いつものように他の捕虜と一緒に……って、まさか」
しにがみの顔が一瞬青くなる。ぺいんとは目を逸らしたまま、コクリと頷いた。しにがみはアメジストの瞳を大きく見開き、グッと唇を噛みしめた。「しにがみくん……」と声をかけようとしたクロノアへ返事もせず、しにがみはぺいんとの方へツカツカと歩み寄る。顔を背けたままのぺいんとは、グイと襟首を引っ張られて目を閉じた。
ぱちん。衝撃は思ったよりも軽く、しにがみとの身長差を加味したとしても随分低い位置だった。
「……え?」
「……ぺいんとさんも、首に傷あるじゃないですか」
しにがみは絆創膏の包装紙を手の平に握りこむ。
「きっちりした説明は、トラゾーさんの報告と一緒に聞きます。それに対する罰ゲームも、トラゾーさんと決めますから」
「……わり、しにがみ」
「そういうのも、そのときにまとめて聞きます」
それからしにがみはクロノアの方へ向き直って、しっかりした治療をするため医務室へ向かおうと手を引いた。クロノアは素直に腕を引かれ、コクンと頷く。
「ありがとね、しにがみくん」
「しっかり感謝してください」
フンと鼻を鳴らしながら、しにがみはクロノアの手を引いて歩いて行く。その背中を見送り、ぺいんとは足元で転がったままのスパイを見下ろした。
「……俺たちの世界は、誰にも壊させない」
ボソリと呟いた言葉は、誰の耳に届くことなく影へと溶けていく。
暫くして、しにがみの指示を受けた衛兵たちがスパイを引き取りにくるまで、ぺいんとはその場に佇んでいた。


数日後、ホクホクとした顔で帰還したトラゾーは、しにがみによってすぐに執務室に呼び出された。そこで城内で起こったことを聞いたトラゾーは口元を引きつらせ、静かに正座していたぺいんととクロノアはしゅんと項垂れるしかなかった。
「ギルティですよね」
「ギルティですね。ぺいんと8割、クロノアさん2割ってところかな」
「えー!!」
「俺、そんなんでいいの……?」
「兵士たちを追い払ってまで、二人が危険を冒す必要なんてなかったでしょ」
トラゾーの言うことは最もで、ぺいんとは言葉を詰まらせた。
「某国が、俺のことについてどこまで知っているか分からなかったから、ぺいんとは気を使ってくれたんだよ」
慌ててクロノアは言い募る。「俺が油断したせいもあるし」と付け加えれば、「それはそう!」としにがみとトラゾーから強い口調で言われてしまった。
「ま、向こうについては大丈夫そうですよ。こっちの情報については興味なかったみたいで、ガバガバも良いとこ。ウチに一番近い農村の権利書で手をうって、今回のことは不問」
ヒラリと取り出したのは、今回の外交訪問で作成したものだ。先ほどトラゾーが告げた内容が、しっかり記載されている――今回の事件の詳細を除いて。
それを受け取ってパラパラと目を通したクロノアは「うん」と小さく微笑んだ。
「帰りが遅かったのは、寄り道していたから?」
「ええ。どうせならお土産をと思って、ちょっと遠回りを」
トラゾーはいたずらっぽく笑い、荷物から取り出した菓子箱を机に並べていく。ぎゃいぎゃいとした言い争いの途中だったしにがみとぺいんとは、その気配に気づいてキラキラと目を輝かせた。
「おお〜。これ、W.R.D国の特産品じゃん! ロボロから聞いたことある!」
「わあ、気になっていたんですよね、これ!」
嬉しそうにトラゾーへ礼を言って、しにがみたちは早速包装紙を開き始める。
執務室に併設された給湯室へ向かったクロノアは、薬缶へ水をはり、コンロに乗せる。トラゾーが手伝うと申し出て、人数分のカップを並べていく。その様子を眺めながら、クロノアは紅茶缶の蓋を開いた。
「W.R.D国に寄ったんだ?」
「ええ。ついでに、いつもウチのぺいんとがお世話になってますって、ロボロさんたちにもご挨拶を」
「……挨拶だけ?」
「まあ、世間話はしましたね。最近あったこととか」
クロノアの手元にポットを置きながら、トラゾーはニヤリと歯を見せて笑う。クロノアはフッと笑って、匙で挽いた豆を掬った。
「……悪い奴らだなぁ」
「今に始まったことじゃないでしょ」
自分たちはいつでも悪ガキだ――トラゾーの呟きは、コンロの火が揺らめく音にかき消された。
クロノアは微かに目を細め、自身の『耳』と『尾』に意識を向ける。銀に近い白髪の間から覗く三角の耳は、特注のフードの下に。ユラリと伸びる尾は窮屈だがズボンとアンダーにしまいこんでいる。決して、無機物なアクセサリーなどではない。嘗てただの子供だった頃に、国主導の人体実験によって生み出された産物だ。
今は既に無くなった国で、四人はみんな同じ国の出身だった。四人で傭兵じみた仕事で食いつなぎ、辿り着いたのがこの国の基盤となった小さな街だ。
小さな街を圧政で苦しめる大国が、育った国と重なったから。手の届く範囲だけでいい、小さな日常の平穏を、守ることができたなら。4人の想いが一致して、数年後、大国からの独立という名目でこの国は生まれたのだ。
独立の先導を担った4人が政の中心となり、さらに総統や幹部を任されるのは、自然な流れだったと思う。けれど、無理やり大人のフリをするしかなかった子供たちには、少々荷が重いと思わないときもない。
トラゾーの言う通り、クロノアたちはあの頃の『悪ガキ』のままなのかもしれない。
「そうかもね」
小さく呟いて、クロノアは掬った豆をポットへと落とした。

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