DAYBREAK(1)
最近、成長目覚ましい国がある。一つの都を城壁で囲っただけの小国だが、これが中々どうして無視できるものではない。元領主の元首と、傭兵上がりの総統と幹部が中枢を担っているらしいが、かといって自国のような軍事国家ではない。自らの手の届く範囲を領地とし、多くを望まず、かかる火の粉は振り払う。そんな国なのだ。現状維持で精一杯なのだろう、とは自国の軍略課の意見である。
こちらにとっては歯牙にもかからぬ小国であるが、我が国の王はこの小さな芽がいつか国を蝕む荊になることを恐れている。
小さな国の一つくらい、こちらに利の大きい条約でも結んで取り込んでしまえばいい。しかしどうしたことか、向こうの外交担当は中々にやり手らしく、巧妙な不平等条約もすぐに見抜いて突き返してしまうのだと言う。そこで、隠密部隊である我々に任務が下された。
防壁は、一見堅牢だ。少ない兵士の数をカバーするためか、監視をしているのは無数の浮遊カメラであるが、故に死角はある。ハッキングまでしてしまえば、こちらのものだった。
先に潜入している仲間の話によると、一つの都をそのまま国にしてしまったここは、水源を地下水脈に頼っているらしい。そこへの通路は制限されており、警備も特に厳重化されている。しかし、水源が一つということは、水路もまた同じということだ。特に都の中心部の噴水から四方へ伸びているとのことだから、そこへ毒を垂らしてしまえば事足りる。
無味無臭の毒で、この毒による症状は風邪に似ている。しかし抗生剤は効くことがないから、緩やかに体力を奪われて死に至る。毒の検出は難しいだろうから、都では謎の伝染病が蔓延していると騒ぎになることだろう。そこで我が国から治療薬と称して解毒薬を提供するのだ、不平等な条約の締結を対価として。
既に噴水へ毒を垂らして三日。都の中心部では、少しずつ謎の病気によって床に臥す住民が増えていると聞く。念のため、さらに毒を追加しておこう。そう思い、噴水へと向かう。
そこには、先客がいた。
隙のない立ち姿からすると、軍人らしい。二人ともそれぞれ上着を羽織っていたので隠れていたが、よく見れば胸元に国章のバッジをつけていた。
水場で涼みに来た国民の振りをしながら、二人の会話へ耳をそばだてる。背の低い方が興奮気味に語りかけては、背の高い方が静かな相槌を打っていた。姿から言葉と振舞いまで、正反対の二人である。
「……で、ここ最近、妙に体調不良者が続いているらしいんです。抗生物質も抗ウイルス薬も効かないし」
「どちらも効かないってことは、ウイルスでも細菌でもないってこと?」
「新しい病原菌なのかも」
背の低い方は、医療の知識が豊富なようだ。よく見れば、羽織っている白いローブも、白衣のように見える。彼へ成程と相槌を打ちながら、独特な形のパーカーを羽織った背の高い方は、身を屈めて噴水を覗き込んだ。クン、と彼の鼻が動く。
「……成程」
「水脈に異常はないみたいですよね……もしかして、汚染されていて、それが原因なのかもと思ったんですけど……」
「そうだね……取敢えず、一度持ち帰って報告しようか」
「そうですね」二人は頷き合って、噴水から離れていく。
彼らの気配が消えたことを確認してから、噴水へ近づく。澄んだ水面からは、飲んだ者を緩やかな死へ導く毒が漂っていることなど、億尾も感じられない。そっと、水面へ手をつけて涼をとるふりをしながら、手首に隠していた毒入りのカプセルを水底へと落とした。カプセルが溶けて見えなくなったことを確認してから、手を引き抜く。
ゾクリ――唐突に、背筋が泡立った。筋肉が硬直する。殺気とは違う、こちらを探るような視線。辺りへ視線を走らせるが、日常生活を送る国民が数人、まばらに歩いているだけでこちらを見つめるような人間は見当たらない。建物の影に隠れているのか。気配を追いかけようとしても、すでに視線は消えていた。
「……なんや」
そう言えば、先ほどの二人は、軍の中ではどの程度の立ち位置にいるのだろうか。ただの一般兵にしては独特な服装をしていたし、白衣の方は実際に患者を診たような言い方をしていた。医療班の兵士が、上官へ報告する前に他部署の知り合いへ事実確認の協力を仰いだといったところだろうか。不自然なことではない。
しかしどうも小骨が刺さったような感覚が、その後も残り続けていた。
潜入して一週間。
あれから市井で患者が増えたという話も聞こえなければ、死者が出たという騒ぎもない。城へ潜入している者からの報告によると、例の幹部の中に医学を心得ている者がいて、そいつが進行を遅らせる治療薬を開発したらしい。それでも完治――つまり完全解毒までは至っていっていないようだ。まだ、こちらの方に利はある。
ここでさらに有利を得るため、地下水脈へ毒を流すことにした。半年も前から王城へ小間使いとして潜入していた仲間からの情報によると、城は妙にダクトが多くその内部も入り組んだ迷路となっているらしい。その仲間は何とか地下水脈のある地下へ続くダクトの道を見つけ、こちらへ地図として渡してくれた。正直、これがなければ今回の作戦は決行できなかった。
幹部と総統は他の兵士たちとは違う厨房で食事を作っているらしく、毒を盛ることは難しい。それでも大鍋へ睡眠薬でも放り込んでおけば、大半の兵士たちは行動不能にすることができる。それは、小間使いの仲間が担ってくれた。
ダクトを使って、二人の仲間と共に地下へと降り立つ。ここへ来るまでの警備が厳しいせいか、扉の施錠は錠前一つだけだった。それを開き、音を立てぬように中へと足を踏み入れる。
「そこまでだ」
――そこで、一度この音声記録は途切えている。
まずは背後を警戒している二人を、頭上から降り立った勢いで投げ飛ばす。それから、仲間が行動不能になったことに気が付かない一人へと声をかけた。途端、よく訓練された侵入者は腰の短刀を引き抜き、クロノアへ向かって投げつけた。
さすがに切り傷は痛い。ヒョイと身を傾けて除け、男の腕を掴む。ギリ、と歯を噛みしめた男は、懐へ入れていたもう片方の手を引き抜いて、クロノアの顔面へ突き付けた。
プシュ――軽い音がして、クロノアの視界が一瞬ぶれる。白い霧状の液体がクロノアの顔を濡らし、薄く開いた口や鼻、目から体内へ入り込んでいく。
「クロノアさん?!」
クロノアとは違い、正規の道筋でやって来たしにがみが、丁度この場面を見たようで慌てた声を上げる。そちらに男が気を取られた隙に、クロノアは腕を掴んだまま、もう片方で襟首を掴み、彼の身体を地面へと引きずり倒した。
「しにがみくん、その二人も拘束できる?」
「え、は、はい!」
ホッと安堵したように胸を撫でおろしていたしにがみは、ハッと我に返って、持ってきていた手錠を気絶する男たちにかけていく。
「なぜ……カバも行動不能になる毒霧の筈……」
「あ、やっぱそっちは正真正銘の猛毒だったんだ」
クロノアが引き倒した男が、痛みに呻きながら睨みつける。クロノアは「悪いけど」と軽く目を細めた。
「俺は君たちと同じような人間だから、毒とか薬は効き辛いんだ」
「おかげで風邪薬も効きませんけどね」
少々怒ったような口調で、しにがみが口を挟む。それよりも、とクロノアは話を変えるように男の襟首を引き上げた。
「ウチの水源へ入れようとしていた毒は、噴水に入れていたものと同じだよね? その解毒薬、持っている?」
「……」
「だんまりかぁ。尋問って苦手なんだよな。俺の役割でもないし」
軽い調子で言いながら、クロノアは男の懐を探って、カプセルの入っていたピルケースを取り上げた。カラリと振って中身があることを確認すると、それをしにがみへ向かって放る。しにがみは一回手の中でバウンドさせたものの、無事取り落とすことなく受け取った。
「確か、噴水に入れていたのと同じものだよ。それで大丈夫そう?」
ピルケースから一つカプセルを取り出して眺めてから、しにがみは「はい」と頷いた。
「ある程度の成分は予測できたので遅行薬はできましたが、完璧じゃなかったですからね。これで完璧な解毒薬ができますよ」
パチン、と音を立ててしにがみはピルケースを閉じる。ニヤリとした笑みを浮かべて男を見やると、彼は怯えたように頬を引きつらせた。
「まさか、進行を遅らせる薬を作った幹部って……」
「あ、僕のことですね」
「お前ら、一般兵やないんか……!?」
「護衛もつけず出歩いているから、そう思った?」
明確な肯定をする返事ではなかったが、クロノアたちの笑みが如実に物語っていた。
完全に沈黙した音声記録に吐息を漏らし、ぺいんとはギィと椅子を鳴らした。いつも使用している物ではない、この部屋に設置されている安価な椅子なので、座り心地もあまりよくはない。それでも、ここから長時間かかると予想されるので、立ったままなのは避けたかった。
年季の入った机に音声記録媒体を放置し、ぺいんとは空いた両手同士の指を絡めると組んだ膝の上に置いた。
「ちょっとお話しましょうか――お客さん」
ぺいんとが長い前髪から覗く左目で見据える先には、重い鉄格子とその奥で拘束された状態で膝をつく男の姿がある。男はギロリとした睨みを向けるが、ぺいんとが怯える様子はない。
「俺から聞きたいのは一つだけ。どこの国からのお客さんかってことです」
「……誰が、話すか……」
「それは残念」
ぺいんとが言うや早いか、男はビクリと身体を揺らして呻き始めた。拘束具の一つである首輪から、身体の芯を貫くような電撃が走ったのだ。心臓をわしづかみにされたような痛みに、息が止まる。
ぺいんとは小さなリモコンを手の中で弄びながら、その様子を眺める。
「ウチの幹部に、そういう機械弄りが得意な男がいてね……え、てか結構えぐい? アイツどんな威力にしたんよ」
男がぐったり額を地面へつける様子を見て、ぺいんとは取り繕った態度も忘れて組んでいた足をほどいた。やがて男が息も絶え絶えに顔を上げると、意識を保っていたことに幾らか安堵したのか、ホッと息を吐いて姿勢を正す。
「ま、まあそんな感じになるんで、正直に話してもらえると嬉しいですね」
男は血走った目をギロリと動かした。暫くぺいんとを値踏みするように眼球を動かしてから、唾液混じりの息を飲み込む。
「……西、のW.R.D国……」
「あー、やっぱり、そう言っちゃう?」
愛国心も忠誠心も、誇りすら捨ててしまった屈辱感で男の顔が歪んでいく。しかし次のぺいんとの軽い口調によって、あっけなく崩れた。ぺいんとは吐息を漏らしつつ、机に放置していた小型の音声記録媒体を指で摘まんだ。
「わざわざこんな独白音声まで用意してさぁ。下手な古語使っているから、なぁんか怪しいなぁとは思っていたんだよ」
記録媒体を持っているのとは違う手で、右目を隠している前髪をぐしゃりと掴む。琥珀色の左目が一度目蓋の奥に隠れ、そっと開かれる。琥珀の色が一層濃くなり、全てを見透かすような光が男を射抜く。心なしか、薄暗い部屋の中にも関わらずぺいんとの周囲だけ仄かな光が集まっているようだった。
「『透徹』――……を、使うまでもなかったかな。大体読めていたし」
椅子から立ち上がり、ぺいんとは牢の前でしゃがみこむと男の顔を覗き込むように首を傾けた。
W.R.D国とは、大陸の西にある軍事国家だ。この国よりも大きく発展しており、つい先日も近隣の国と領地争いをして、随分有利な条約締結によって終戦した。この国とはそこそこ友好な関係を保っており、先の戦争でも援軍として部隊を一つ出動させていた。その地方には独特な古語があり、国民の大半はそれを使用しているという。
「W.R.D国とウチを仲違いさせて、どっちかを――まぁウチだろうけど――漁夫の利として吸収してしまおうって腹だったんだろ?」
「……っ」
「解毒薬は、毒の原液があるからしにがみくんに任せておける。城内に入り込んだ鼠は……まぁクロノアさんにお願いしようかな」
あとは、とぼやきながら立ち上がり、ぺいんとは口元へ手をやる。唇が描く曲線に、男の背筋がゾクリと冷たくなった。
「俺の役割はここまで……――最後は、アイツの役目だ」