景零編(5)
風の音が、耳鳴りのように周囲の音を遮っている。びゅびゅうと吹き荒れる風に乗って、視界を隠すように薄桃の花弁が辺りを舞い上がっていた。
その視界が、唐突に晴れる。
二人の男が、そこにいた。
一人は膝をついて座り込み、一人は眠るようにその膝へクタリと背中を預けている。天を仰ぐように顔を上向けている男は、固く目を閉ざしたまま。心なしか、唇の色が薄い。
彼の背中を膝に乗せ、もう一人はその肩へ腕を回すように物言わぬ身体を抱きしめていた。ハラリハラリと、花弁と共に俯いた頬から何かが落ちていく。
眠る男の左胸に、鮮やかな赤い花が咲いていた。
そんな二人の様子を少し離れた場所から見つめるのが、この夢を見ている自分の視点なのだろう。言葉もでない、指も動かせない。視界を共有すれど、どうやら夢の中の自分に身体を動かす権利は持たないらしい。
不意に、俯いていた男が顔を上げた。木漏れ日を集めたような金の髪が揺れ、色の濃い頬を花弁と共に滑っていく。
ハラハラと、涙で潤んだ青い瞳が、一つの感情を持ってこちらを見つめた。
手元の男の胸元へ赤い花を咲かせた自分へ、地獄に縛りつけんとするような怨嗟のこもった視線が、青い瞳から放たれていた。



ハッと、赤井は目を覚ました。身体中、酷く汗をかいていた。起き上がって額に張り付いている前髪をかきあげる。は、と自然と零れた吐息は、冷えた肌に反して熱を持っていた。

「なんて顔してるんですか」
顔を合わせるなり、降谷は憮然とした顔で言った。身支度はそれなりにしたつもりだが、すっかり取り繕えていた気もしていなかったので、赤井は言い訳せず口を噤んだ。
「そんな顔するくらいなら、さっさと出て行けばいいんですよ」
「安室さん……最後くらい、もう少し優しい言葉を……」
コナンがそう声をかけるが、降谷はフンと鼻を鳴らした。
「こいつが原因で運び込まれた災厄を、僕らは追い払っただけ。それを、こいつがこいつの事情で追いかけるだけ。僕がこいつを惜しむ要素は、ない」
「まあ、そうだな」
赤井までそんなことを言うものだから、コナンは深々とため息を吐いた。降谷はわざとらしく息を吐いて、頬に垂れた髪を耳へとかけた。
「……最後ですから、旅路の祝詞くらいあげますよ」
「いいのか?」
「これで最後と思えば」
さっさとついて来いと言わんばかりに踵を返し、降谷はサッサと足を進める。その背中を見送り、赤井はついコナンを見やった。少年は苦笑して、肩を竦める。
「素直じゃないんじゃない?」
「そういうものか?」
少々赤井には理解しがたいことだったが、コナンにも促され、足を進めることにした。

降谷先導の元三人がやってきたのは、山の奥にある本殿だ。赤井は勿論、コナンもここへ足を踏み入れるのは初めてだ。
降谷は既に中へ入ってしまっているようで、姿はない。元々多くの人が立ち入らないようになっている場所故か、シンとした空気が辺りに漂っていて少し肌寒い。
「……」
赤井は、僅かに眉を顰めた。微かな違和感が、赤井の胸に去来したのだ。そういえば、陰陽寮を出てからここに至るまで、降谷とコナン以外の人間に会っていない。
「! 何故、あなた方がここに?」
ザリ、と砂を踏んで姿を現したのは風見だ。彼には本殿の管理を任せていると、降谷が言っていた。何やら包みを持っている風見は、赤井とコナンの姿を見つけて眉を顰めた。
「あ、安室さんが、赤井さんに旅路の祝詞をくれるって言って……」
コナンも、微かな違和感に気づいていたのだろう、戸惑った様子で説明する。風見はますます深く、眉間の皺を刻んだ。
「……何故、あなたがここに……しかも、こんな日に……」
何かあるのだろうか、と赤井は思考を巡らせ、そこで今日は七日だったことを思い出した。降谷が月に一回、管理者として山の加護をかけ直す日だ。そんな日に、本殿までやってきたこちらが悪い。
「すまない、少し時間を置いて出直そう」
「……いえ、よろしければ、どうぞ」
風見はゆっくりと首を振り、本殿の入口を開くと二人へ手招いた。突然の態度に、コナンと赤井は思わず顔を見合わせた。
「……いいのか?」
「私個人の感情は別ですが……この日にあなたがここへ訪れたということは、そういうことなのでしょう」
含みを持たせた風見の呟きに、コナンは首を傾げた。
風見がさっさと奥へ進んでいくので、赤井とコナンは慌ててその後を追った。
「静かだな」
「ええ」
「安室さんは?」
「恐らく、奥の間にいるかと」
長い一本道の廊下。一度も振り返らない風見の背中へ向けて疑問を投げかけるも、返って来るのは淡々とした答えだ。コナンはさっぱり見えない話に眉を潜めた。
その隣で、赤井はキュッと目を細める。何か、既視感のようなものが視界を掠めていく。この長い廊下を、そこを歩く風見の背を、赤井はいつかも見たことがあるような――。
「こちらです」
突き当りの部屋に辿り着き、やっと足を止めた風見が半身で赤井たちを見やった。
扉はない。すだれが、静かに垂れさがっている。風見は足を止めたまま、赤井に入室を促した。赤井は暫し足を止めたが、風見に促されるまますだれを手で持ち上げた。
正方形の部屋だった。タイルでも貼られているのだろうか、くるぶしほどの水が床を覆っている。窓一つない壁には、代わりというように人の背丈ほどの桜色の結晶が四つ、並んでいた。窓がないのに、部屋は酷く明るい。それは鬼火とも言われる小さな灯が、部屋の至るところに浮かんでいるからだ。
異様、という一言をあてはめてよいだろ。それだけ、この部屋は赤井やコナンから見て、常識からかけ離れていた。
その一番奥に神棚があり、それを見つめるように佇む金色の影があった。
「ふるや、くん」
ぽちゃん。廊下より一段下がった床に足を付け、赤井は思わず名前を呟いていた。その声に金色の影はゆらりと動き、こちらを振り返った。
「!」
赤井とコナンは息を飲んだ。
降谷の青い瞳が、全ての光を飲み込んだように異様な色を浮かべている。何かが、彼の身に起こっていることを示していた。
咄嗟に駆け出そうとした赤井とコナンだが、二人はすぐにその足を留めなければならなかった。コナンは風見に、赤井は風見の飛ばした彼の式神たちに引き留められた。
「っ離せ!」
「どういうこと、風見さん!」
「入室と見学を許しはしたが、今のあの人に触れるのは控えてもらう」
少年の姿のままでいることが災いしたか、コナンの小さな身体は風見の腕に抱えられた。バシャ、と水飛沫をたて、赤井はその場に膝をつく。男の姿をした二体の式神が、それぞれ赤井の両腕を捻り上げ、身体を抑えつけたのだ。
「彼は何をしようとしている!」
「周りにある結晶、なんで松田さんたちが入っているのさ!」
鬼火の灯りを受け、結晶の側面が反射光を放つ。そこから垣間見れたのは、眠るような姿で結晶に包まれている松田、萩原、伊達、そして景光の四人だった。
「それが、必要なことだからです」
この国を守るために。風見の言葉を受けたように、降谷はゆっくりと動き出す。彼は胸元で重ね持っていた両手を、そっと開いた。そこに乗っていたのは、この社で保管され、一時期赤井に貸し出されていた桜石だ。
「セラサイト……」
「五魂石。この山を、ひいてはこの国を守る要石であり、あの人の力そのものです」
淡々と、風見は言葉を紡ぐ。
「……それが、松田さんたちがあの状態であることと、何の関係があるの?」
「その名の通りだ。『五つの魂』――それが、あの石の正体だ」
「っあの五人を人身御供にしているのか!」
赤井の言葉に、風見はどこ吹く風、涼しい顔で首を傾けた。
「今更ですね、あなたがそれを言うのですか?」
「俺、が……?」
「魂が同じならば、心あたりがあるでしょう」
「ちょっと、それってどういう……」
コナンが訊ねる声が、赤井の耳を左から右へ通り過ぎていく。風見の言葉が、ぐるぐると頭を回っていき、視界ごと風景をかき回していった。

――……っよくも、よくも……!

夢で見た、焼け付くような怨嗟の瞳。あれは、夢ではなく現実だった。嘗て――まだ赤井が『赤井秀一』たる以前に経験した、記憶の映像だった。
「忘れてしまったのですか、赤井さん。全てはあなたが引き金を引いたのですよ」
それはまだ、この国が海をこえる前の時代。閉じた国と呼ばれ、今よりも怪異と近い場所で生きていた頃の話だ。
赤井は、とある陰陽師の一族の生まれだった。都の守護神たり得る霊狐が妖怪に誑かされているからと、その妖怪の退治を頼まれた。果たして、赤井は与えられた任務を全うした。そして、予想よりも深く心を繋いでいた霊狐から、蛇蝎の如く嫌われてしまった。
赤井が退治したのは一匹だったが、後から聞けば霊狐が心を許した者はみな、彼の元から奪われてしまったらしい。霊狐が、国の守護にだけ心身を捧げることができるように。
種族の垣根を越えて愛を得た男も、呪いなど互いに打ち消してしまおうと手を繋いだ二人も、この身の片割れだと囁き合った唯一も。全て、霊狐の手から一度離れ、桜色の結晶となって戻ってきた。
「桜は五つで一つ。彼らを失うことで、あの人は完璧になった」
高潔な神職の精神。人ならざる存在も引き付ける香り。邪気すら払い除ける妖気。そして、魂の片割れに等しい存在。
「邪魔を、しないでいただきたい」
風見は眉間に皺を寄せたまま、赤井を睨みつけた。赤井を、心から煩わしいと感じているような表情ではない。何か、熱く飲み込み切れないものを堪えるような、そんな瞳だった。
赤井とコナンは、息を飲む。
そうして作られた五魂石は、しかし数十年と経たないうちに割れてしまった。原因は分からない。再び五魂石を生成するには、降谷にとって大切な人たちが必要となる。だから、この日まで待っていたのだ。
「その間に百鬼夜行に潜り込まれたのは誤算でした。しかし、やつらがこの国に出入りできたのも、あの人の要石としての力が弱まっていたからだ」
百鬼夜行を追い出した今、このタイミングで新たな五魂石を生成し、国の守護を確立させなければならない。
コナンの腹に回された風見の腕に、グッと力がこもる。
降谷はそっと、手の平に乗せた五魂石の欠片を頭上に掲げる。鬼火の一つが蛍のようにそこへ止まり、呼応するように壁際に並んだ結晶も淡い光を放つ。
吸っているのだ、彼らの命を。
そのことに気づき、コナンはサッと顔を青ざめさせた。バタバタと手足を動かそうとするが、風見の拘束は外れない。では神通力でとも思ったが、この空間故か降谷相手のためか、うまく【眼】の焦点を合わせることができなかった。
「っく!」
「大人しくしているんだ」
風見が、コナンの首へ手を添える。
そんなやり取りを背中で感じとりながら、赤井はじっと、ある一点を見つめていた。
「五魂石が割れた原因、か……」
「赤井さん……?」
「恐らく壊れたのではない。失敗したんだ、あのときも」
コナンは首を傾げる。風見も、赤井の言葉の意味を図りかねて眉を顰めた。
伊達たちは、あの時代に生き、降谷と交流し、そして奪われた人間たちと魂を同じくする存在なのだろう。身体を新しくし再び出会った五人の中で、ただ一人、そのまま時を過ごした者がいる。
あ、と小さなコナンの声が聞こえる。赤井は、思わず口端を持ち上げていた。
ピシリ、と桜色の結晶の表面にヒビが入る。
「――知っているか?」
誰に問うでもなく、赤井は呟く。風見の気配が揺らいで、その影響か赤井を拘束していた式神たちの気配も消える。しかし赤井は動くことをせず、膝をついたまま目の前の全てを彼へ託した。
「猫は、魂が九つあるらしい」
――ぱり、ん。
飴のように砕けて、桜色の欠片がパラパラと水面へ落ちていく。バシャリと飛沫が飛ぶのも構わず乱暴に床を踏み、すぐにまた動き出す。音に反応してか顔だけ向ける降谷の青い瞳に、血相を変えた猫又の顔が映り込んだ。
「――零!」
景光の手が、降谷の腕を掴む。
フッと眩しいくらいに青い瞳を占めていた光が解け、常の状態に戻った目が景光を見上げた。
「ひ、ろ……」
降谷はそれだけ呟くと、カクンと膝を折った。そのまま崩れる身体へ腕を回し、景光は片膝をついて彼が水の中に倒れこむのを防いだ。すぐに顔を覗き込み、降谷がスヤスヤと安らかな呼吸をしていることを確認すると、景光はホッと安堵の息を漏らした。
「そんな……」
風見の腕から力が抜けたので、コナンはスルリとそこから抜け出す。
赤井から二回、ベルモットから一回、そして恐らく三味長老から一回――そして今回の一回。既に五回命を使っていても、九つ魂を持つ景光はまだ『生きている』。想定より多すぎる魂の力を吸いきれず、五魂石は形を成す前に砕けたのだろう。
「そんな馬鹿な……」
「けど実際、風見さんも見たでしょ?」
景光が結晶を打ち破り、降谷に駆け寄った姿は、赤井の仮定を補強するに十分だった。座り込んだ風見は、脱力したような――どこかホッとしたような――様子で小さく息を吐いた。
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第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
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