景零編(4)
暖かい。首から下を、ぬるま湯に浸しているような心地よさがある。頬を撫でる柔らかい感触と、
漂う香り。慣れ親しんだそれに、誘われるようにして、目蓋がゆっくりとほどかれる。
開けた視界に映り込んだのは、想像通りの色彩と、予想よりも大分顰められた顔だった。
現れた瞳を認めて、青い瞳が益々歪む。両頬に添えられた指が、皮膚に食い込んだ。
痛みは無い。頬にも、胸にもだ。
手のひらへ擦り付けるように頬を動かすと、チクリと短い顎髭が引っかかった。
「……馬鹿野郎」
「うん。ごめんな」
一つポツリと呟いただけで、それ以上は何も言わない。その態度が何より彼の感情を伝えてきて、膝に頭を預ける景光はもう一度謝罪の言葉を呟いた。



「天青石(セレスタイト)?」
「桜石(セラサイト)です」
赤井の言葉を訂正し、降谷は袖に手を差し込んだ。
「いろいろ呼び名があるんでややこしいんですよね……生玉(いくみたま)とか五魂石とか……」
「その石が、百鬼夜行たちの狙いなの?」
コナンの問いに、降谷はそうらしいと頷いた。
「どこからか、妖力を増幅させる効果があると聞き及んだらしいね」
「信ぴょう性はあるのか?」
「そこは一応保障しますよ。エリクサーを変若水と呼ぶようなもの……そちら風に言うなれば、賢者の石ですかね」
成程それなら、一妖怪の力を増幅させることは可能だろう。
「まぁ有り体に言えば、神通力の塊なんですよ。昔は、それを自作しようとしていたようですが」
妖怪たちの力を、『氷に閉じ込めたものを半永久的に保存する』ことが可能な雪女の氷でコーティングし、自ら生みだそうとしていた。それに関わったことのある灰原は、そんなこともあったなと眉を顰める。因みに、その失敗の余波として、コナンにかけられた呪いが存在している。
「随分前に砕けてしまってから厳重に保管されているので、拾えるものでも爪先ほどの欠片程度だと思うんですけどねぇ」
「……ちょっと待って、安室さん。その言い方だと、安室さんはその石の在処を知ってるの?」
「……まぁ」
「これのことか」
伊達は苦く顔を歪めながら、何やら箱を取り出す。
「……大きな欠片は、拾いました」
「……」
つまり、割ったのは降谷本人らしい。
コナンは覗き込んだ重箱の中身を見て、頬を引きつらせた。薄い布に包まれてしまわれていたのは、元は美しい宝石だったことを伺わせる、桜色の欠片たちだった。
「……ホォー」
「何だその顔は、赤井秀一。そもそもお前が、」
「降谷さん」
降谷の言葉を遮って、一歩後ろで控えていた風見が声をかける。眼鏡の蔓に触れながら、彼は重箱の中身を見せた意図を訊ねた。眦を吊り上げかけた降谷は、コホンと喉の調子を整えて部屋の奥に視線を向ける。
薄く開いていた襖がカラリと開き、一人の女性が入室した。
「彼女は?」
「彼女は本堂。あの百鬼夜行に潜入している道士だそうだ」
百鬼夜行の脅威は、大陸でも問題視されていた。そこで、向こうの道士である彼女が潜入し、動向や内部の調査をしていたというのだ。今目の前に立つのは、正確には主人の姿を象った式神で本人ではないのだが。大陸の道士たちも百鬼夜行の動きは見過ごせないらしく、今回の作戦に手を貸してくれるということだった。
「道士の身で、潜入しているのか?」
「主は白蛇と人間の混血なの。純粋な人間ではないから人里に溶け込めずにいた、という設定よ」
父が純粋な人間の道士で、その影響もあって道術を学んだのだという。
「こちらとしては有難いですね。僕の持つ情報は、かなり古いですから」
「あら、今でもこちらでは有名よ。金毛九尾のバーボン。ジンやベルモットも一目置く妖怪だって」
本堂が薄らと口元へ笑みを浮かべたので揶揄われているのだと判じ、降谷は肩を竦めるだけに留めた。
「話を戻すが、奴らの狙いはその石の欠片で間違いないんだな?」
赤井の言葉に、降谷は頷いた。
妖怪の力を底上げする桜石は既に破壊されており、大きな欠片はこの社で厳重に管理保管されている。今回のように取りこぼしを拾われたとしても小さな欠片で、それだけでは大した脅威にもならない。
「まぁ、それでも、彼らにとっては喉から手が出るほどほしいものではあるのでしょう」
重箱から取り出した、一番小さな欠片を二本の指で挟み、降谷は青い瞳に桜色のそれを重ねた。
透明度の高い桜色の欠片越しに、揺らいだ青が赤井を射抜く。その感覚にどこか既視感が浮かんだが、すぐに放られた桜色へ意識が向いた。パシリと手の平に収まった桜色の欠片に視線を落とし、「良いのか?」と降谷に訊ねる。
「餌は大きいほど、相手の喉元に針が食い込みやすいですからね」
失敗してくれるなと、青い瞳が告げる。それを受け止め、赤井は欠片を手の平に握りこんだ。



人気のない薄暗い倉庫内。久しく人の手が入っていないのか、錆びた機械はどれも型落ちしている。最も、倉庫へ張り巡らされた目の持ち主たちに、それを理解できるものはいない。ただ、薄ら積もった埃が、そういった予感を彼らへ伝えていた。
四方から突き刺さる視線のうち、幾つかは打ち合わせをしていた仲間たちのものだ。もう幾つかは研いだ刃のような鋭さをもって赤井の動きを注視しており、赤井はゆったりと辺りへ目線を動かしながら凡その位置を確認した。
こつ、とわざとらしく音を立てた気配が、赤井の前へ現れる。赤井は両の手をポケットへ入れたまま、首を動かした。
「……久しぶりだな、会いたかったぜ」
「ああ、こちらもだ」
薄暗がりでも発光しているような輝きを持つ銀の髪。今は仮の姿だが、赤井は本性でも同じ色の毛並みを持っていることを知っている。
「手前が持っているものに用がある。丁度いい、ここであのときの借りを返してやる」
「それは過剰請求だな」
赤井はわざと襟を広げ、そこへ革紐で下げていた桜色の石を見せる。カッと対峙するジンの目が見開かれ、口が細い三日月のように裂けた。
「問題ねぇなぁ――ここで死ぬ相手だ」



「それで、どうなったんだい?」
景光が目を覚ましたとき、全ては終わっていた。そのため事の顛末を、彼はコナンから聞くことになった。
コクンと頷いて話を続ける少年は、景光の目には心なしか不機嫌そうに見えた。
「赤井さんがジンと他の妖怪たちの目を引き付けている間に、陰陽寮の人たちが包囲して捕縛するって計画だったんだ」
降谷と本堂の情報から百鬼夜行の規模は把握できていたから、取りこぼしをしないようにすれば万事解決する――筈だった。
「まさか、別行動をしていた本堂さんとベルモットが、あのタイミングで合流してくるとは……」
この国にやってきた百鬼夜行で、注意するべきはジンとベルモットという大妖怪。二体同時に相手をするには、さすがの陰陽寮でも骨が折れる。そのため、独自で例の石を探していたベルモットに本堂が付き添い、百鬼夜行と引き離していたのだ。しかし、ここで予想外のことが起こる。
「三味長老が石の欠片を拾っていて、それを見つけたベルモットが予想より早く百鬼夜行と合流してしまった」
本堂も、時間稼ぎができなかったことを悔い、頭を下げていた。例えそうだとしても、現場で対応できなかった陰陽寮や赤井たちの力不足も大きい。その中でも群を抜いて下手を打ってしまったのは、降谷だった。
「酷いもんだったよ、ベルモットが石を見つけたときに猫又を殺したなんて言い出すから。あんな、表情を取り繕えていない安室さんなんて、初めて見た」
ため息と共にジト目を向けられ、景光は目を瞬かせた。
「え、赤井と一緒のときは?」
「あの人、赤井さん相手には取り繕う気すらないから」
すっぱりとしたコナンの返答に、「ええー」と景光は声を漏らす。むずがゆくなる口元を手の平で隠し、そっと視線を横へ。
そんなこと、ある筈がないと思う。コナンの言葉では、降谷にとって景光の存在がとても大きいようではないか。
「ベルモットとジンに不審がられて、ごまかすの大変だったみたいだよ」
「へ、へえ……」
「……まぁ、ベルモットとジン、ウォッカは取り逃がした。けど、百鬼夜行の大多数は捕縛できたし、結果は上々だと思う」
赤井がジンの尾を二つ切り落としたことも、随分大きな戦果だった。
百鬼夜行の中心とも言うべきその妖怪たちは、既にこの国を出て海を渡ってしまったらしい。降谷は額に青筋を浮かべていたが、取敢えずこの国への脅威が薄らいだことで留飲を下げたようだった。
「赤井さんは、ジンたちを追って数日後にはこの国を出るんだって」
「へぇ……」
ふと、景光は初めに気づいたコナンの不機嫌さが、また頭をもたげていることに気が付いた。
「……そういえば、コナンくんの呪いっていうのは、どうなったんだい?」
「……解けたよ、半分くらい」
「半分?」と景光が首を傾げると、「見た方が早いよ」とため息交じりに呟いて、コナンは卓上に置いていた湯呑を手に取った。目覚めたばかりの景光のために、彼が持ってきてくれた白湯だ。コナンはそれを躊躇いなく、自身の頭へとかけた。
驚く景光は、さらに目を疑う光景が広がり始めた。グググ、と植物の根が伸びるように、幼い少年の手足が隆起する。苦しそうな呻き声を咬み殺していた顔を上げ、青年と成った少年は「ふぅ」と息を吐いた。
「おお!」
すごい、と思わず景光は呟いた。
コナン――もとい新一は、すっかり短くなった袖を振って頭を下げた。彼の本当の姿を見るのは初めてだった景光は、ペコリと頭を下げ返す。
「それが元の姿なんだ。すっかり元通りなんじゃないのかい?」
「それが……そうでもないんですよ」
コナンのときより落ち着いた声色で、新一は眉を下げる。どういうことだと景光が訊ねると、カラリと襖を開いて入室した灰原が口を挟んだ。
「こういうことよ」
ふ、と彼女は桜色の唇をすぼめて息を吹く。雪女の冷気が新一の頭を撫で、そこに残っていた湯を瞬く間に水へと変えてしまった。すると、ポンと軽い煙が立ち、パチパチと瞬きをする景光の目の前で、新一青年は再びコナン少年へと戻ってしまっていた。
「……え?」
「つまりね、お湯をかけると解呪されるのだけど、その状態で水に触れるとまた子どもの姿になってしまうの」
「ええー……」
中々に厄介な条件だ。ただの呪いだけのときより、随分と面倒くさい状況になってしまったのではないだろうか。
このままでは幼馴染とプールにも行けないし、散歩をするだけにしても通り雨に降られればおしまいだ。
頭を掻きむしって蹲るコナンを見て、灰原は薄笑いを浮かべていた。
その様子を見て、景光は「おや?」と首を傾げた。

「哀ちゃんて、コナンくんのことが好きなのかな?」
景光の台詞に、赤井はギュッと眉間へ皺を寄せた。彼のそんな顔は初めて見たものだから、景光は可笑しいことを言っただろうかと頭を掻く。赤井は深く息を吐き、煙草を取り出そうとして止めて、その手を額に持って行った。
「……それ、本人に言うなよ。酷くへそを曲げる」
「あ、ああ」
素直に頷いて、景光は庭へと視線を向ける。赤井も同じようにぼんやりと前方を見やって、二人は暫く黙ったまま縁側に座り込んでいた。
「……ゼロが、」
「ん?」
ポツリと口火を切ったのは、景光だった。赤井は寂しくなった口元へ手をやりながら、チラリと彼の横顔を見やった。
「ゼロが、土壇場で下手を打ったのは、オレのせいだったってコナンくんから聞いた」
「ああ……」
別に、赤井は下手を打ったと感じるほどの動きではなかった。ただ、山を荒らした赤井に仕置きをするバーボンという立ち位置にしては、随分と危うい心情を垣間見せてしまった程度。それで赤井との繋がりを気取られるほど、降谷は愚かな男ではない。
「気にするな……と言いたいところだが、まぁ、彼にはしっかり謝っておいた方が良いだろうな」
「あはは……まさか赤井にそんなことを言われるとは」
軽く笑って、景光は縁側に寝転んだ。赤井は彼の胸元へ見やって、その懐から覗く傷跡に目を細めた。
嘗て赤井がつけた傷跡。今は別の傷に上書きされているとはいえ、その事実が消えることはない。
「赤井、ありがとうな」
赤井の視線の先を知ってか知らずか、頭の後ろで腕を組んだまま寝転んで、景光はそう呟いた。赤井はそっと目を閉じ、細く息を吐く。
「……こちらこそ」
ようやっと絞り出した言葉は、また隣の猫又に軽く笑われた。
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