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目を開くと、視界いっぱいに広がっていたのは緑という色だった。
深い緑だけが続く森の中、独りの幼子がちょこんと地面に座っている。周囲に大人の姿は見えず、人の気配もない。幼子は丸い目を大きく開き、ぼうっと青空を見上げていた。
森だけでなく、幼子が独りでいて不安を抱かない場所はないだろう。事実、幼子は先刻まで泣いていたらしく、目の下が赤い。
がさり、と幼子の近くの草むらが揺れる。ビクリと肩を震わせ、幼子は揺れた草むらをじっと見つめた。
草を掻き分けて現れたのは、幼子にとっては初めて見る未知なる生物――だがこの世界にとっては何ら不思議ではない生物――ポケモンだった。その中でも、ニョロモと呼ばれる種族だ。
「……あー?」
上手く喋れない幼子が声を発すると、その存在に気がついたニョロモは驚いて飛び上がった。しかし相手が無害そうな幼子で、どうやら親もなく独りだと察すると、怖々ながらも近寄っていく。やっと自分以外の生き物を見つけ、しかもそれが向こうから寄ってきてくれたものだから、幼子は嬉しくて顔を綻ばせた。
「あー!」
「……」
満面の笑みで、幼子は柔い手をニョロモに伸ばす。
肌に触れた温かさと柔らかさに、この子どもの傍らならずっと居ても良いかもしれない――後にそれが叶えられ、ニョロと名付けられるこのニョロモは、その時そう考えるのだった。



それから、随分と時が過ぎた。モンスターボールに入っていたニョロは、転寝から目を覚ました。懐かしい夢を見ていたらしい。ニョロがそんな風に腰で揺れている間、嘗ての幼子はどうやら電話の最中だったらしく、昔と変わらない笑い声を立てていた。
「……でどうだ?」
画面の向こうで笑みをこぼすグリーンへ、レッドは苦笑を返す。喜びと、ほんの少し不安の入り混じった顔。その意味を、ニョロも何となくわかる気がした。
「良い人たちだよ」
嘗ての幼子――レッドは、今日からとある家族に仲間入りする。
彼に家族というものがないとグリーンが知ったのは、もう随分前のことだった。彼の勝気な瞳が、珍しく寂し気に揺れる様子を初めて見たのも、その時だ。そんな彼の傍らにいてやりたいと、グリーンが思い始めたのも同じ頃。
転機は、先日のナナシマ騒動をテレビで知ったとある女性が、レッドにかけてきた電話だった。
ハナコと名乗ったその女性は、ポケモントレーナーの息子が二人いる。しかし、実はもう一人、その子が物心つくかつかないかの頃、生き別れてしまった息子がいたらしい。彼女の住まいはマサラタウン、そしてはぐれた子どもの瞳は赤だという。
「今更かもしれないけど、私はあなたの母親になりたいの」
独りにしてしまったことを、赦してもらおうとは思わない。けれどせめて、もう独りじゃないと知ってほしい、家族がいると分かってほしい。泣きながら、ハナコはそう告げた。
震える指先で手を握る彼女へ、レッドは自分の意志で言葉を返した。それは、グリーンにとっても喜ばしいことだった。
「いざとなったら、この家も懐かしいな」
離れがたいと呟いて、レッドは物がすっかりなくなった部屋を見回す。ハナコたちの住んでいる家に引っ越すため、すでに部屋にはこの電話しか置いていない。大分古びているこれも、もうすぐ処分するつもりでいた。
「……帰る場所が変わって、家に入るとき帰って来る言葉が増えるだけだろ」
「そんなもん?」
「お前は難しく考えすぎだ」
ポケモンバトルに関してはエキスパートと呼ばれるほど大胆で怯みない戦法をとるくせに、自分自身のことに関してはこうも臆病になる。グリーンはその様子を一笑に付した。
ムッと少し眉を顰めるレッドへ、グリーンは口元を和らげて見せる。
「『行ってらっしゃい』レッド」
「……行ってきます」
何か文句を言おうと開いた口を閉じて、レッドは少し照れたように呟いた。ほんのり赤くなる頬を手の平で擦り、耳元の髪をかき上げる。
「……」
「またな」と通話を切ろうとする彼を、グリーンは咄嗟に呼び止めた。しかし小首を傾いでこちらを伺う姿に、言葉は自然と喉の奥に引っ込んでいく。グリーンは目を伏せゆるく首を振った。
まだ不思議そうな顔をしていたレッドだが、素直に通話を切った。
プツンと黒くなる画面を見つめ、グリーンは深く息を吐いた。通話を切ったレッドは、これから顔を合わせる新しい家族へ思いを巡らせ、照れた笑みを浮かべているかもしれない。それを眺めることができないのは少し残念だが、同時に安堵もしていた。
「ヘタレ」
いつからそこにいたのか、開け放した窓の縁にブルーが腰を下ろしていた。帽子を手で抑えた彼女は、からかうように口端を持ち上げている。
ポケモン協会カントー本部でグリーンに与えられたこの部屋は、地上からそれなりに高所にある。カメックスの放水でも限度があるだろうと思ったが、どうやらトレーニングとしてボールから出していたリザードンが運んだらしい。窓の外から少し申し訳なさそうな顔をしているリザードンを見て、文句を言う気も失せたグリーンは吐息を溢した。
「何の用だ」
「ちょっと近くに来たから、様子見に来たの。グリーンがちゃぁんとレッドに告白できるかなぁって」
予想通りできていないようだが、とブルーはニヤニヤ笑う。何とでも言えと視線だけやって、グリーンは席を立った。
自覚して、その想いの本当の名を理解しても伝えることをせず、隣に立ち続けてきた。その時間を思えば、今更すぎることだ。
「伝えれば良いのに」
「あいつは困るだろう」
家族からの愛情さえ受け入れるのを戸惑うレッドだ。長年親友と思っていた相手からの情愛を知ったとき、どんな反応をするか想像に難くない。
アポなしとはいえ客人のブルーを置いて、グリーンは部屋を出て行ってしまう。そんな友人にため息を吐いて、ブルーは帽子を脱いだ。傍から見ている身としては、やきもきしてしようがない二人である。
「迷惑料として、ネタになってもらおうかしら」
ニヤリと彼女は笑みを浮かべると、ポケギアを取り出した。発信先は、つい先日存在を知った、従妹である。

ブルーのメールは電波化し、数分後にはナナシマ在住の少女のポケギアを鳴らした。
丁度仕事のためにパソコンを触っていたリーフは、キーボードを打つ手を止める。それから少し離れた場所に置いていたポケギアに手を伸ばす。発信者の名前に思わず頬は綻び、続いて開いた内容に苦笑が零れた。
「幼馴染ってのは、どこも同じなのかぁ」
さて、どう返信しようかと考えながら、リーフは長時間同じ体勢でいたため凝り固まった身体を解す。少し気分転換しようと、窓を開いた。晴天が続くナナシマの空は、目が覚めるほど青い。
「ん?」
ふと、視界の端に虹色が映ったような気がした。しかし改めて目を凝らしても、そこには青が広がるばかり。そもそも虹は、雨がなければ現れない。だが、ここ一週間ナナシマは雨どころか雲ひとつ見かけなかった。
「疲れてるのかなぁ」
依頼とは言え、無理をし過ぎたかもしれない。こみ上げる欠伸を隠すことができず、リーフは身体を伸ばしながら窓に背を向けた。早々にベッドへダイブした彼女が、窓のサッシに落ちた虹色の羽根に気づくことはなかった。


20201025改稿
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