page1:猿の手
昔から、時々見る夢がある。大切な人たちが、遠くへ行ってしまう夢だ。
それは淡い初恋の想いを抱いた女性医師から始まり、志を同じくした仲間たちにも及んだ。果ては、自分が独りで眠りにつく姿を見るほど。そ苅のときの寝起きの顔は酷いものだったらしく、覗き込んだ幼馴染を始めとした友人たちに大層驚かれた。
教官に喧嘩を売るほど血の気の多い男からは、甘く見るなと怒鳴られてしまったし、幼馴染からは強くなることを約束された。ただの夢だと気の良い男は笑い飛ばし、どうせなら楽しいことを想像しろと陽気な男は頭を撫でてきた。
ただの夢。そうだ、あれは夢。そう言ってしまえば、話は終わる。
それでも、ある一つの確信が降谷の胸にあった。
あれは、いまだ起こっていない、未来の事象。断片しか受け取れなかった、降谷自身の記憶。平行世界という存在なのか、逆行という現象なのかは分からない。
それでも、この欠片を今の『降谷零』に与えられた意味は、ある筈だ。
そしてその意味こそ、喪失の夢を打ち破ることに他ならない。
降谷はそう、信じていた。
だからこそ、友たちに泣き顔を晒した数か月後。警察学校の卒業と共に、降谷零は四人の前から姿を消した。


[chapter:降谷零の悲劇回避奮闘記]


降谷零は、フリーの探り屋だ。探偵と言い換えてもいい。金さえ積まれれば、どんな情報だろうと依頼人の望むものを探り当てることができる。その正確さと鋭い洞察力から、裏世界と呼ばれる界隈では一目置かれていた。
その観察眼と情報網はどこで培ったのだと、戯れに訊ねた者がいた。そういった人間ばかりが集う、バーでのことだ。
成人式を済ませて数年経ったばかりのまだ未熟さを残した顔が、視線をついと向ける。ペロリと琥珀色の液体を舐めてから、彼は唇を持ち上げた。
「need not to know――それこそ、企業秘密ですよ」

カレンダーを捲る。でかでかと印字された『11』の数字。降谷はゆっくりと息を吸い、吐いた。
夢で見たのは、確か今月の7日だ。萩原研二が、爆発物の解体中に殉職する日。
見る夢は本当に断片的で、降谷の元にある知識は『11月7日』と『高層マンションの上階』、そして『止まっていたタイマーが突然動き出す』というものだけだった。該当マンションの住所や、犯人の素性などはさっぱり分からない。そこまでの情報は、この降谷に与えられていないのだ。
(警察を辞職したのは、早計だったか……いや、この方が自由に動ける。公安より、よっぽど良い)
クシャリと10月のカレンダーを握りしめ、降谷は額を壁にぶつけた。
警察庁から、声はかけられていた。初めは、成程この立場なら、夢で見た彼らの未来を、回避する術があるかもしれないと思ったのだ。しかし、そうしなかったのは、また夢が理由だった。
それまでとは、大分毛色の違う夢だった。
四方を灰色で塗りつぶされた、何とも不安感を煽る雰囲気の部屋に、降谷は立っていた。真ん中には黒い台が置かれていて、そこには指先を天に向ける形で伸びる、手が一つ乗っていた。節の具合から男のものだと分かる。それよりも明白だったのは、濃い色をした肌だ。
ゴクリと唾を飲む降谷の目の前で、中指の第一関節がクイと曲がった。
そこで降谷は、台を挟んだ向かい側に立つ人間の姿に気が付く。
グレーのスーツを着た男が、薄暗い金の前髪の隙間から、じっと降谷を見つめていた。
その、夜の海のような青い瞳を思い出し、降谷は思わず口を手で覆って蹲った。
声は聞こえなかった。それでも、姿形がそうだと――降谷に記憶の欠片を与えた張本人であり、台座に置かれた手の持ち主だと告げていた。
そんな『降谷零』が、視線で告げたのだ。
その道は、誰も救えないと。自分がその証明であると。誰も救えず誰からも愛されず、寒空の中で朽ちていった『降谷零』が、聞こえない声で叫んでいた。
どうせ同志は得られない。ならば――似合うと嘲られた黒に、身をやつしてしまえと。
酸味が喉からせり上がる。それをグッと飲み込んで、降谷はゆっくりと息を吐く。
「……止めてやるさ。だが、お前のためじゃない、僕の、意志だ」
誰にでもなく――自らに言い聞かせるよう、降谷は呟いた。
さりとて、今のままでは情報が足りない。焦る中、時間は刻一刻と迫る。しかし、一向に情報は集まらない。探り屋として得た裏世界の情報網を使ってもみたが、こちらへ足を踏み入れてもいない小物らしく、ちっとも引っかからないのだ。
そうこうするうちに、時間だけが過ぎていく。降谷は再び、あの部屋の夢を見た。
四方を囲む壁の色も、中心に据えられた趣味の悪い置物も、それを挟んだ位置で向かい合う男も、いつかと同じ、変わっていない。どこか既視感のある置物を直視していられず、降谷は視線を男へと向けた。
「……文句があるなら、声でも出してみればいい。どうせ、ここまで探っても尻尾すら掴めない愚か者だと、馬鹿にしているのだろ」
強くなる語調を隠しもせず、降谷は吐き捨てる。しかし男は指一つ、唇の端すら動かさない。じっと、暗い海色の瞳が、降谷を見つめている。責めるような視線に、降谷の頭へカッと血がさした。
「ずっとずっと、半端な夢だけ見せて、どういうつもりだ! もっと有益な情報を寄越せ!」
そちらは未来を全て知っているのだろう。だから、この降谷へ記憶の欠片を夢として見せて、警告している。しかし、すべてが中途半端過ぎた。足りないのだ。彼らを救うには、ピースが足りなすぎる。
「アイツラを助けるためなら、何だってやる! そのつもりで、警察を辞めたんだ!」
それなのに、そのきっかけにさえ手が届かないのなら、その決意もこの夢も、意味のないものとなる。
ギリリと降谷が歯を噛みしめたとき、腕が強い力で掴まれた。
いつの間にか、置物の上を越えて伸びた男の手が、降谷の肌に指を食い込ませていた。ギラリと、海色の瞳が光っている。
「――対価を、」
男が、初めて口を開いた。黒いぽっかりとした穴から零れた声は、自分のものとは思えない。随分と低い声だった。
――ぽき、ん。
何かが、折れる音がした。

ハッと、降谷は目前の景色に息を飲んだ。
酷い既視感に襲われる。人気の少ない通りにひっそりと佇む、一つの電話ボックス。そこで、男が一人電話をかけている。随分と焦った様子で、受話器に向かって怒鳴ってすらいるようだ。
バクバクと、心臓がなる。
帽子の上から更にパーカーをかぶって念入りに金髪を隠し、降谷は瞳を遮るサングラスの位置を確認する。それから、そっと辺りへ視線を回した。
電話ボックスがビルの隙間から見えるだろう位置で、静かに停車する自動車が一台。眼鏡をかけた男が、何気ない様子を装って電話ボックスの男の動きを見守っている。
降谷はフラリと揺れるような足取りで、その自動車の方へ向かった。
ドサ、と大きな音を立てて、助手席側の窓を隠すようにもたれ掛かる。いきなり視界を遮られて、車内の男はギョッと身体を起こした。
「おい、お前、なにを――」
窓が開く。文句を言おうとしたのだろう開いた口へ、降谷は流れるまま手の平を押し付けた。行き場のなくなった言葉が喉を逆流し、溢れた唾液が降谷の手を汚す。
「……どうも、あなたが噂のボマーですか?」
丁寧な口調で聞きながら、降谷は車内へ視線を滑らせる。警察から受け取っただろう、金のはみ出たアタッシュケースに、良からぬ匂いのするボタン。遠隔操作のリモコンかと理解するのは早かった。
酸欠で真っ赤になった男の指が動く前に、降谷は彼の頭をグイと奥へ押し込んだ。運転席側の窓ガラスに後頭部を打ち付け、一息で男を無力化する。念のため気道を圧迫して完全に落ちたことを確認してから、降谷は小さく息を吐いた。
「『電話ボックス』と『遠隔操作』……追加で取り立てた情報も、この程度か」
全く断片であることには変わりなく、随分と推理思考に時間を取られてしまった。『電話ボックス』の映像が、降谷も覚えのある裏路地にあったことが、辛うじて救いとなった。
電話ボックスの方から騒がしい声が聞こえる。逆探知した警察が、もう一人の男を確保しようとしているらしい。こちらに気づくのもそう遅くないだろう。
遠隔操作用の機械の基盤を破壊し、降谷は警察の目が向く前にそっとその場を離脱した。
ポケットに忍ばせたラジオの電源を入れ、イヤホンを耳へ差し込む。
『――先ほど、二つ目の爆弾も無事解除終了したとの情報が――』
細い裏路地へ入り、日陰になって冷たい壁に背をつける。
ホッと息を吐くと、それに連動して足の力が抜けていくようだった。カクン、と軽く膝を曲げた降谷は、そのままズルズルと座り込んだ。
「……は?」
ここ数日張りつめていた気が、プツンと切れた――だけではない。本当に不意に、足から力が抜けたのだ。
降谷は茫然としながら、膝を折った足へ指を伸ばす。感覚はある。アキレス腱が切れたわけでも、靭帯が断裂した様子もない。厳密には違うが、何とか言葉にするとすれば、神経を切られたような感覚だった。
(まさか、これが『代償』……?)
ハッハ、と短くなる呼吸を手の平に隠し、降谷はゆっくりと地面を足の裏で押す。多少の違和感はあるが、起立することはできた。しかし、確実に何かを奪われたという確信がある。
例えば、そう――【ここぞというアクセルを踏み込むだけの底屈力】だけが、奪われたような。
――ぽき、ん。
あの部屋の中央に置かれた手の、中指がポッキリと折れる。そんなイメージが、降谷の脳裏に鮮やかに浮かんで、消えた。

降谷は、一つの仮説を立てた。
白い部屋の『降谷』がこちら側に与えられる情報は、制限されている。それは二人の降谷が望む未来が、本来ならあり得ないものであるためだろう。『降谷』が何を対価に、こちらへ干渉してきたかは分からない。分かっているのは、その対価はこの降谷にも課されるものだということだ。
制限を越えて渡された未来の断片、そしてその果てに得た新しい未来。その対価が、降谷に起きている異変なのだとしたら。
「……とんだ対価じゃないか」
苦く顔を歪め、降谷は曲げた膝に額を擦りつけた。
萩原のときには、アクセルを踏み込むだけの底屈力を。松田のときには、爆弾を解体するほど繊細な技術を。諸伏のときには、武器をとる覚悟を。伊達のときには、自身を律するだけの信念を。
全てが形ない精神的なものであったが、降谷には確実にそれらが失われていく感覚があった。今の降谷は、正義に 殉ずる精神力も、自分より他人や国のために武器を取る力もない。
「……だから、公安を辞職するよう促したのか」
今更になって『降谷』が示唆した断片の意味を察し、降谷はぐしゃりと頭を掻きまわす。
立ち上がる気力は、底に尽きかけている。それでもまだ、降谷は立ち止まれない。
一人救うごとに、指が一本折れていく白い部屋の手。まだ、小指が残ったままだ。
「……あと、一人」
手を止めて、そっと顔を上げる。月明かりすらない、昏い海のような瞳が、カレンダーを見つめていた。

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