景零編(1)
妙な沈黙が、部屋に漂っている。それと一緒に空気も何となく居心地悪い気がして、萩原は思わず松田の肩にすり寄った。「おい」と顔を顰めて距離を取ろうとする彼の腕を掴んで止め、「どうにかしてくれ」と泣き言が口から零れ落ちる。
「諸伏ちゃん、何かあったのか?」
いつもはニコニコと丸くなっている目が今はツンとつり上がっていて、柔らかく綻んでいることが多い口はヘの字に曲がっている。一見すると兄の思案顔と瓜二つだが、漂う気配が不機嫌さを表していた。
さすがの伊達も、何と言葉を掛けたらよいのか分からず、腕を組んで唸るばかり。松田は盛大に顔を顰めた。
「景の旦那の感情を揺らす相手なんて……一人くらいだろ」
チラリ、と松田は窓から見える庭へ視線を向ける。萩原と伊達もそちらを見やって「ああ……」とため息を吐いた。
綺麗に整えられた庭で、顔を突き合わせている二人の男。ピンと立った耳と尾、目つきを鋭く尖らせた降谷。相対するのは、平素の様子で腰に手を当てる赤井だ。間に立つコナン少年が酷く困った顔をしているが、松田たちにもどうしようもない。それほど、降谷の頑固さは松田たちも知っていた。
「ま、そうばかりも言ってらんねぇがな」
ため息交じりに、伊達は呟いた。
彼らが追う、百鬼夜行の動きが活発化してきた。陰陽寮でもその存在は危険視されており、降谷自身も動く必要を検討していたところだ。そこで赤井が、助力の提案をした。どうやら降谷としては、それを素直に受け入れ難いらしい。
話が膠着していると感じたのか、コナンがそっと口を開いた。渋い顔をして彼を見下ろしていた降谷は、やがて深く息を吐く。さらに数度言葉を交わし、赤井が頷くと、降谷はフンと尾を翻して彼らに背を向けた。
「ゼロ」
どういった話になったのか景光が訊ねようとする前に、降谷はムスリと顰めた顔のまま口を開いた。
「百鬼夜行は赤井を追ってこの国にやってきた。だからアイツを囮にして一挙に捕縛することにする」
「相手の規模も分からないのにか? こっちが逆に取り囲まれる可能性もあるぞ」
伊達が言うと、降谷は分かっていると頷いた。
「だから、僕が潜って奴らを探る」
「危険だ!」
思わず景光は声を上げた。ただでさえ邪気に塗れた妖怪の集まりと聞いている。そんなところに、神の使いと等しい金毛九尾が接触するのは、最悪力を全て失くしてしまう可能性だってある。
「赤井は顔を知られている。僕はまだ奴らと繋がっているから、接触も容易だ」
「おい、零」
さすがの松田も顔を顰めるが、降谷はもう決めたと譲らない。景光はグッと眉間に皺を寄せて、彼の腕を掴んだ。
「……なら、俺も」
「……ヒロには、僕がいない間の山を頼みたい」
「ゼロ!」
パシ、と景光の腕をが振り払われる。思わず目を丸くする景光は、一度も目を合わせぬままその場を立ち去る降谷の背中を茫然と見送った。

「荒れてるねぇ」
普段よりも少し乱暴な足取りの景光を見やり、萩原は苦笑した。隣を歩く松田は同意も返さず、プカプカと煙草をふかしている。
あの後、景光は何度か降谷に進言を繰り返したがにべもなく、気まずい空気がずっと二人を取り囲んでいる。立場上、降谷の補佐に回る伊達と風見に彼のことを任せ、松田と萩原は景光のガス抜きを担当することとなった。
そして現在、三人は町へ買い物へと出かけているところだ。
景光は松田と萩原の視線の先で、黙々と商品棚を見つめては適当な食材をカゴに放り込んでいる。
「研二?」
そろそろ予算オーバーになりそうだと声をかけようとした萩原は、別の方角から聴こえてきた声に目を丸くした。棚の角に立っていたのは、パンツスタイルを凛と着こなした萩原の姉、千速だった。
「姉ちゃん」
「げ、千速」
傍らにいた松田は、ゲェと顔を歪める。それを目敏く見つけた千速は、踵を鳴らして距離を詰めると、彼の耳を摘まんで引っ張った。
「いって!」
「女性を見て一番、『げ』はないだろ。研二、番犬の躾はしっかりとしろよ」
千速が手を離すと、松田は赤くなった耳を摩りながら後退した。研二は苦笑しながら、ポリと項を掻く。すっかりガーゼの剥がれたそこは、スカーフによって噛み跡を隠している。姉である彼女には、例の儀式のことを説明してあった。
千早は腕を組み、小さく吐息を吐いた。
「……以前よりは火の気が和らいだようだな。安心したぞ」
「そう?」
姉からの親愛の眼差しは、この年になると正面から受けるのは気恥ずかしい。萩原は少し視線を外し、小さく笑んだ。
以前は焦げるような感覚が常に付きまとっていたが、あの儀式を経た今は暖かいものに守られていることを実感している。ぬるま湯に浸かるような、と形容すると油断できない感覚になるが、そこには素直じゃない彼の気持ちを感じるのだ。嫌なわけがない。
「うん、俺、元気だよ」
「そうか」
萩原が笑顔を浮かべると、千速は安堵したように口元を綻ばせた。
「おい、千速、手前、一人で先に行くな」
ゼーゼーと肩で息を切らした男が、買い物カゴを片手にやって来る。彼を「重悟」と呼んだ千速は、少しも申し訳ないという態度を見せず、クルリと振り返った。
「牛乳あったのか?」
「あったが……て、萩原弟か」
「ちわっす、横溝さん。ご無沙汰してます」
そこで重悟は萩原たちに気が付いたようで、コホンと誤魔化すような咳を零した。
横溝重悟。カマイタチ兄弟の弟で、風の眷属を惹き寄せやすい千速とは腐れ縁のような仲であると、千速本人の口から語られた。重悟としては別感情もありそうだというのが、弟である萩原の見解である。
「お前たちだけか?」
「あ、諸伏もいるけど……先行っちまったみたいだ」
進行方向を見て、そこに目当ての背中がないことに気が付いた萩原は苦笑した。あの様子では後ろを振り返るなんてこと、していなさそうだ。
「そうか……」
「どうかした?」
「いや……少し気がかりな事件があってな」
萩原と違い、人間社会で自立している千速は、警察官として働いている。主に交通違反を取り締まる白バイ隊所属だが、捜査一課に知り合いがいるとかで、度々怪異が絡んでいると思われる事件については、降谷たちに情報を流してくれる。
「小学生の女児の失踪事件が続いている」
「変質者の仕業か?」
サングラス越しに目を細め、松田も口を挟む。場所のこともあって、千速は辺りに目を配りながら、声を潜めた。
「さあな。目撃者の話では、霧の中に吸い込まれるようにして消えたと……一部では神隠しなんて呼ばれているらしい」
「……被害者は、見つかったの?」
「ああ。数日後には、何れも怪我一つなく。ただ不思議なことに、被害者たちはみな失踪当時は殆ど眠らされていたらしく、記憶はない。ただ、一言声を聞いたと証言した者がいてな」
――君じゃぁないな。
ぼんやりとした意識の中、落胆した声を聞いたという。
「老人の声だったらしい」
確かに、怪異が絡んでいる可能性はありそうだ。目的の人物がいて、それに似た者が狙われている。しかし怪我をしている者がいないということは、傷つけることが目的ではないということだろうか。
萩原と松田は少し顔を見合わせて、降谷にも今の話を伝えると千速と約束した。
「頼んだ。しかし、くれぐれも無茶はするなよ」
先日の一件を持ち出され、二人は素直に頷くしかなかった。

ハッと景光が我に返ったとき、数歩遅れて着いてきていた友人たちの姿はどこにもなかった。手にしていた製菓用のチョコレートの袋を見て、食材が山となったカゴを見て、そっと袋を元の棚に戻す。
「松田たちと合流しないとな……」
連絡は来ていないだろうかとスマホを取り出して、通路の対面から人が歩いていることに気が付いた景光はそっと棚の方へ身を寄せた。帽子をかぶった年かさの男は、ペコリと頭を下げて景光の空けた通路を通る。
景光は、スマホの画面に目を落とした。
「……!」
視界の端に映ったそれに、景光はハッとして振り返った。すぐに先ほどの男を探したが、広く利用客も多いスーパーマーケットのためか、どこにもその姿は見当たらない。
ギリリと歯を噛み、景光はスマホを握りしめた。
薄汚れた作業着姿の男がすれ違う瞬間、折って捲り上げた袖の下から覗いた刺青。袖に隠れて半分ほどしか見えなかったが、二の腕に彫られていた刺青は、景光の記憶に深く刻まれているものとそっくり同じだった。
鉄の匂いに満ちた記憶――父母を殺した男と同じ刺青だ。
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