ハロウィンの夜。
降谷には、とある爆発事件のニュース映像で生存を知ったと言ったが、あれは嘘だ。本当はもっとずっと前から降谷のことを見ていた。ずっと、傍にいた。

薄暗い路地に一台の車が止まっている。月光を受けた白い車体は、発光しているようにも見える。その運転席に腰掛け、男は深く息を吐いた。
ハンドルに手をかけると、固定していない二の腕が痛んだ。それと一緒にじわりとジャケットが色濃い染みを作る。借り物だったことを思い出した男は、染みを見て顔を歪めた。
「あとで染み抜きしないとな……」とぼやく口が重くなる。それと一緒に首も傾き、やがて男はハンドルに凭れかかった。
このまま眠るのはまずいと思いつつも、疲労の溜まった身体はすぐに動かない。そもそも三日近くも、あの椅子と固い床しかないシェルターの中で過ごしていたのだ。適度な運動はしていたが、それでも普段の日常とはほど遠い。
数分だけ。そう心の中で言い訳を呟き、男はゆっくりと目蓋を下ろした。

小さい寝息だけが落ちる。雲の切れ間から降り注ぐ月光が、車の窓ガラスを通って、男の頬に一条の筋を伸ばす。
閉じられた目蓋の上に、月光とは違う仄かな光が通り過ぎた。それは何度もそこを行き来し、やがて輪郭をなぞるように額へと昇って行く。光は、人の指先の形をしていた。
指の根元を辿って行くと、それは助手席へと向かう。いつの間にかそこに座っていた顎髭の男は、眠る男の耳元へ落ちる髪をそっと掬うように指を動かした。しかし爪に引っかかりもしない様子を見て、眉を下げる。
コツン、と助手席側の窓が音を立てる。黒いスーツの男が、くわえ煙草で寄り掛かり、空を見上げていた。
運転席側では、ルーフに片肘をついた制服姿の男が、車内を覗き込んでニヤリと笑う。
フロントガラスの向こうでは、地面に座り込んでいるのか、視線の低くなった男が爪楊枝をくわえていた。
「全く、無茶するぜ。今回ばかりは肝が冷えたぞ」
「へ。俺の情報と技術がありながらの失敗なんて、許さねぇよ」
「相変わらずアクセル全開なのは、らしいけどね」
鉄の壁に阻まれているにも関わらず、外にいる男たちの声はよく聞こえた。顎髭の男はクスクスと笑い、もう一度眠る男の頬へ手を伸ばした。触れられない、感触も体温もない。そっと翳すように手を寄せ、男は口元を和らげる。
「頑張ったな、零」

諸伏景光は、幽霊だ。ついでに言うと、隣に並んでいる三人の男たちも同様である。現在は同期で唯一生き残っている降谷零に付き(憑き)まとっている。
一番早かった萩原は、初めは姉や松田の間をうろうろしていたが、松田も爆死すると二人揃って自分たち所縁の人間のところを回っていたらしい。その過程で降谷の顔を覗きにきたところ、じっとベランダに立つ諸伏を見つけたという。暫く三人で降谷を見守っていると、伊達まで現れた。
これはもう、降谷まで仲間入りしないよう――万が一にでもそうなってしまったとき、すぐに出会えるよう――がっちり憑いてしまおう。そう提案したのは萩原だ。
諸伏は最期の心残りが遺していく幼馴染の安否だったから、顔を一目見て元気そうだったらそれで終わりにするつもりだった。しかし無茶ばかりする幼馴染から目が離せなくなり、松田たちにも腕を掴まれて、ズルズルとこの幽霊生活を続けている。
部屋で一人、パソコンの画面へ向けてグラスを揺らす降谷を、諸伏はベランダ越しに見つめた。
ブルーライトに照らされる幼馴染の横顔には、一抹の寂寥と懐古が浮かんでいた。奇しくも事件を通して触れた自分たちとの思い出の残滓に、思いをはせているのだろう。
死んだ人間は、生きている人間の思い出の中でしか生きられない。
降谷の中で、諸伏たちは既に過去の人間だ。どう足掻いても、今の諸伏の声や手は、降谷には届かない。
降谷だけでなく、松田とバディだった佐藤も、伊達の後輩だった高木も、未来を向いている。過去に囚われているのは、諸伏の方だ。今回の事件で、それがよく分かった。
そろそろ潮時かもしれない。諸伏の考えをくみ取ったのかは知らないが、萩原が夜の街を見たいと言い出した。まだ後始末の余韻が冷めきらない渋谷の街を、萩原を先頭に文句を言いつつ松田も続く。諸伏は伊達の後ろ、最後尾をトボトボと歩いた。
「死者の祭りだから、話せるかと思ったけどそうでもないのな」
「お盆でさえできなかっただろうが」
「精霊馬にも乗らずに浮遊霊やってるしなぁ」
前方を歩く友人たちの会話を聞きながら、諸伏はぼんやりと空を見上げる。青白い満月がぽっかりと、夜の穴からこちらを見下ろす目のようだ。
――クン。
「え」
突然、襟首を引っ張られた気がした。諸伏は咄嗟に足を踏ん張り、前にいた伊達のジャケットを掴んだ。
「は?」「ぐぉ!」「わ!」
伊達は松田の肩を掴み、松田は萩原のベルトを掴み、萩原はつんのめって足を滑らせ。普段なら、そんな連鎖など起こらなかっただろう。諸伏が伊達のジャケットを掴んだのも、続いて他の二人も同じように前を歩く相手を引っ張ったのも。ハロウィンの夜に起こる、一つの奇跡だったのだ。

「……ん?」
パチリ、と諸伏は目を開いた。視界に飛び込んできたのは、雨漏りの染みだらけの天井。東京の親戚の家だろうか、いやあの家はこんなにボロボロじゃなかった。目蓋の重さを感じながら身体を起こす。
「……あれ?」
目元を擦ったとき、違和感に気づいた。何だか目元に触れるものがプニプニとしているような、それに心なしか小さいような――。
「はあ?!」
思わず声が裏返った。
ビクリと傍らに転がっていた塊が幾つか、その声に触発されて動く。もぞもぞと持ち上がったのは、三つの頭だ。
「何だよ、景の旦那……」
「ふぁああ……何か久しぶりによく寝たかも」
「……これはどういうことだ?」
後から目覚めた三人のうち、一番早く状況を察したのは伊達だった。続いて欠伸をしていた松田と、眠い目を擦っていた萩原も目を丸くする。
「は、はあ?! なんで――子どもになってんだよ!!」
面影は残るものの、すっかり小さくなった同期たちの姿に、松田は大声を上げた。
すぐに部屋の向こうでバタバタとした足音が聞こえて、低い男の怒鳴り声が響いた。
「うるせぇぞ! 夜中に叫ぶな!」
ビクリと肩が震える。声に驚いた、だけではない。カタカタと震える手は、声の男の短気な性分をよく知っているようだ。諸伏の記憶ではない。
混乱で瞬きを繰り返す諸伏の肩へ手を回し、伊達は静かにするよう合図する。自分の手で口を覆っていた萩原と松田も、コクリと頷く。落ちていた布団を頭まで引っ張り息を殺していると、やがて男の足音は遠くへ消えていった。
「……どういうことだ?」
「何か、身体が痛むと思ったら、今のやつが原因かな」
「さっきまで渋谷の街にいた筈だが」
「生きて、る?」
少しずつ震えが止まっていく手の平を見つめ、諸伏は呟く。
生きている。手の感触、熱がある。トクトクと、小さいながらも心臓が鳴っている。松田たちの顔を見る限り、相貌も諸伏とそう乖離していない筈だ。しかし、その年齢は恐らく十もない子ども。
「……生まれ変わった、のか?」
諸伏がポツリと呟く。その答えを、他の三人も持っていなかった。
目覚めた場所は、都内の養護施設だった。それもこの時代にしては珍しいほど、劣悪な環境の。何度松田が拳を振り上げかけたことか。子どもの身体では大人に敵わないと、つど萩原が止めた。三十にも近い人生経験を基に、当たり散らす職員をうまくいなす傍ら、諸伏たちは現在の情勢について調べた。
結果、時はあのハロウィンの日から連続しているということ。降谷零の名前は相変わらず見つからず、黒の組織についても同様。しかし米花町の喫茶店ポアロに関する情報に、写真こそないが名物店員の存在を匂わすものがあるため、安室透はまだ存在しているらしい。
「てことは、今なら、正面から会いに行けるな」
そう言いだしたのは松田だ。好い加減、養護施設の環境に嫌気がさしていたこともあるのだろう。乗り気になった萩原が、及び腰になる諸伏の腕を引いて、保護者感覚で見守る伊達も一緒に、四人はある夜、養護施設を飛び出した。
「取敢えず零のとこだな」
意気揚々と夜の町を歩く松田と萩原の背中を見つめ、諸伏は足を止めた。
「ほ、本当に行くの?」
ピタリと松田と萩原は立ち止まり、振り返る。伊達は諸伏の隣で、彼の言葉を待っている。
「諸伏ちゃんは、零に会いたくねぇの?」
「今まで、ずっと無事な姿を見て来たから……」
「あー、じゃなくて。もう一回話したくないの?」
「ああ」とぼやいて、諸伏は目を伏せた。
「……話すことはしたいかな、うん。ちゃんと、褒めてやりたい」
あの時の選択自体を、後悔したことはない。あの屋上に降谷がやって来ることは分かっていたから、足音の可能性にも気づいていた。それでも、諸伏は引鉄を引いたし、そのときの銃口は自身の左胸に向けていた。降谷を、仲間と家族を守るために。誰に何を言われようと、降谷自身から咎められようと、諸伏はその選択を否定しようと思わない。
悔いることがあるとすれば、最期の言葉だ。別離でなく、激励にすれば良かった。そうすれば、降谷はもっと早く諸伏の死から立ち直っていただろう。
「お前はすごいって、この調子でやれよって、一言言ってやりたいな」
「それだけか?」
腕を組んだ伊達が、神妙な顔で問う。諸伏はコクリと頷いた。
「ああ。俺はゼロにそれだけ言えれば満足だから、その後は……あそこに戻るのはさすがに嫌だし、別の養護施設を探して……」
「諸伏」
自然早くなりかけた諸伏の舌を、鋭さを持った伊達の言葉が止めた。
「本当に、それだけでいいのか?」
ぐ、と諸伏の喉に小さい粒が詰まる。サイズの大きいシャツの裾を掴んで、諸伏は俯いた。
「……ゼロは、もう俺のことを吹っ切ってるんだ。今をキチンと生きている。なのに俺だけこんな……子どもが見る夢みたいな状況になって……これ以上、アイツの重荷にはなりたくない」
諸伏たちは既に、今の状況についても推測を立てていた。所謂輪廻転生にしては、転生までのスパンが短い。ノータイムだ。それに『諸伏景光』ではない記憶も、薄っすらとある。憑依のような状態なのではないか、というのが四人で出した結論だ。ハロウィンという、死者と生者が交わる不安定な夜、器となった身体に、近くを通りかかった諸伏たちの魂が引っ張られた。
まさに夢だ。いつ覚めるとも分からないひと時の夢。今はたまたま、元の身体の持ち主である子どもたちの魂が表層に出ていないだけで、ある日突然、諸伏たちの魂が放り出される可能性だってある。
「未来を見つめているゼロに、いたずらに夢を見せて勝手にいなくなるようなことがあったら……俺は今度こそ、自分を赦せない」
「……つまり景の旦那は、零に一言告げたらさっさと雲隠れする、と」
「死ぬつもりはないよ。万が一のことはあるし……まあ、ゼロには会わない、かな」
降谷は精一杯、人生を走っている。こんな姿になってまで現世にしがみついている自分に、何ができるというのか。
伊達は難しい顔をしていたが、じっと諸伏の顔を見つめて耳を傾けていた。萩原は途中から「うわぁ」と顔を顰めたり、「うーん」と腕を組んで唸ったり。松田が一番不機嫌露わに、眉間へ皺を寄せた。
「だーもう、まどろっこしい!」
俯く諸伏の鼻先に、松田の指が突き刺さった。
「そんな倫理観や後ろめたさは聞いてねぇんだよ! 俺たちよりも長くアイツの傍にいて、俺たちよりも早くアイツのことを見ていたのはお前だろ! アイツが、零が、お前の命一つ拾ったくらいで倒れるたまかよ! 日本背負ってるんだぞ!」
ぎゅ、と諸伏は裾を強く握りしめる。興奮しかける松田の肩を叩いて落ち着かせながら、萩原は諸伏の肩へ腕を回した。
「俺も同意。零だったら俺ら四人くらい、養ってくれそうじゃん」
「養ってって……」
諸伏は思わず口元を引きつらせる。萩原はカラカラ笑って、もう一方の腕を松田の首に絡めた。
「確かに俺も不安なところはあるよ。『萩原研二』として、姉ちゃんたちに会いに行っていいのか……でも、それでも零なら、受け入れてくれそうだなって思うじゃん」
別に、家族を疑っているわけではないけれど。
諸伏はハッとして、萩原の顔を見やった。
諸伏と違って、松田たちは降谷に拘る必要はなかった。幽霊として見守っていた頃も、子どもの身体を得た今も。存命の家族や同僚のところへ行っても良かったのだ。それでも、諸伏と同じように降谷の傍に留まって、彼を見ていた。
「あのなぁ、お前ばかりじゃないんだぜ」
腕を組んだ伊達が、ため息交じりにそう言った。
降谷に会いたかったのは、目を合わせて話がしたかったのは。家族や同僚に対する情はあるが、それも降谷のところにいれば何とか叶いそうな気がした。
「一緒に零のところ行こうぜ。それで、今度こそずっと一緒にいればいい」
「な?」と萩原は片目を瞑る。諸伏は戸惑いながら、松田と伊達を順番に見やる。ニヤリと口端を持ち上げる二人は、萩原と同じ意見なのだろう。
――五人いれば、
「なんとかなるっしょ」
ぷ、と諸伏の口から息が漏れる。服の裾を握りしめていた手が、自然と口元へ上がる。
「ゼロがなんていうかも分からないのに……大きくでたな」
笑顔を見せた諸伏に、松田たちは安心したように顔を見合わせた。
「あながちそうでもねぇだろ……ていうか、零のことをこの中で一番よく分かっているのは、」
「俺、だね」
ずっと傍にいたから、離れていても彼のことが分かる。今の降谷は完全に独りではない。部下がいて協力者がいて、仮初の姿でも知人がいる。それでも、諸伏が傍にいられるのならそうしたい。
「無茶するゼロを追いかけられるのは、俺だけだって思いたいな」
「景の旦那が一番だろうさ」
決まりだ、と言うように、萩原の腕から解放された諸伏の背を、伊達が叩く。諸伏は三人の顔を見回して頷いた。
チカ、と目の端に眩しい光が入り込む。思わずそちらへ顔を向けた四人の視界に、街を白く染め始める太陽の姿が映った。

「警察庁に行っても追い返されるだろうな」
「先に保護されると動きにくいし」
「なら、目的地も決まりだな」
「零の家、一択だろ」
ニヤリと笑って、松田は足元に落ちていたヘアピンを拾い上げた。

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テーマ「人外ファンタジー」
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