狐と子猫
子猫が一匹、山の中に転がっていた。キュウキュウと気道から音はするが、小さく泥だらけの身体にもう力は残っていないようで、その場にペタリと倒れこんだまま動く気配がない。
ふと、子猫の上に影が差した。金色の尾と耳を揺らしながら、影は膝を折る。
「木霊連中が騒がしいと思ったら、お前か」
声をかけるが、子猫は相変わらず空気の抜ける音しか発しない。子どものような小さな手が伸びて、子猫をそっと抱き上げた。
「声も出ないか、ここまで来るのに頑張ったんだな」
柔い温もりに触れ、そこで子猫は目蓋をチロリと持ち上げた。
晴れ間の青空よりもっと澄んだ青い瞳が、子猫を見つめている。よく日に焼けた頬がいたずらっぽく持ち上がった。
「良いよ、うちにおいで。ちょうど話し相手が欲しかったんだ」
まだ一つしかない尾を揺らして、狐は軽い足取りで山道を歩きだした。



景光は、父と母と兄と暮らす猫だった。ある日、理由は分からないが人間に襲われ、逃げるうちに家族とはぐれてこの神山に辿り着いた。後に兄と再会するまで景光は、家族は全て殺されてしまったと思っていた。
鳴き声を失うほど衰弱した景光を拾ったのは、神山の社を塒にする化け狐だった。名前は零。その頃は特に神山全体を管理するほどの力はなくて、精々近所に住んでいる人間からたまにお供え物を貰う程度だった。
社の世話をしているという人間の後をついて歩いたり、山を散歩したりする日々。景光は、その後ろをさらについて歩いた。時折、決まったテンポで尻尾を地面に叩く。すると前を歩いていた零は足を止め、景光の方を振り返ってくれる。狐と一緒に決めた、声の代わりの合図だ。
「ヒロ」
ある日、零は昼寝をしている景光を叩き起こして、小さな腕に抱え上げた。どうかしたのかという意味を込めて、尻尾で零の腕を叩く。この頃にはすっかり身体も回復して、普通の猫のように鳴くことはできたけど、まだ零のような言葉を紡ぐことはできなかった。
「外ツ国に出かけようか」
ちょっと山を降りようか、と同じ調子で言われたものだから、景光の目はパッチリと冴えた。三つまで増えた尻尾を揺らし、零はいたずらっ子のような笑みを浮かべた。
後から聞いたところによると、社を管理する人間から見聞を深めるために勧められたことであったらしい。まぁ景光にしてみれば青天の霹靂であったが、零との旅は悪くないと思い、同行を了承した。
それなりに長い旅をしたと思う。旅の途中で零の尾は九つに増え、景光の尾も二つに分かれた。外ツ国に合わせた名前を名乗ったり、現地の妖怪たちと行動を共にしたり。楽しい日々だった。いざ帰郷してみれば長く山を留守にし過ぎたしわ寄せとして、面倒ごとが待っていたが。その一つに、萩原と松田との出会いが含まれている。

「成程、君らがスコッチ、バーボンと名乗っていたのは、その遊行の中でか」
「そう、だから完全にアイツラの仲間だったか、って言われるとそうじゃないかな」
縁側に腰掛け長い足を組んだ赤井は、もう一度頷いて空を見上げた。その隣に座布団を持ってきて寛いでいた景光は、暖かい陽光に目を細める。
「俺は表だってヤツらと接触はしてないけど、何だかゼロの方は気に入られたみたいで、宿や食事の代わりに密偵みたいなことはしてたよ」
そういうとき、景光は大抵零の補佐のために見張りをすることが多かった。二人が関わっていた頃は、そんなに目に見えて邪気を振りまく様子はなくて、ただ人間世界では生きづらい妖怪たちのたまり場という印象だった。
「……まぁ、人も妖怪も、時間が経てばどこかしら歪んでいくものだ」
「え、零も?」
思わず口をついて出た言葉を、数拍遅れで自覚して景光は顔を伏せた。虚を突かれた顔をする赤井の視線を手の平で遮り、かぶりを振る。
「いや、待て、今のなし。なんか恥ずかしい」
陽光に充てられて寝ぼけていた頭が瞬間的に冷め、今の状況に疑問が浮かんでしまった。何故赤井と話をしているのだ。しかもよりによって零の話題で、そんなことを赤井に聞いてしまうなんて。
「……まぁ彼は、どちらかと言えば神に近いからな、綺麗なんじゃないか?」
「だから、なしって言ったろ!」
景光が欲しくなかった、赤井からの零に対する評価。こちらを気遣うような声が、さらに惨めさを増す。全て景光自身の心の持ちようが原因ではあるのだが、じわじわと赤くなる頬を抑えきれない。
零が事あるごとに彼に突っかかっている理由が、少し分かった気がした。
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