松萩松編(2)
狗神は、蟲術の一種だ。飢餓状態の犬の頭部を人が往来する道へ埋めたり、届かない位置に餌を置いて飢餓状態にしてから首を刎ねたりと、幾つか方法は伝わっているが、何れも平安の時代に禁止令が出されている。
自分の狗神が何を目的として、どのような方法で成りえ、現代まで存続しているのかは分からない。興味もないので調べたこともない。一説には耳より体内へ入り、内臓に居つくという。そうなれば最早、その人間は狗神そのものではないか――少なくとも自分ではそう思っている。でなければ、こんな納屋に閉じ込められる理由がない。
(腹減った……喉も乾いた……)
極限の飢餓状態。もう少ししたら、自分も体内にいた狗神が元々そうされたように、首を刎ねられるのだろうか。その方がマシかもしれない。身体という柵がなければ、いつでも憎い奴らの喉元に噛みついてやれそうだ。
カタン、と耳が数日ぶりに音を捉えた。自分の様子を見るためだけに作られた小窓が、開いていた。いつもそこが開くときは息をしているか、動いているかそれを観察するだけの無機質な目が覗き込んでくる。しかし、この日は違った。
「何してるの、君?」
子どもの顔が、そこから覗いていた。
「……お前こそ」
渇ききった喉でも、掠れた声が出る。
「俺? 俺はこの山のお狐さまに用事があって」
「……俺はそこそこここにいるが、そんな奴会ったことないぞ」
咄嗟に言い返して、しかし稲荷のような狐だったらこんな自分に会いに来る筈がないとも思う。
子どもはがっかりしたように、肩を落とした。
「じゃあ、またダメかな」
「……何の用事だったんだよ」
「俺、ちょっと変な体質だから、その相談」
チリ、と砂に塗れた産毛が逆立った気がした。静電気ではない。子どもの傍らでチリチリと弾いているのは、火の粉だ。
「――鬼火だって呼ばれてる」

「萩原さん」
処置室からやっと出て来た萩原は、見えるところにこそガーゼや包帯の姿はなかったものの、どこか疲れた様子だった。それでも待合室の椅子に座っていたコナンへ笑顔を向け、わしゃわしゃと頭を撫でる。
「悪いな、怖いところ見せて」
「僕は平気だよ。それより、大丈夫?」
萩原は少し眉尻を下げた。
「背中をちょっとね。でも陣平ちゃんが早めに反応してくれたから、そこまでじゃないよ」
チラリと萩原の視線を受けた松田は、ダラリと崩れた姿勢で壁にもたれている。萩原より早く処置室から出てきた松田の、ポケットに入れられた手は火傷のために包帯が巻かれていることを、コナンは知っていた。
「さっき連絡したら、伊達さんがもう少しで迎えに来てくれるって」
「サンキュ」
もう一度コナンの頭を撫で、萩原は待合室のソファに腰を下ろした。隣に座ったコナンは思わず「……大丈夫?」ともう一度訊ねていた。萩原はヘラリと笑みを浮かべた。
「まぁ、慣れてるしね」
「慣れんなよ」
近くに立っていた松田が、固い声を出した。コナンが吃驚してそちらを見ると、サングラス越しだが明らかに不機嫌な色をした瞳が萩原を睨んでいる。それに気づいているだろう萩原は、しかし笑みを崩さなかった。
「痛いのはやっぱり嫌だけどさ、今は陣平ちゃんがいてくれるし」
だから平気だと、萩原は呟く。松田のポケットの膨らみが、少し和らぐ。コナンは、ずっと握りしめられていた松田の拳が解かれたのだと察した。
「松田さんと萩原さんって付き合い長いんだね」
「まぁね。ほら俺、家の中で一番体質が重いからさ、降谷ちゃんのところに相談しに行ったんだよ。そこで陣平ちゃんと出会ったってわけ」
当時、降谷はちょっとした理由でこの国を出ており、萩原が彼と出会うのはそれからまだ暫く後のことになる。
壁に背中と後頭部をつけたまま、松田はじっとサングラスの隙間から萩原を見つめる。
――おい、ハギ! ハギ!
煤と赤に塗れた身体が、土に頬を擦りつける形で力なく倒れこんでいる。肩を揺すって必死に呼びかけても、閉じられた目蓋は一向に動く様子がない。炎の熱で手を焼かれる一方、手の平で触れた身体はどんどん冷えていくような気がして、ゾッと心臓が嫌な音を立てた。
(……ち、嫌なこと思い出した)
舌打ちして、松田は目を閉じる。
萩原の背に貼り付いて彼を舐めようと蠢く炎は、あの日から変わらず松田の瞳に焼き付いていた。



「警察の話だと、煙草を落とした男の足取りはまだ掴めていないらしい」
迎えに来た伊達は、車の中でそう言った。
火が燃え上がった直後、松田と萩原はそちらに意識を取られていたし、我に返ったコナンが辺りを見回したときには野次馬が集まっていて、それらしい人物は既にその場を去っていた。
「ち、人に火ぃつけといて雲隠れか」
「後は任せよう。それより萩原だ」
助手席に座った松田は、ミラー越しに後部座席を見やる。コナンと並んで座っていた萩原は、疲れが出たのか船をこいでいた。コナンも目を閉じてはいるが、あの様子から聞き耳を立てていることだろう。
「糸はすぐにでも編めるが、問題は水晶だ。降谷も、そう簡単に用意できるものじゃない」
「……だったら尚更、アイツは暫く山を降りない方がいい」
低い声で呟く松田に、伊達はギョッとした。「おいおい」とハンドルから手を離さないまま一瞥すると、松田は懐にしまっていた何かを伊達の膝に放り投げた。
掌サイズの絵馬だ。伊達も見覚えのある朱印が入っている。それが雷でも直撃したように真二つに割れ、その断面を黒く焦がしていた。
「気休め程度に貰った札もそんな調子だ。人間の警察には荷が重い」
「おい、こいつは……」
「今回の火種は、怪異だ」
降谷手製の護札。簡易なものとはいえ、このような壊れ方をするとは。
「百鬼夜行……」
「あ?」
「最近、降谷が気にしている。ほら、あの赤井って退魔師が追いかけている妖怪集団だ」
「そいつらの仕業か?」
「かもしれんし、それに触発された他の奴らのやんちゃかもしれん」
ギリ、と助手席から音がする。伊達は前方へ視線を向けたままだったが、松田が強く歯噛みしたのだなぁと予測した。
「……ふざけんなよ」
泥のように低く重たい呟きが車内に落ちる。ピクリと、後部座席のコナンの肩が揺れた。
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