名前のない歌
・6話後、妄想


学園内のベンチに座り、スレッタはチラリと時計を見上げた。デジタルの数字は、約束した時間をより少し過ぎた時刻を示している。ぶらりと垂らした足を揺らし、スレッタは行儀よく膝の上に置いていた手をベンチの上に移動させた。
「……ハッピバースデイ、トゥーユー」
それが口をついたのは、本当に何となくだった。一度は鬱陶しいと邪険にされたが、彼は誕生日事態を嫌っているわけではないと分かった。今日会えたら、顔を合わせて目を見て、一緒に歌を口ずさみたいと思っていた。なのに。
「ハッピバースデイ、トゥーユー」
その彼が、ここにいない。
ぽとりと落ちた歌が、爪先に乗って芝生の方へと飛んでいく。そちらに待ち人が現れる様子もなく、スレッタは時計に視線を戻した。デジタルの灯りが点滅して、『12』の数字が形作られる。
「ハッピバースデイ、ハッピバースデイ」
「そこはディア・ネームと歌うんだよ」
突然、背後から声がかかった。脳裏にパッと待ち人の顔が思い浮かんで、スレッタは綻ばせた顔をそのままに振り返った。
「エラ、ン……さん……?」
振り返った先、片手をベンチの背もたれに置いた男は、色と同じく柔らかい毛質の髪を風に遊ばせていた。
見慣れた寮服、見覚えのある耳飾り。目元を和らげ、口端を少し持ち上げるだけの微笑も、彼の物である筈なのに。すべてが、彼でないとスレッタの直感が囁いている。
振り返った姿勢で言葉を止めたスレッタを見て、男は首を傾けた。
「どうかした? スレッタ・マーキュリー」
「だ、」
声を聞いてやっと動けるようになったスレッタは、ベンチから飛び降りた。
「だれ、ですか!」
ピクリと男の口端が動く。
「……だれ、とは?」
「あ、あなた、は、エランさんじゃない、ですよね……?」
まごつきながらも、確信を持ったスレッタの語調に、男は息を吐いた。腰へ手を添え、男は整えられた前髪に指を差し入れる。その仕草も、『氷の君』という王子めいた呼称に相応しい。しかしスレッタの背筋は薄ら寒い一欠けらを投げ込まれたようにフルリと震えた。
暫く目を細めていた男は、スレッタの強張りが解けないことを見てか、スゥーと息を吐いた。前髪を梳いていた指先がクシャリと、セラドンに近い色のそれを握りこむ。
「……全く、この俺がわざわざ窮屈な顔まで真似してやったっていうのに」
桜色の唇から零れたのは、低く乱暴な口調。ビクリ、とスレッタは肩を揺らした。そんな彼女の動きも気にせず、男は前髪から手を離すとそれを胸元へ持っていって、首を絞めつけるジャボを緩めた。
「ほ、本物のエランさんは?!」
「可笑しなことを言うな」
緩めた襟元、腰にだらりと添えられた手。耳飾りを見せるように髪をかき上げた手も、田舎者のスレッタの目からすれば十分“王子様然”とした優雅さが垣間見える。それでも、彼は違う――スレッタの知る『エラン・ケレス』ではなかった。
「俺は正真正銘、エラン・ケレスだ。本物だ偽物だという区別があるのなら、それはあちらの方だよ、ホルダー」
「……っどういう、意味ですか」
「さてね」
意地悪い笑みを浮かべ、『エラン』は肩を竦める。カーッとスレッタの頭に血が昇った。しかし手を出すことは得策ではないし、それは向こうの思うつぼだと脳内ミオリネが叫んだので、唇を噛みしめることでそれをやり過ごした。
「……エランさん……っ私の知る人は、どこですか」
「……さて、ね」
手を出して来ないスレッタを意外だとでも思ったのか、『エラン』は片眉を持ち上げて、両の手をポケットに入れた。
「これだけは言えるよ。“君の知るエラン・ケレスは、二度と目の前に現れることはない”」
「それは……!」
彼の望んだことなのか、彼自身が決めたことなのか。そう問おうとして、スレッタはしかし口を閉じてしまった。もし是と返答されたらどうしようかという考えが、一瞬のうちに彼女の頭から爪先まで駆け抜けて、氷漬けでもされたかのように冷えてしまったのだ。
感覚すら薄れる指をギュッと握りこんで、スレッタは俯く。
「……全く、ハッピバースデイも満足に歌えない田舎者のくせに」
呆れたようなため息を吐いて、男はクルリと踵を返した。え、と音にすらならない空気が、唇から転び落ちた。スレッタは顔を上げる。男は既に彼女へ背を向けていて、さらに空を見上げていたので表情は見えない。
「ハッピバースデイ、トゥーユー。ハッピバースデイ、ディア・」
続きは、口笛だった。
ディア・ネーム、と会話の始めに投げかけられた言葉を、スレッタは口の中で繰り返した。
「……なんて、」
声が、震える。男は少し首を動かして、髪の隙間からスレッタに視線をくれた。
「なんて、名前……呼べば……」
歌の中で、名前を呼ぶなんてスレッタは知らなかった。あのときも、今も、そう歌ったのは本当にそういう歌詞だと思っていたからだ。しかし、あの放送では、名前を呼ばない歌が彼の耳に届いていた筈。彼が“エランと呼ばれない”ことで、あの連絡をしてきたのだとしたら。
――鬱陶しいよ、君。
途切れた言葉の先を、スレッタは分かってしまった気がした。
グシャリと顔を歪めてその場にしゃがみこむスレッタから、男は視線を逸らした。振り返ることも、ましてや手を貸すこともせず、男はフッと息を吐いて空を見上げる。
「さてね」
それ以外、彼女へくれてやる言葉を、男は持ち合わせていない。
×
「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -