松萩松編(5)
「!」
炎を取り囲む結界を張り終わり、一息ついた降谷の頬を火の粉が掠めた。降谷とコナンが身構えると、近くの木の枝を揺らしながら黒い何かが地面へと降り立つ。
黒い衣を纏った影は、ユラリと金の髪を揺らしながら立ち上がった。ダラリと垂らした右肩から、血が滴っている。
「……イイズナか」
綺麗に頭の後ろでまとめた髪が、一房、頬へと滑り落ちた。平素ならさぞ麗しい形容詞で称えられるだろう顔が、嘲りと隠し切れない怒りで歪んでいた。
「煩わしいコバエがぞろぞろと……」
「ヒロを撒くとは、中々すばしっこいようだね」
ス、と伸ばした腕でコナンを庇いながら、降谷は一歩踏み出す。背中を丸めるように腰を落とした体勢で、イイズナは口角を持ち上げた。
「萩原に邪気を擦りつけたのもお前だな」
「……狗神のくせに、随分人間と仲良くしていたからな。呪い殺す手伝いをしてやったというのに」
くくく、とイイズナは喉を鳴らす。
イイズナ――管狐。イタチと似た姿を持つ、人の精気を食らって祟り殺す妖怪だ。多くが陰陽師の式神として使役されているが、単純な善良の妖怪というわけではない。飼育方法を一つ間違えれば、術者の富と精気を全て喰らい尽くすほどに大食で、偏食だ。
この女に化けているイイズナも、そんな風にして術者の手を離れ、思うままに人の精気を喰らって生きてきたのだろう。萩原を狙ったのはその食事の一環か、もしくは、同じ憑き物系である松田にちょっかいをかけるためか。
「どちらにしろ、その目論見はここまでだ」
肩にかけた羽織りを翻し、降谷はイイズナと間合いを詰めると、思い切り足を振り上げた。
的確に顎を狙おうとした足を左手で受け止め、イイズナは掴んだそれを軸に降谷の身体を振り回す。しかしそれに重心を取られる降谷ではない。地面についたままの足を離し、途中までイイズナの動きに合わせてから拳を腹部へ叩きこむ。
ぐ、と息を詰める音がする。僅かに力が弱まり、足が解放される。手をついて地面へしゃがみこんだ降谷へ、イイズナの拳が振り下ろされた。
(すげぇな、安室さん……)
着流しであそこまで自由に動ける人間を、コナンは他に知らない。景光も動けそうだが、彼はどちらかと言えば後方支援タイプなので、派手な動きをするところを見たことはない。松田たちは大抵洋装だ。
そんなことをコナンが考えているうちに、降谷は足を払われ背中から地面へ倒れこんだ。ぐ、と喉元を抑えるように黒いブーツの爪先が踏みつける。
「安室さん!」
「!」
痛みに歪む降谷の顔へ、影が差す。牙を向いたイイズナが、両手の爪を尖らせて飛び掛かった。
「ゼロ!」
スパン、と空を裂くように鋭い音を伴って、草履を履いた足がイイズナの右肩を蹴りつけた。横からの衝撃に対応できず、イイズナはゴロゴロと地面を転がって行く。
「無事か! ゼロ!」
「ヒロ……」
ゲホ、と咳き込みながら降谷は起き上がる。彼とイイズナの間に立った景光は、その声だけでホッと安堵したように息を吐き、蹲るイイズナから目を離さない。
少し着崩れした様子と擦り傷はあれど、景光に大きな怪我は見られない。降谷と同じく、彼も十分あの恰好で動き回れるようだ。
「九尾に猫又……何者だ、貴様ら」
解けた金の髪を乱暴にかき上げ、イイズナはユラリと立ち上がる。
「……お前は外ツ国からやって来たんだな」
「だとしたらなんだ」
「いや、随分無知だと思ってね」
それも仕方ないか、と降谷は鼻で笑って見せる。それが相手を煽る言葉だと、コナンでさえも察した。正面から向けられたイイズナは殊更腹を熱くしたようで、カッと目を見開いた。間に立つ景光が不憫だ。
降谷は腕を組み、フフンと鼻を鳴らした。九本の尾が、さらに煽るように揺れる。
「この街は僕の縄張りで、あの人間と狗神は僕の庇護下にある。藪を突いたのは、お前の方だ」
「……成程。貴様の眷属だったわけか。そこの猫又のように」
チラリと、つり上がったイイズナの瞳が景光を映す。その視線と言葉に不快感を示すように、景光は眉を顰めた。
「……残念ながら、彼らは眷属じゃない。ただの腐れ縁さ」
そして、と言葉を切り、降谷はチラリと視線を動かした。その先にあるものを確認して、口端が持ち上がる。
「――信頼できる仲間だ」
降谷の視線の意味を察したのか、同じ方向を見やったイイズナが目を見開いた。
「珍しいこと言うじゃねぇか、零」
掌の乗せた呪具をグシャリと握り潰し、バラバラと破片が風に舞って散る。開いたその手に促されるまま、コナンは拾ってあったサングラスを渡した。レンズが欠けたサングラスを耳にかけ、松田はニヤリと笑って見せた。
「野火は?」
「あっちでおねんねしてるが、大分邪気に塗れてやがったからな……あまり希望は持てねぇぞ」
残念だったなと松田が揶揄すれば、イイズナはフンと鼻を鳴らした。
「そいつはただ利用しただけだ。ちっぽけなウィスプの癖に、人にちょっかいをかけたがっていたからな」
「陰陽寮に報告が上がっていた、不審火の野火だったか」
遅かれ早かれ、伊達たちが捕縛する予定だった対象だ。だからと言って、この状況は望ましいとは言えない。
「さて」
降谷が口を開く。ジリ、と足へ力を入れていたイイズナは、突然背後から飛んできた気配に身を固くした。振り返る間もなく、それは背中と肩にぶつかり、そこを起点としてバチバチと電撃がイイズナの身体を走る。
「ぐぁあ!」
「ったく、丸腰二人が威勢よく吠えてんじゃねぇよ」
人避けの結界を張ってから急いで戻ってきたのだろう、伊達は何かを投げつけた体勢のまま、肩で息をしていた。
膝をついたイイズナの肩越しに、伊達の投げつけた札がコナンの目に入る。妖怪を対象にした捕縛術だ。
彼の行動も計画済みだったのだろう、悠然と腕を組んだ降谷は顎をそっと撫で、口端を持ち上げた。
「王手かな」
膝をついて項垂れるイイズナは、諦めたような笑みを浮かべながら左手を上げた。伊達が近づき、懐から捕縛術の札を取り出す。
「そのまま大人しくしてろよ」
「ああ……」
イイズナはすっかり大人しくなった様子で、伊達の言葉に応える。ユラリと持ち上がった左手が、後頭部で結わえられていた髪へと伸びた。
「! 伊達、避けろ!」
「っ!」
動きの可笑しさに気づいた降谷が声を飛ばす。咄嗟に踏み出しかけた足を止めた伊達は、イイズナが髪の奥から取り出したものを見て目を丸くした。
手の平に収まる程度のガラス玉。その中で炎の形をした邪気が揺らめいている。爆弾と同じ効果を齎す呪具だ。「まだ持ってやがったのか!」という松田の叫びを耳で捉えながら、伊達は足首を捻じって射程範囲外へ飛び出そうとする。
「伊達!」
助走が足りない。ある程度の衝撃を覚悟した伊達の身体が、唐突な横からの打撃を受けた。
そのまま林の方へ倒れこんだ伊達を見て、コナンは咄嗟に足元の石を思い切り蹴り上げた。宙を飛ぶ小石に瞳の焦点を合わせ、強く念じる。
「――当たれぇ!!」
キン――コナンの神通力によって後押しされた小石は、イイズナの手から離れた呪具とぶつかり、天へと押し上げる。コナンの意図を察した降谷が張った結界が四方を囲んだ瞬間、青い空で呪具が爆発した。
最後の一手も失敗に終わったとみるや、イイズナは逃走を図る。松田がその行く手を阻み、背後から景光がイイズナの身体を地面へ伏せさせた。
「ぐぅ!」
「ふう」
パラパラと降ってくる破片を払い、降谷は息を吐く。
「間一髪だったな」
「――って、おい!」
イイズナを景光に任せ、松田は林に倒れこんだ伊達の方へ駆け出す。葉の作る影の中で揃って寝転がる二人を見下ろし、松田は顔を顰めた。
「何でお前がここに来てんだ――ハギ!」
ムクリと身体を起こし、砂のついた頬でヘラリと笑って見せたのは、怪我のため安静を言いつけられていた筈の萩原だ。
「俺だけ仲間外れとか、そりゃないぜ」
「あのなぁ!」
萩原のお陰で難を逃れた伊達は強く言えないのか、ため息を吐いて「あとは任せた」と松田の肩を叩いた。イイズナの拘束のため降谷たちの方へ向かっていく伊達の背中を見送り、松田は深々と息を吐いた。
「……ほんとに、なんで来やがった」
「陣平ちゃんが、また無茶してるんじゃないかと思って」
立てた膝に腕を乗せ、萩原は小首を傾げて松田を見上げる。ク、と我知らず手に力が入り、松田は視線を逸らした。
「……俺が、弱いから、またお前が怪我をした」
「そんなこと……」
「俺は!」
萩原の言葉を遮り、松田はギリリと歯を噛みしめる。
「……お前の、狛犬になるために、あの小屋を出た」
あの日、降谷が外ツ国から帰還したとき、萩原は火傷を負って布団の住人になっていた。ずっと小屋の中に引きこもる松田を外へ連れ出そうと腕を引いた瞬間、萩原の特性と松田の制御できない妖気が混じり合い、邪気が小屋を全焼させるほどの炎となって具現化したためだった。
曲がりなりにも狗神を宿す身体だ、松田は邪気に強く、怪我も酷くはなかった。それに比べて、萩原は常人離れした特性を持っているが、身体自体は普通の人間だ。巨大な邪気に耐え切れず、一時は生死の境を彷徨っていた。
怪我の治りを促すために萩原へ水の加護を与えた降谷は、松田に二つの道を示した。そのうちの一つ――萩原の狛犬となり、降りかかる火の粉を払う役目を松田は選んだ。
萩原は笑みを引っ込めて、立ち上がった。そっと俯く松田の前に立って、脇に垂れたまま震える手に、自分のそれを重ねる。
「もう付き合えねぇって言ってたくせに」
「うっせ、言葉の綾だ」
萩原の狛犬となるために松田は妖気の制御を訓練し、小屋から出てある程度普通の生活を営めるようになった。
「……なのに、俺はまた、お前を、」
「陣平ちゃん」
俯く松田の頬を、萩原は掌で挟み込んだ。蛸のように唇が突き出し、松田の言葉が不格好に途切れる。思わず松田がギロリと睨めば、相変わらずヘラリとした笑みが返って来た。
「俺、知ってるぜ。もう一つの道」
「は……?」
「あの降谷が、松田にだけ話して俺に秘密にするなんて、不公平なことするわけないっしょ」
ベリ、と萩原の手を剥がしながら、確かにと松田は内心納得する。
「俺、陣平ちゃんが今のままで苦しむくらいなら、そっちでも良いと思ってる」
「ば――何言ってんだ!」
松田は思わず声を荒げた。
「意味分かってんのか? ただの封印術や加護とは違ぇんだぞ! 下手すら末代まで影響するかもしれねぇんだ!」
「うちの家系はそもそもそんな感じの集まりだし、二子の俺に家名を継ぐ権利ないしなぁ」
のんびりとした調子で萩原は言う。確かに、彼の姉が萩原の名を継ぎ、後に続く子どもを産むことにはなるだろうが、それにしたってもう少し躊躇って良いと松田は思う。
「お前は!」
「俺は、松田と一緒にいたいよ」
松田の手を握り、萩原は笑う。いつもと少し違う、照れたような様子と手へ触れた熱に、彼の緊張が伝わって来る。
「なぁ、松田」
「……」
黙り込んだままの松田を、萩原は覗き込む。小首を傾げるような彼の額へ、松田の指による鋭い突きが叩きこまれた。
「あで!」
「……仕方ねぇなぁ」
一突きで赤くなった額を摩りながらも、萩原は手を離さない。思わず「へっ」と笑みを零し、松田は唇から犬歯を覗かせた。
「後悔すんなよ」
「! おう!」
萩原は、嬉しそうに頷いた。
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