長野の孔明と鉢合わせました。
ダラダラと、景光の額に浮かぶ冷や汗が止まらない。ピンと背筋を伸ばし、高すぎるベンチで地面に届いていない足も行儀よく揃えて座る。緊張で無駄に力が入った筋肉が、そろそろ悲鳴を上げそうだ。
それというのも、隣で済ました顔をして足を組んで座る男が原因だ。優雅に文庫本を取り出して、読書に耽る男。間違うべくもなく、景光の実兄、諸伏高明その人である。
(風見さん! みんな、早く戻ってきてくれ……!)
祈る気持ちでギュッと裾を握ったとき、「ほれみろ」と言いたげな陣平の顔が脳裏に浮かんだ。
どうしてこんな状況になったのか。
景光はただ、庁舎に数日泊まり込んでいる零に着替えと軽食の差し入れを持ってきただけだ。ただ、何故か長野県警にいる筈の高明と鉢合わせしてしまい、動揺する景光を面白がった陣平と研二が口八丁言いくるめて二人きりにしてしまったのだ。その戦犯二人と保護者一名は、風見を引っ張ってどこかへ行ってしまった。恐らくは零の顔を見に行ったのだろう。
景光も、零の顔を、見て確認しておきたかったのだが、まぁそこは彼らに任せることにして、この場をどうやって切り抜けるべきか。
グルグル目が回りそうなほど思案するが、自分よりずっと頭の冴える兄にボロを出さない自信がない。
「緊張しますか?」
突然声をかけられ、景光は肩を飛び上がらせた。ソロリと横を見やると、文庫本から顔を上げた高明と目が合った。思い出の中と変わらず真っ直ぐな高明の瞳に、景光は思わず顔を伏せる。
「す、すみません」
「いえ。初対面の大人と子どもが二人きりになってしまえば、それは自然なこと」
高明の視線が、チクチクと旋毛に刺さる。ダラリと額から汗が噴き出して、景光は不用意に指すら動かせない気分になった。どんな修羅場、命のやり取りを経験した潜入捜査中と言えど、これほどまでに緊張したことはない。
兄に対して、どうしてこれほどまでに緊張するのか。これが、陣平や航の言っていたことなのか、景光にはまだ分からない。
俯き続ける景光を見て、高明はフッと吐息を溢したようだった。思わず顔を上げると、高明は既にこちらから視線を外しており、文庫本も膝の上で閉じられていた。
「何か、悩んでいることが?」
「……え?」
高明は景光の方を見ず、庁内を忙しなく歩く人々へ視線を向けている。
「敢助くん……幼馴染に言われたことがあります。お前の目力は、子どもには圧迫感があると」
「へ、へぇ……」
そういう敢助自体も、子どもには刺激が強い相貌をしていた様な気がするが。
高明なりの気遣いととって、景光も歩いて行く人々へ視線を向けた。ぶらん、と足が揺れる。張っていた筋肉が、ほぐれていた。
「それで?」
「え?」
「悩みごとについてです。時間はありますので、私でよければ相談に乗りますよ」
「どうして……」
「君は、弟によく似ているので」
ドキリとした。景光はコッソリ高明を見やったが、彼は相変わらず前方を見つめたままだ。横顔から他意はないことが見て取れる。
「自分一人の力で問題を解決しようと焦り、周囲への注意力が散漫となる――目先の利益に飛びつくなと、以前も言ったつもりですが」
う、と声が漏れそうになった。高明の言葉が、チクチクと胸に刺さる。それを耐え、景光は首を傾げた。
「お、兄さんと会うのは、初めてだと思います」
「そうでしたね。『あなた』と会うのは、初めてでした」
ぎこちない景光の言葉に、高明の返答はサラリとしたものだ。コナンもこんな気分を味わったことがあるのだろうか、と景光の意識の欠片が現実逃避を始めた。
「灯台もと暗し――案外、探し物を照らすのは、月灯りかもしれませんよ」
「……――」
高明は、何かを察している。聡い兄のことだ。輪廻転生や憑依といった眉唾物を信じるほど夢想家ではないだろう。しかし、隣に座る子どもが、何かしら自分の弟と縁を持っていることに気づいている。それをはっきりと指摘しないのは、景光からの答えを待っているからだ。
「……例えばの、話なんだけどね」
動かした口は、少し渇いていた。唾を飲んで、景光はとつとつと言葉を紡ぐ。自然と、視線は自分の爪先へと落ちた。
「ちょっとだけ、人より持ち物が少ない子がいるんだ。でも別にそれが悪いとかじゃないし、その子自身も気にしてない、何も不利になることはない。あるとき、神さまが『ご褒美だよ』ってその子に持ってない分を貸してあげるんだ。その子はそれを家へ持って帰れるんだけど、神さまから借りているから、いつかは返さなくちゃいけない。そのいつかが来るなら……『借り物』は、その子のところに行くべきではなかったのかな?」
景光の言葉を終わりまで聞いて、高明はフムと顎に手をやった。
「抽象的すぎて少々分かりづらいですね」
「だ、だよね……」
ぼかしすぎたかと景光は口元を引きつらせる。
「推測するに『借り物』とは人、ないしは意思がある生物なのでしょう。『借り物』も、望んでその子の元へ行ったと考えて良いですか?」
「……うん」
『子ども』は零、『借り物』は景光たちのつもりだから、頷いておく。
事実をぼかしながらの相談は、酷く気と頭を使う。いっそ包み隠さず話してしまえば楽だろうが、他の意見を聞かずに独断で動くわけにもいかない。本音としては、こんな姿をそうと知られたくないという景光自身の羞恥心もあるのだが、こちらは大分隠し切れなくなってきた。
すっかり文庫本から手を離し、思案のポーズになった高明は足を組み替えた。
「『借り物』が、『いつか返却されなければならない可能性』を考えなかったとは思えません。それも覚悟の上で、その子の元に行ったと仮定しますよ」
「……うん」
「『返却すべき理由』は返却期限がきたからですか? 他に理由が?」
「えっと……『借り物』の代わりが、その子にできたから、かな」
灰原は、この状況をご褒美だと言った。周囲の人間より少し持ち物が足りない、降谷零に対するご褒美だと。だとしたら、零が、その持っていなかった物を――気の置けない仲間を、景光たち以外の誰かに見出したとき、『ご褒美』は取り上げられてしまうのではないか。
いつか醒めてしまう夢の可能性が、再び景光の胸を締め付けて鉛のように圧し掛かる。
景光は目を伏せる。柔らかい髪を梳くように動く手つきに、懐かしさが沸き上がった。
「『その子』のことも『借り物』との関係性も、私は分かりません。しかし、別離を惜しむほど、その絆は固いのでしょうね」
「……そう、だと思いたい」
「でしたらそう、考えるべくは後悔の内容ではないでしょう」
え、と音が口から零れ落ちた。顔を上げると、柔らかく微笑む高明と目が合う。形がそっくりだと、写真を見た友人たちが笑っていたことを思い出した。
「出会うべきだったか否かは、誰も判ずることができない。それは既に起きていることですから、今更考えても詮なきこと。それよりも大切なのは、『返却期限』までどう過ごすかでは?」
目元に垂れた髪を掬って、指の背で撫でつける。その仕草は自然で、景光も目を細めて受け入れた。
「逢うは別れの始め――出会いがあれば別れがあるもの。それはどんな存在でも変わらないものです。であるなら、当たり前に来るものに怯えて過ごすより、前向きに生きる方が得策では?」
スルリと景光の耳へ髪をかけ、高明は手を引っ込める。
「君が別離を恐れるのは、何故ですか?」
彼を一人にしてしまうからか、裏切りだと彼に罵られるからか、それとも。
「……かなしい、から」
景光が答えると、高明は「そうですか」とただ頷いた。
彼自身が自覚していないだけで、きっと彼を一人にしない人間はいる。裏切りと彼が思う筈ないことも、自分がよく知っている。それでもこの生にしがみついて、陣平たちに背中を押されたことを言い訳に、ずっと袖を掴んでいるのは――景光が、零の傍にいたいと思ったからだ。
情けない、と景光はこっそり唇を噛む。
零に、今目の前にいる自分を無視するなと言いながら、本当はあの家に行ったことをまだ後悔している。これは自分のためではあっても、彼のためにはならないのではないか、そう思っていた。そんなこと、答えは普段の零を見ていればすぐに分かった筈なのに。
(ゼロのことを一番分かっているのはオレだって、行ったくせになぁ)
景光は顔を伏せ、目元に手の甲を押し当てた。暫くその状態で息を整え、景光は少しヒリヒリする目元を和らげて顔を上げる。
「ありがとう、お兄さん。考えてみる。もしそうなったとき、どうすれば少しでも哀しくないか」
「そうですか」
ゆっくりと頷き、高明は小さな擦り傷になっている目元を指で撫でた。くすぐったさに目を細めると、「本当によく似ている」という高明の呟きが聞こえた。
そこでもしかすると、兄は自分を諸伏景光の隠し子と疑っているかもしれない、という考えが浮かんだ。それはそれで自分の評価が下がる気がしたが、ありのまま話すよりは信じやすいかと納得する。
「君の名前を聞いても?」
「え、あ、えっと」
「景光!」
どう名乗ろうか景光が口ごもっていると、エレベーターホールの方から大きな声が聴こえてきた。思わず驚いて振り返ると、大きく手を振った航が、固い顔の風見と共にこちらへ向かってやって来るところだ。
「景光?」と高明が眉を潜めて呟き、景光を見下ろす。あわあわと手を無駄に動かしながら、景光は航に視線で縋った。
それだけで状況を察したのか、苦笑した航は景光の目の前でパチンと手を合わせる。
「悪い、景。陣平たちがポカした」
え、と景光が首を傾げると、何やら面影のある顔をした女性が姿を現した。
「千速め、思い切り引っ張りやがって……児相案件だぞ」
「ごめんて、姉ちゃん……」
「お前たちが、私に隠し事できたことがあったか?」
火のない煙草をくわえた女性に首根っこを掴まれた研二と、その傍らで赤い頬を摩る陣平。何があったか、彼らの台詞と合わせて一目瞭然。「おや」という呑気な兄の呟きが、景光の旋毛に落ちてくる。
景光は、ヒクリと頬を引きつらせた。
「俺の勇気と努力を返してくれ!」
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