第5話
ぴちょん、ぴちょん。
ドロリと肺にまでへばりつきそうな臭いと、生温い空気。時折立つ水音は無機質な気配しか感じられないから、ここはまだ安全地帯の筈だ。
耳に取り付けた通信機からは雑音ばかりで、こちらからの通信に応答もなし。思わず吐息が漏れた。すると、ただでさえ慣れない場所で落ち着かなかった隣の男が大仰に反応を示した。
「地上の奴らはどうなっている!」
泥で汚れた白衣の裾を揺らし、男が怒鳴る。その声は丸い屋根にぶつかってワンワンと響いた。
こだまが落ち着くまで待ったが、男はゼーゼーと肩で息をする。その後ろで下っ端がオロオロとした様子で縮こまっていた。
「大声を出すな、気づかれる」
白衣の男をあしらう声も、つい吐息交じりになってしまう。泥に塗れたことのない後方支援の人間の扱いは慣れない。その本音が見え隠れしたのか、白衣の男はギリギリと歯を噛みしめた。
「港倉庫のアジトもダメ、森に隠した研究所もバレた……くそ、なんでこんなことに……」
「おい、お前」
それを無視してオロオロするばかりだった下っ端へ声をかけると、若い彼はビクリと肩を飛び上がらせた。
「イタリア本部との連絡はとれたか?」
「いえ、それがまだ……どうも、こちらが出したものとは違うジャミング電波が、町を覆っているようで……」
「別のジャミング電波? 奴らはただの子どもの集団だろ?」
苛々とした様子で腕を組んだ白衣の男が、眉を顰める。
「『侮れん子どもの集団』だ。現にこちらは追い詰められている。優秀な技術者が一人くらいいたとしても不思議ではない」
音に聞こえた暗殺部隊を退けたと聞いたときから、もう少し警戒するべきだった。
「ならばどうする! 何のためにお前らと手を組んだと思っているんだ!」
五月蠅い男だ。思わずこめかみへ手をやって、溜息を吐いた。
「そちらは再びマフィア界に返り咲くため、こちらは相容れないマフィアへ一矢放つため。そういう話だったな」
「そうだ。その足掛かりとしてこちらの技術力を貴様らに提供した。その対価を払え」
暗殺を専門とし、世界の影とされるマフィアの中でも、さらに夜にしか生きられない名無しの鼠(ラット)。彼らを共犯とし、科学技術を提供する対価として、その暗殺術で更なる発展のための炎エネルギー回収を依頼する。
細い糸を括りつけたような不安定な関係だが、ラット側が強く科学者たちの手を切れないのは、彼らの頭脳がラット側に必要だからだ。良くも悪くも暗殺専門、目的を果たすための立ち回り方は、科学者たちを頼るしかない。
しかし現場を知らない男の相手は疲れる。こちらの頭痛など察しない科学者上がりの男は、カチカチと歯を鳴らしている。もう付き合っていられない。
立ち尽くしたままの下っ端を呼ぶと、彼は目立った反応を返さずに両手を脇に垂らしていた。
「おい?」
「……成程、名無しの鼠(ラット)と根なし草(エストラーネオ)の同盟といったところか。鼠色(グリージャ)と名乗るから要らぬ邪推をしてしまった」
下っ端の口から洩れたのは、酷く落ち着いた声。先ほどまでのオドオドとした様子と乖離している。
白衣の男も様子の可笑しさに気づいたのか、言葉を止めている。ゾワリと肌を撫でる寒さに、灰色の装束の男は警戒を高めた。
「彼らに伝える必要は……なさそうですね。彼なら研究所を突き止めた時点で理解するだろう」
下っ端の服の裾が、ユラリと藍色に溶ける。まるで霧のように辺りへ漂い始めたその藍色は、間違いようもなく炎エネルギーだ。
「これは、霧……!」
「クフフ……」
フードに隠れていた下っ端の瞳が、ギラリと光る。赤い瞳に、白衣の男は思い当たるものがあった。
「まさか、貴様、六道――」
白衣の男は震える指を持ち上げる。スパ、と空気が切れ、赤い飛沫が白衣を汚す。一拍おいてコロコロとコンクリートの地面へ落ちた指を見て、白衣の男は目を丸くした。ぽちゃん、と汚水の中へ指が落ちる。
「う、わああああ!!」
慣れぬ痛みに喚き、男は蹲る。致し方なしと彼を背後に庇い、灰色装束は袖に仕込んでいたナイフを取り出した。
「ボンゴレの術士か」
「その括りも気に入らない」
下っ端を包んでいた霧の炎がゆっくりと晴れ、一人の青年が姿を現す。特徴的な三叉を手にした青年は、口元へ薄く笑みを浮かべて蹲る男を一瞥した。
「僕は、僕の好きなように動くだけです」
彼の左耳でキラリと揺れるイヤリング。そこに刻まれた『VONGOLA』と『X』の文字に、灰色装束は眉を顰めた。
「ボンゴレの仲間ではないと?」
「利用するものは利用する。そちらのスタンスと一緒です。ボンゴレは手段であり――標的だ」
パチン、とどこかで音がした。
灰色装束がハッと気づくと薄暗がりの下水道が、汚水と岸辺の境も掴めぬような煙一色の景色に塗り替えられる。術士による幻覚。そうと気づいても遅く、灰色装束と痛みに呻く白衣にそこから抜け出す術はない。それすら、自覚できぬまま。
「では、もう少しだけ情報をいただきましょうか」
ぎょろり、と四方を取り囲むように宙へ浮かぶ赤い瞳から目を逸らせないまま、灰色装束は幻覚の空間に囚われた。



キラリ、とクロームの耳元でイヤリングが揺れる。彼女と合流して指示を待っていたジュリーはそう言えばと顎髭を撫でた。
「クロームちゃん」
「……」
「え、どういう表情?」
無表情だが、心なしか瞳が冷たい。ジュリーなりの配慮だったのだが、そうと分かっていてもどこか納得できないというか、複雑な思いが胸中を巡るといった風。
クロームはゆっくりと息を吐いて、首を振った。
「ごめんなさい。で、何?」
「いや、そういえばイヤリング、クロームちゃんが持ってるんだなって」
言いながら、ジュリーは自身の左耳を指で突いた。次期ボンゴレボスである沢田綱吉とその守護者に渡されているボンゴレギア。クロームも成り行き上、霧の守護者の一角を担い続けているとはいえ、『正式な』霧の守護者は別の男だったと、ジュリーは記憶している。
デーチモの家庭教師曰く、そんな霧の在り方こそ、ファミリーの実態を掴ませない使命を体現している、と。
手の平で包むようにイヤリングに触れ、クロームは「ああ」と呟いた。
「これ、偽物」
「……え?」
「……じゃなくて、えっと、贋作、レプリカ」
曰く、ランボ用の匣と共にタルボたちが開発したボンゴレギアのレプリカ。出力は本物に遠く及ばないが、それを同等までに錯覚させているのはクローム自身の霧の有幻覚である。霧の守護者を、一角と言えど名乗る以上、他の守護者が持っているボンゴレギアを、クロームだけ持たないのでは恰好がつかないとリボーンが進言したのだ。
「はへー、成程」
トントンと鎌で肩を叩きながら、ジュリーは呑気に頷く。
ゾワリ。
その時、ベロリと舐められるような寒気がジュリーとクロームの背筋に走った。
トンタン、と軽い足音を立てて振り返り、二人は鎌と槍を構える。
「な!」
「!」
そこには気絶させて拘束した敵マフィアがいた。そのうちの一人が、口端から涎を垂らし、唸るように声を上げる。身体の筋が切れてはくっつき、肉が裂けては増殖する音が混じる。異形と呼べる形に、影が変わっていく。
「これは……」
ゴクリ、とジュリーは唾を飲みこむ。胸元で抱きしめるように槍を握りながら、クロームはそっと耳元へ手をやっていた。
「骸さま……!」



イタリアと日本の時差は八時間ほど。昼下がりの並盛町でそんな戦いが繰り広げられる頃。イタリアのとある郊外では夕陽の赤に混じってドロリとした深い赤が、地面を濡らしていた。
大きく息を吐いて、青い炎を額に灯した少年――バジルは顎の汗を拭う。
「ヴォオイ、こっちの様子はどうだぁ!」
転がる人間と瓦礫を蹴り上げながら、ドタドタと大きな足音を立ててスクアーロが声をかける。バジルに比べて返り血の少ない彼は、長い髪をバサリとかきあげた。
「オールクリアでござる」
「ベルたちの方も同じだ。後は中枢に入ったマーモンの情報待ちだな」
スクアーロの言葉に適当な相槌を打ちながら、バジルは口元へ手の甲を添える。ハッハ、と短い呼吸を繰り返す彼を一瞥し、スクアーロは舌を打った。
「ったく、とんだ任務になったな」
「……同じ暗殺部隊として思うところが?」
「ハ! やつらの暗殺術は俺らとは違う。金のための刃だ」
最強を目指した剣や、己の美学の拳――根底に忠義や義理、生命への執着はあるだろうが、ヴァリアーのメンバーの大部分を占めるものはそういったことに基づく誇りだ。しかし、同じ暗殺部隊ではあるが、彼らは生への執着がむき出しになっている。
「ここにいたのかい、隊長」
「マーモン」
フヨフヨとシャボン玉のように宙を浮きながらやってきたマーモンは、丁度良い足場とばかりバジルの頭に乗った。少し遅れて、随分血の汚れが目立つベルが欠伸混じりに歩いて来る。彼は瓦礫の一つに腰を下ろし、血で濡れた頬を袖でゴシゴシと擦った。
「で、成果は?」
「上々さ」
スクアーロの言葉にフンと鼻を鳴らし、マーモンは抱えていた書類を殆ど投げるように彼へ渡した。その態度に眉を顰めながらも書類へ目を落としたスクアーロは、一枚それを捲る度にますます眉間の皺を深くした。
「……胸糞悪い」
小さく吐き捨てるスクアーロに首を傾げると、自分の目で確かめろとばかり、バジルは顔面に書類を叩きつけられた。
「撤退だ」
「あ、おい!」
バジルを置いてサッサと部隊を引き上げる指示を出すスクアーロ。顔から滑り落ちる紙を拾いながら、バジルは彼の背を呼び止めた。
「任務は果たした。それを基にこの後どうするかはそっちの領分だろ」
「もう終わりかよ、つまんね」
「今日の分の手当は、後で門外顧問宛に請求するから」
それぞれ勝手なことばかり言って、戦場を後にしていく。それを見送り、バジルは吐息と共に目を、手元の書類へと落とした。数分も経たぬうちに、丸い瞳をさらに大きく見開く。
マーモンが敵ファミリーの中枢から持ち出した書類は、今並盛町で行われている作戦についてだった。目的や概要は、既に家光やスクアーロたちが推察していた通りだった。彼が息を飲んだのは、そこに用いられる手段に関する記述だ。
「これは……もう人間兵器じゃないか!」
ぐしゃりと、紙が音を立てて握りつぶされた。



通信機にノイズが入る。通信相手もこちらも移動をしているため、電波が揺れているのだろう。会話には困らないので、獄寺は気にせず言葉を続ける。
「どこも同じ状況か?」
『ぽいぜ。さっき、同じような感じで走ってく雲雀を見た』
「はあ? アイツ、どこにいやがったんだ」
「獄寺、後ろ!」
小脇に抱えたランボが叫ぶ。獄寺は咄嗟に瓜の匣を開き、背後に飛んできた攻撃を切り裂いた。
「こっちはアホ牛たちを回収した。そっちはポイントまで後どれくらいだ?」
『一分程度かな』
ブオン、とエンジンを思い切り吹かす音が聴こえる。
「芝生ヘッド!」
『紅葉と共に、もうスタンバイ済みだ!』
「クローム!」
『……あと百メートル』
『そちらはどうなの?』
走っているのだろう、息が切れている様子のクローム。その声とかぶさるようにして、落ち着いたアーデルハイトの声がする。森の中を駆け抜けていた獄寺の視界に、目的の場所が映り込んだ。
「――もう着く」
ザッ――ランボを小脇に抱えた獄寺、らうじ、シットピーが飛び込んだのは、ホテルが視認できる程度の距離にある森の中。視界や動きの邪魔にならないよう、木々が伐採されたちょっとした広場となっている場所だ。既に了平や紅葉、アーデルハイトたちは揃っており、炎の塊のようなものと対峙していた。
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