風邪を引くだけ、になりませんでした。
ぴぴぴぴ――部屋に響く電子音。グッタリとする身体からその発生源を取り上げ、航はため息を吐いた。
「三十八度……完全に風邪だな」
何かを言い返す気力もないのか、ヒューヒューと呼吸の音しか聴こえない。航は捲った布団を戻した。
彼が覗き込むベッドで横になるのは、この部屋の家主、降谷零だ。
ここ数日帰宅が深夜になっていたと思ったら、今日は珍しく起床が遅い。休日だし寝かせてやろうかと四人で話し合っていたところ、殆ど動くことのない気配に可笑しさを感じた。そっと部屋を確認してみれば、床に倒れ伏す彼がいたのだ。
帰宅直後、スーツ姿で力尽きていたため、夜の冷気と汗で酷く風邪を拗らせたらしい。力の入らない彼を何とか着替えさせ、ベッドに運んだのがつい先ほど。航を監視員に残し、景光はおかゆを作っている最中だ。
「おーい、調子はどうだ、零」
薬局へ買い出しに行っていた陣平と研二が、帰宅した。熱のせいで潤んだ青い瞳を覗き込み、陣平はニヤリと笑う。
「ダメそうだな」
「薬とアイス買ってきたから」
研二はそう言って、顔を引っ込めた。アイスを冷蔵庫へしまいに行ったらしい。入れ替わりに、土鍋を乗せたお盆を持って、景光がやって来た。
「ゼロ、起きて」
「……」
ゴホ、と咳を零しながら零は上半身を起こす。景光は椀におかゆをよそって、レンゲと一緒に彼へ渡した。卵を落とした粥を一口二口、零はゆっくりと嚥下する。はぁ、と熱のせいで随分と重たそうな吐息が、口から零れた。
「……情けない。風邪を引いて、お前たちに看病されるなんて」
「甘えとけ」
カラカラと航は笑うが、見た目小学生の子どもに三十路の男が甘えられるかと零は顔を顰めた。
「……油断した。最近、気が緩んでたな」
「ゼロにしては珍しいな」
景光も笑うと、零はムッと口を曲げて黙り込んだ。その様子に、景光は小首を傾げる。
「ゼロ?」
零はそれ以上何も言わず、がつがつとおかゆを腹に収める。それから研二の買ってきた薬を飲むと、その日は早々にベッドにへもぐりこんだ。

翌日。
「おい、大丈夫かよ」
「昨日に比べて随分楽になった」
マスクをして靴を履く背中を見やり、陣平は眉を顰めた。零は肩越しに振り返り、笑顔を浮かべる。マスクの隙間から漏れる呼気と少し引きつった目元が、彼がまだ本調子でないことを告げていた。
「やっぱり、オレもついて行こうか?」
「タクシーも呼んだし、一人で病院くらい行けるさ」
心配そうな景光の頭を撫で、零は鞄を手に取る。
「折角誘われたんだろ、遊園地」
「でも……」
景光と研二は顔を見合わせる。確かに、今日四人はコナンたちに遊園地へ誘われていた。保護者として零も呼ばれていたのだが、こんな調子だからと代わりを毛利に頼んである。
「大丈夫だって」
楽しんで来い、と手を振って零は家を出て行った。

「安室さんが風邪なぁ」
観覧車の列に並んだコナンは、景光たちの話に納得しかねると言った表情を浮かべた。怪我も隠して喫茶店のアルバイトをしていたタフな男が、そこらの病原菌に負けるとは少々信じられない。
「ゼロだって人間だしね」
苦笑する景光だが、どこか浮かない顔だ。歩美と係員に誘われるままゴンドラに乗ったコナンは、景光の向かいに座った。
一度に全員は乗れず、このゴンドラにはコナンと景光の他に、歩美と灰原と研二がいる。他は次のゴンドラだ。正統なるじゃんけんでの組分けである。元太と光彦は、大分文句を垂れていたが。
「気が抜けたのかもね」
「え?」
「安室さん、景光たちが来てから随分リラックスしてるみたいだし」
安室透としてポアロにいるとき、以前よりも少し雰囲気が柔らかくなったような気がする。灰原が言ったように、気の置けない彼らが傍にいるからだろう。
「そう、かな……そうだとしたら……」
ポツリと呟き、景光はゴンドラの外に視線をやった。
灰原と共に小さくなる町の風景を眺めていた歩美は、ふと同じように外を見つめる景光に目を止めた。
「……ねぇ、景光くん」
「ん? どうかした、吉田さん?」
声をかけると、景光はパッと笑顔を浮かべて振り返る。歩美は何となく、昔の灰原を思い出した。
「観覧車が終わったら、安室さんのお見舞い行こうよ」
「え……」
「そしたら、安心だよ」
誰が、とは歩美は言わなかった。景光は思わず灰原を見て、コナンを見た。灰原は目を閉じて肩を竦め、コナンは苦笑して頷く。ついでにニヤニヤと笑う研二と目が合って、景光は思わず吐息を漏らした。
「……ありがとう、吉田さん」
歩美が微笑んで頷いたとき、景光のスマホが着信を受けて震えた。
『景の旦那! すぐに椅子の下を確認しろ!』
焦った陣平の声。灰原が彼らの乗るゴンドラを見やると、元太と光彦が何やら大仰に手を動かしている。コナンはすぐに椅子を飛び降り、片膝をついて辺りを見回した。
次の瞬間、遠くで花火のような音が響き、ガクンとゴンドラが揺れた。

安室透名義の保険証で受付を済ませ、呼び出されるまでソファに腰を下ろす。背もたれに触れると、途端に力が抜けていきそうだ。安室は倒れないよう、壁の凹みに頭を寄せた。
これほどまでに体調を崩すのは、いつぶりであろうか。潜入捜査中は気を張り続けていたから、少しの風邪程度なら幾らでも動くことができた。大きなヤマが終わり、緊張の糸が切れてしまったのかもしれない。
「……いや、ちょっと気を抜きすぎただけだな」
家に帰れば彼らがいる。随分背丈は縮んでしまったが、態度や口調は記憶の中の彼らと変わらない。そんな平和な日々に、降谷零としての精神がすっかり緩んでしまったようだ。
思わず、笑みがこぼれる。
待合室は混んでいて、安室が呼び出されるまでまだ時間がかかるだろう。少し目を閉じても、良いだろうか。是か非か脳がしっかり判断する前に、安室の目蓋はゆっくりと降りた。
部屋の隅、観葉植物の傍らに設置されたソファは、日差しが柔らかく差し込んでいる。完全に死角にはならないが目立たないそこで、安室は静かに息を吐く。
彼の足元、ソファと床の間に、小さな音を立てる紙袋が横になっていた。

チッチッチ――コナンが慎重に持ち上げ、景光の空けた椅子に紙袋を置く。中から、時計のような音が聴こえる。怯える歩美を灰原が抱きしめ、景光と研二が見守る中、コナンはそっと紙袋を破いた。そこから姿を現したのは、見覚えのある機械の塊だ。
「……陣平、こっちにもあった。多分、そっちと同じC-4だ」
『ビンゴか』
スマホの向こうで、何やらカチャカチャと音が聴こえる。どうやら早速解体作業を始めているらしい。
『単純な作りだ。お手本通りに作りましたって感じだな』
「研二」
景光は研二へ声をかけた。研二は既に、腰から下げていたポーチを開いていた。そこには、簡単な工具セットが入っている。先日の事件以来、陣平共々持ち歩くようになった一式だ。本当に使うことになるとは思わなかったとぼやき、研二はドライバーをクルリと回す。
「解除できるか?」
「できないとでも?」
ニヤリと笑う研二に、コナンはギョッとして顔を上げた。戸惑うコナンの肩を押し、研二は彼と場所を代わる。
「おい」
「大丈夫。研二と陣平は、こういうの得意だから」
そこでコナンは、二人が元爆発物処理班だったことを思い出したのか、肩から力を抜いた。
「景とコナンくんは、こっちをお願い」
紙袋の端から取り出した何かを、研二は差し出す。それは小さなカードで、何やら暗号のような文字列が並んでいた。
『こっちの紙袋にも暗号カードが入ってるぞ』
スマホから航の声が聴こえる。警察には、航が連絡したらしい。ならば、警察が到着するまで暗号を解く時間がある。コナンは一応、観覧車に乗らず下で待っている毛利へもメールで一報入れた。
航たちのいるゴンドラから見つかったカードの内容と、景光たちの手元にあるカードの内容を合わせると、どうやらこれはもう一つ仕掛けられた爆弾の場所を示しているらしい。
『胸くそ悪い事件を思い出すな』
ボソリと陣平が呟いた。それは、景光も同意だ。松田が殉職する原因となった事件、まさにそれを模しているようだ。
「あの事件の犯人は捕まったから、模倣犯かも」
もしかしたら、この爆弾の場所も警視庁へ予告文として報せている可能性もある。
『おい、それならもしかしてこれ……』
連続爆弾魔の模倣犯。観覧車に仕掛けられた二つと、暗号で示されたもう一つの爆弾。航の焦った声と共に、景光の脳裏にある場所が浮かんだ。
もしも、あの事件と同じ場所に仕掛けられているとしたら。
「――ゼロ!」

周囲が騒がしい気がする。それに気づくと同時に、安室は自身が意識を飛ばしていたことを自覚した。マスクの中にこもった吐息が、朝よりも熱が上がっていることを伝えていた。
「……ん?」
目蓋を持ち上げると、ザワザワとした待合室の喧騒が耳に飛び込んでくる。受付を終えたときは、こんなに人の会話が飛び交う様子はなかった。辺りを観察すると、どうやら人々は待合室に設置されたテレビに注目しているようだ。バラエティー番組ではなく、ニュースだ。
『番組の途中ですが、ここで速報です――遊園地の観覧車で、爆発物が発見されたと――』
「!」
アナウンサーの読み上げた内容と、画面に映った遊園地の画像。それを理解した途端、安室はガタリと立ち上がった。しかし熱に冒された頭がクラリと回り、すぐにソファへ腰を下ろす。
(アイツらが行く筈の遊園地……いや、毛利先生とコナンくんもいる。何かあっても対処は……)
ズキズキと、先ほどまで気にならなかった痛みがこめかみを走る。頭へ手をやった安室は、グッと目を閉じて歯を噛みしめた。体調不良のせいか、嫌な想像ばかりが頭を巡る。落ち着けと心の中で何度も呟き、ゆっくりと息を吐く。
『続報です。どうやら、児童が乗ったゴンドラ内で爆発物が発見されたと、警察に通報があったようで――』
ヒュ、と喉が引きつった。ドクドクと、心臓が鳴る。いつか薄暗いセーフティハウスで読んだ、新聞記事を目の前に再び突き付けられた気分だった。
(風見に、連絡を……)
震える手でスマホを取り出す。テレビでは、映像を挟んで男性アナウンサーとコメンテーターの女性が何やら話を続けていた。
『どうやら、ネット上ではこの事件を示唆する予告メッセージが投稿されていたようです』
『確かに……マンションと観覧車を爆破させた嘗ての連続爆弾犯を、彷彿とさせるメッセージですね』
『この最後の一文は、どういうことなのでしょうか?』
ゲストの女性芸能人が、可愛らしく小首を傾げる。
『犯人の名前、でしょうか?』
『しかし「dear」とついていますから、特定の誰かを示しているのかもしれませんね』
『警察関係者、もしくは恨みを持つ対象への挑戦ということでしょうか』
恐ろしいと言ったように、女性芸能人は腕を摩った。
『誰をさしているんでしょうね……』
ボイストレーニングをしっかり行っているのだろう、よく通る彼女の声は、スルリと安室の耳にも届いた。
「……え」
着信音が途切れ、聞き慣れた部下の声がスマホから聴こえる。そちらへ言葉を返すことなく、安室はテレビの画面を凝視した。
『Dear ”FOUR-ROSES”(親愛なる”フォア・ローゼズ”へ)』

「いや、これは完全な模倣犯じゃない」
口元へ手を添えて考え込んでいたコナンは、そう断言した。
歩美から借りたゴムで襟足を縛り、研二はチラリと視線を上げた。閉め切ったゴンドラの中、上昇しつつある気温に、景光たちの額に汗が浮かぶ。それを拭いつつ、景光はどういうことだと訊ねた。
「模倣犯なら、この観覧車の前にマンションに爆弾をしかける筈だ」
「確かにそんな事件の話は聞いてないけど……」
「じゃあ、もう一つの場所が病院ではないってこと?」
「いや、それは間違いない。この二つの暗号が示すのは米花中央病院だ」
灰原の言葉に首を振り、コナンはカードを指で摘まんで見せる。解読した暗号の内容は、既に目暮たちへメールで知らせてある。
「灰原、お前、思い出さないか。観覧車と、そこに複数しかけられた爆弾――この二つの符号に」
「……まさか」
灰原は目を見開く。コナンは頷いた。
「東都水族館の観覧車爆撃事件」
「でもあれは!」
灰原はハッとして口を噤んだ。涙目で彼女にしがみついていた歩美が、汗と共に視界を遮るそれを指で拭い、首を傾げている。彼女の前でとある組織について口にすることは憚られ、灰原は下唇を噛みしめた。
コナンはクルリとカードを裏返す。
「そして、このカードの文字……『Dear ”FOUR-ROSES”』」
「それって……!」
その言葉に反応したのは、景光だ。『親愛なる”フォア・ローゼズ”へ』――その名前が示すものを、彼はよく知っている。
景光はコナンの肩を掴み、できる限り声を潜めた。
「まさか、狙いは……!」
「そうすると、違和感もある程度納得できる。奴らは以前も、病院に爆発物をしかけたことがある」
コナンも声を潜めて答える。景光はグッと顔を顰め、コナンの肩から手を離した。
「……取敢えず、こっちはあと青いコードを切るだけだぜ。そっちは?」
『同じだ』
時刻を示す画面に異常はない。ランプも点滅しない。トラップはないと判断し、研二は青いコードをペンチの間に挟んだ。
――パチン。

『また速報が入りました。先ほど、米花中央病院で、同一犯のものと思われる爆発物が発見、爆発物処理班によって解除されました』
『観覧車の方に仕掛けられた爆弾も解除されたということで、これで一安心ですね』
『はい。しかし警察では引き続き、犯人逮捕へ向けて捜査を進めていくということです――』
つまらないアナウンサーの台詞を、ボタン一つで遮る。静かになった部屋の中、卓上ライトが照らす机の上に、一つのロックグラスが置かれていた。
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