景零編(3)
赤茶けた髪を揺らし、少女は一人、狭い道を歩いていた。
腕の中で大切そうに抱えた三毛猫が、にゃあと鳴く。ふと、少女は足を止めた。
路地の奥から、涼やかな風が流れてくる。ベベン――さらに三味線の音が聴こえた。コクリと喉を動かし、少女は三味線が聴こえた方へそっと首を伸ばす。ゾワリと涼しい風が頬を撫でて、小さな肩が揺れた。
「ああ、怖がらないでお嬢さん」
音と冷気の発生源である路地の奥から、掠れた声が聴こえた。ベベン、ベン――襖が開くように日の光が差し込み、そこにいる男の姿を少女の前へ露わにした。
三味線を抱えた、皺の見え始める齢の男だ。たくし上げた袖から伸びた腕には、観音の刺青が施されている。男は胡坐をかいた足の間に三味線を置き、大切なものを抱くように手を滑らせた。
「もう少しこちらへ来ないかい? よぅく顔を見せておくれ」
べん、と撥も当てていないのに三味線が音を立てる。
にゃあと小さく鳴いて、少女の腕から猫が飛び降りた。空になった腕を脇に垂らし、少女はフラリと一歩踏み出す。
フラフラと少女は男へ近づき、男もそれを見てニタリと口端を持ち上げた。節くれだった手が三味線から離れ、少女へ伸びる。その指先が頬に触れる、その直前。
「――ねぇ、いつになったら止めてくれるのかしら?」
少女の口が、不機嫌そうに動いた。
それに驚いたのは男の方だ。ギョッと目を見開いて男は腕を引く。しかしそれを許さないとばかり、強い力が男の手首を掴んだ。
「ごめんね。変化って久しぶりで」
男の手首を掴んだのは、先ほどまで影も見当たらなかった若い男だ。伸ばす手とは別の腕に少女を抱き、彼は申し訳なさそうに眉を下げる。
「ったく、そこで喋るかねぇ」
「まぁ、お姫さまを守るって言ったのは俺たちの方だしね」
別の方角からはハッキリ妖気を纏っていると分かる男が一人と、人間の匂いばかりの男が一人、姿を現す。目の前の彼からは猫の匂いがして、はめられたのだと気が付いた。
「三味長老」
景光の腕から抜け出して萩原の元まで下がった灰原は、冷静に目の前の男を判じた。
「なんだそれ?」
「有り体に言えば、三味線の付喪神よ」
「成程、今回の事件にぴったりだな」
呑気に納得する松田は、ギリギリと三味長老の手首を掴む景光の背中を見やった。
片方の手を掴んだ景光はグイとそれを捻り上げ、三味長老の胸を地面に押し付けた。
「最近の神隠し事件は、お前が原因だな」
「ぐ……私はただ、探していただけだ……」
「探していた……?」
「お前が、連れてきたんだ、その子がそうなんだろ?」
何を言っている。そう景光が問い返す前に、三味長老の手元から鼓膜をつんざくような音が響いた。音に驚いた景光を蹴り上げ、三味長老は彼の腕から抜け出すと萩原たちの方へ向かって走りだす。
狙いは、灰原だ。
「!」
「させるか」
灰原を抱きしめるように庇う萩原の前に立ち、松田は拳を構えた。楽器の付喪神が狗神に腕力で敵う筈もない。あっさりと横面に殴打を喰らった三味長老は、クラリと脳を揺らしながら倒れ伏した。
「ヒュゥ、さっすが陣平ちゃん! 愛してるぜ!」
「……千速みてぇなこと言ってんじゃねぇよ」
ボソリと呟き、松田は血の昇る頬を誤魔化すためにそっぽを向いた。
地面に転がった景光は起き上がり、脳震盪で起き上がれない三味長老を見下ろす。
「探していたって誰を……それに、俺が何の関係があるっていうんだ?」
ぐぅと呻きながら、三味長老は微かに頭を持ち上げた。
「……私の、娘……皮が破けてしまった、あの子を……治すために……」
「娘? 三味線の付喪神か?」
後から生まれた同族と家族関係を結ぶ妖怪は、そう珍しいものではない。特に無機物を元とするモノたちは、血の繋がりといった縛りが無い分、同族の繋がりをことさら大切にする。
「女の子の、付喪神……――まさか」
パチリ、と景光の脳の奥で弾ける記憶があった。
まだ家族と一緒に暮らしていた頃、三毛猫の景光をかまってくれる少女がいた。夜だけしか姿を現さないことを少し不思議に思っていたが、あれは家人が寝静まってから人に化けていたためだろう。その少女が、三味長老の言う娘なのだとしたら。
「あの子、壊れちゃったのか……」
持ち主の不注意なのか、景光には分からない。三味長老の言葉から推測することは、少女に化けていた三味線の付喪神は、本体である三味線が壊れてしまったことでその存在を喪ってしまった。父として契りを交わした男は、彼女を治そうと代わりの皮を探し――あの夜、景光たち家族を襲ったのか。
ギュッと景光は手を握りしめた。三味長老の悲しみは理解できる。しかし、それは彼が景光の家族を奪ったからだ。だから、それを肯定することはできない。
「それがどうして、人間の少女を浚うことに繋がるんだよ」
「……治せなかったんだね、娘さん。治せなくて、父親も、壊れちゃったんだじゃないかな」
ポツリと呟き、萩原は目を伏せる。
娘を治しきれなかったことで、三味長老の心が壊れてしまった。それでも壊れた心のまま娘を探し求め、彼女を探し続けたていたのだろう。人間と妖怪の、区別もつかないまま。
いつの間にか、三味長老はすっかり静かになっていた。気絶しているようだと、傍らに膝をついた松田が確認する。
「……」
「諸伏……」
「……うん、ごめん。この人、捕縛して伊達たちに引き渡そう」
萩原が声をかけると、諸伏はパッと顔を上げて口元に笑みを浮かべた。萩原が何も言えずにいるうちに、景光は松田に手を貸すため、三味長老の傍に膝をついた。
「ん?」
ふと、三味長老の胸元に何かを見つけ、景光は手を伸ばした。懐から零れ落ちていたのは、桜色の石の欠片。手の平に収まるほど小さなものだが、自ら光を放つような輝きを持っていた。
「何だ、それ?」
「分からないけど……」
微かに、スーパーですれ違った際に感じた邪気の気配がある。それに、景光はこの色に見覚えがあった。遠い昔、どこかで見たような、そんな既視感。

――りん。

「!」
ぞわり、と灰原は肌を撫でる冷気に肩を飛び上がらせ、萩原の袖を強く掴んだ。その様子に戸惑い、萩は彼女を見やった。
「どうかしたの、あいちゃ――」
萩原は言葉を止める。顎から喉にかけて、冷たい鱗がゆっくりと這っていくような冷気が、喉を絞めつけた。
「ハギ!」
それを切り裂いたのは、松田の声と拳だ。耳元すれすれに飛んできた松田の拳は、何も手ごたえを感じなかったようで、舌を打っている。しかし、萩原を絞めつけていた感覚はほぐれ、ホッと息を吐いた彼は松田の肩に凭れかかった。
「一体、何が、」
二人の様子にただ事ではないと察した景光も立ち上がる。しかし、彼もまた、謎の冷気によって身体を縛られた。萩原と違うのは、フッと耳元に息が吹きかけられたことだ。
「どこかで見た顔ね……まぁどうでも良いのだけど」
ふわりと、視界の端でプラチナの髪がたなびく。スルリと冷気が形をとって、景光の腕と胸に爪を立てた。
こちらへ駆け出そうとした姿勢のまま、松田と萩原はツンとつり上がった目の女性に牽制されて動けないでいる。唯一動かせる眼球を回し、景光は自身を拘束する存在の正体を視界に入れた。
プラチナブロンドの女性――いや、この気配は高位の妖怪だ。もしや降谷の言っていた、百鬼夜行の幹部。
「ベル、モット……」
「あら、知っていたの。……やっぱりどこかで逢ったかしら?」
「さあね」
素っ気ない返事を気にした様子もなく、ベルモットは固くなった景光の指を抉じ開け、その中にあった桜色の欠片を指で摘まみ上げた。
「これ、貰うわね。大切な探し物なの」
「……これが何だって言うんだ」
「さすがにそれは教えられないわ」
ベルモットは紅を引いた唇を持ち上げる。彼女の白く細い指の間で、桜色の宝石がキラリと輝いた。
そのとき、ヌッと伸びた手が、ベルモットの手ごと欠片を奪うように重なった。
「!」
いつの間に目を覚ましたのか、三味長老が身体を起こし、ベルモットの手から欠片を取り返さんと険しい表情を浮かべていた。
驚いたがいまだ指一本動かせない景光たちとは対照的に、ベルモットは「あら」と平坦な声を漏らす。
「これは、私の、だ」
ギリリ、と三味長老の爪が白い肌に食い込む。血が滲む様子を見せぬそれを簡単に払い、ベルモットは煩わしそうに吐息をこぼした。
それに「まずい」という感覚を抱いたのは景光だ。
彼は咄嗟に肩を掴むベルモットを払い、持ち上げた腕で目の前の三味長老の身体を突き飛ばした。
次の瞬間、景光の喉は唐突に胸を走った灼けるような痛みによって詰まった。
青い顔をする萩原と灰原、驚きと怒りで眉を吊り上げる松田。友たちの顔をぼんやりと眺めながら。景光はゆっくりと膝をつく。身体は景光の意志を離れて傾いていった。
「あら、ごめんなさいね」
雑用を頼むような軽い口調で言って、ベルモットは気配を消す。残された女性は何かを言いたげに柳眉を潜め、スッと松田に向けて小さく手を動かした。それに彼が気づいた途端、彼女も姿を消してしまう。
「諸伏!」
女性が消えたことで動けるようになった萩原が、灰原と共にうつ伏せで倒れる景光の元へ駆け寄った。
漸く音と痛みが戻ってきた感覚の中、景光の視界が徐々に黒く塗りつぶされていく。
(……零……)
胸を灼く痛みは、これで何度目になるのだろうか。ただ、またあの幼馴染を泣かせてしまうだろうことだけが、景光の中で後悔となって沈んでいった。
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